資治通鑑晉紀三十八 安皇帝 義熈 八年 412年

正月・二月 西秦の内政と北魏の人事

  • 春正月、乞伏乾帰は再び彭利発を討ち、奴葵谷まで進むと、彭利発は軍を捨てて南へ逃げた。乾帰は乞伏公府に追撃させて清水で斬り、羌戸一万三千を収め、乞伏審虔を河州刺史として枹罕に置いて帰還した。
  • 二月丙子、東晋では呉興太守孔靖が尚書右僕射に任じられた。
  • 乞伏乾帰は都を譚郊へ移し、平昌公熾磐を苑川に鎮させた。
  • 乾帰は吐谷渾の阿若干を赤水で破り、降伏させた。

劉道規帰還と劉毅の荊州赴任

  • 夏四月、劉道規は病を理由に帰還を願い、許された。彼は荊州在任中に少しの私犯もなく、帰る際には府庫・帳幕まで旧時のまま整っていた。随行兵二人が船上で席を移しただけでも、市で刑に処した。
  • 後任として、後将軍・豫州刺史劉毅が衛将軍・都督荊寧秦雍四州諸軍事・荊州刺史に任じられた。
  • 劉毅は劉敬宣に南蛮校尉府長史として補佐するよう求めた。敬宣は不安を覚えて劉裕に告げたが、劉裕は表面上これを安心させた。
  • 劉毅は剛愎で、自分の起兵の功は劉裕に等しいと自負し、内心では服していなかった。文雅にも通じていたので、朝士のうち名望を求める者の多くが彼に集まり、謝混・郗僧施らと深く結んだ。
  • 劉毅は上流を押さえて密かに劉裕に対抗する志を抱き、交・広二州の兼督を求め、これも許された。さらに郗僧施を南蛮校尉、毛修之を南郡太守とすることも認められた。
  • 劉裕は郗僧施に代えて劉穆之を丹陽尹とした。

劉裕、劉毅を警戒

  • 劉毅が墓参のため京口へ向かおうとすると、劉裕は倪塘で会った。
  • 胡藩は劉裕に、劉毅は戦場では勝てないから従うが、学識や談論では豪傑を自任し、士大夫が群がっているので、最終的には配下に甘んじないだろう、会見の機に除くべきだと進言した。
  • 劉裕は、互いに国難を救った功があり、罪状が明らかでない段階では自分から害するわけにはいかないと答えたが、内心では対処を考え始めていた。

西秦の変乱と乾帰の死

  • 乞伏熾磐は南涼の三河太守呉陰を白土で破り、その地に乞伏出累代を置いた。
  • 六月、乞伏公府が河南王乾帰を弑し、その諸子十余人も殺して大夏へ逃れた。公府は国仁の子で、後継に立てなかったことを恨んでいた。
  • 熾磐は弟の智達・木奕干に騎兵三千を与えて討たせ、曇達を鎮京将軍として譚郊に、婁機を苑川に置いた。自らは文武と民二万余戸を率いて枹罕へ移った。
  • 後秦では、姚興に対して熾磐の乱に乗じて攻めよとの声が多かったが、姚興は人の喪に乗じるのは礼に反するとして動かなかった。
  • 夏王赫連勃勃も攻撃を考えたが、王買徳が、盟好を結ぶ国が喪乱に遭っているのに助けもせず攻めるのは恥だと諫め、勃勃は中止した。
  • 閏月庚子、劉道規が死去した。

北魏の巡幸と西秦の内乱平定

  • 秋七月己巳朔、北魏の主拓跋嗣は東巡し、四廂大将十二・小将を置き、奚斤と拓跋屈を左右丞相にした。
  • 庚寅、拓跋嗣は濡源に至り、西北諸部を巡察した。
  • 乞伏智達らは大夏で公府を破り、公府は疊蘭城の弟阿柴のもとへ逃げたが、智達らはこれを攻め落とし、阿柴父子五人を斬った。公府はさらに嵻㟍南山へ逃れたが追いつかれ、四子とともに譚郊で車裂に処された。

熾磐即位

  • 八月、乞伏熾磐は大将軍・河南王を称し、大赦して永康と改元した。乾帰を枹罕に葬り、諡を武元、廟号を高祖とした。
  • 王后王氏が崩じた。
  • 庚戌、北魏主は平城へ還った。
  • 九月、熾磐は武始の翟勍を相国、趙景を御史大夫とし、尚書令・僕射・尚書・六卿・侍中などを廃して官制を改めた。
  • 癸酉、東晋では僖皇后が休平陵に葬られた。

劉裕、劉毅を討つ

  • 劉毅は江陵に入ると守宰を大きく入れ替え、さらに豫州の文武や江州の兵力一万余を手元に引き寄せた。
  • そのころ劉毅が重病となると、郗僧施らは劉毅の死後に一党が危うくなるのを恐れ、弟の劉藩を副官に迎えるよう勧めた。劉裕は表向きこれを許した。
  • 劉藩が広陵から入朝すると、己卯、劉裕は詔書によって劉毅を、劉藩・謝混とともに不軌を謀ったと罪し、劉藩と謝混を捕えて死を賜った。謝澹は以前から謝混が劉毅に近づきすぎるのを憂えていた。
  • 庚辰、司馬休之が都督荊雍梁秦寧益六州諸軍事・荊州刺史に任じられ、劉道憐は兗青二州刺史として京口に移され、諸葛長民は太尉留府事を監した。劉裕は長民を単独で任せるのを危ぶみ、劉穆之に建武将軍を加えてこれを牽制させた。
  • 壬午、劉裕は諸軍を率いて建康を出発し、参軍王鎮悪が前駆を願い出て百舸を与えられた。丙申、姑孰に至ると、王鎮悪は蒯恩とともに先発した。

十月 江陵奇襲

  • 冬十月己未、王鎮悪は豫章口から江陵城の二十里手前に着くと、船を降りて徒歩で急進した。残した船には旗と鼓を置き、後続の大軍があるように見せ、さらに江津の船艦を焼かせた。
  • 進軍中に「誰が来たのか」と問われても、兵には「劉兗州が来た」とだけ答えさせたので、津戍や民衆は疑わなかった。
  • 途中で劉毅の腹心朱顕之が様子を見に出てきたが、江津の船が焼かれ鼓声が盛んなのを見て、劉藩ではないと悟って馳せ帰り、城門閉鎖を命じた。
  • しかし王鎮悪はさらに速く、城門が完全に閉じられる前に兵を城内へ入れた。謝純は逃げずに府へ戻った。
  • 王鎮悪は城内兵と戦いながら金城を攻め、昼過ぎには城内の兵は散った。穴を穿って金城へ入り、詔と赦文、さらに劉裕の手書きを劉毅に示したが、劉毅は焼いて顧みず、毛修之らと抗戦した。
  • だが城内の兵はなお劉裕本人の到着を知らず、劉毅軍と台軍の間に親族関係が多かったこともあって、戦いながら会話するうち事実が広まり、動揺が広がった。夜になると兵は散り、勇将趙蔡も斬られた。
  • 王鎮悪は夜間の同士討ちを恐れ、いったん軍を引いて南面を開けた。劉毅はそこに伏兵があると疑い、夜半に北門から三百余人で脱出した。
  • 劉毅は牛牧寺へ逃れたが、かつてここに匿われた桓蔚を助けた僧昌を自分が殺した因縁から、寺僧に拒まれた。劉毅は嘆じて自ら首をくくって死んだ。翌日、首は斬られて市にさらされ、子弟も皆誅された。兄の劉模は襄陽へ逃げたが、魯宗之に斬られて送られた。
  • 劉鎮之は以前から劉毅・劉藩の末路を予見しており、劉裕はその徳を重んじて散騎常侍・光禄大夫に徴したが、固辞して赴かなかった。

後秦の対仇池・対夏戦

  • 仇池公楊盛が後秦に叛き、祁山を侵した。姚興は趙琨・姚伯寿・姚恢・姚嵩・胡翼度らを分道進軍させ、自らも雍から赴いた。
  • 天水太守王松忽は姚嵩に対し、かつて徐洛生ほどの名将でも仇池で成果をあげられなかったのは地勢険固のためであり、今回も成功は難しいからその事情を上奏すべきだと勧めたが、姚嵩は従わなかった。
  • 楊盛は趙琨と対峙し、姚伯寿が怖れて進まず、趙琨は兵少なくして敗れた。姚興は姚伯寿を斬って退いた。
  • 姚興は楊仏嵩を雍州刺史とし、嶺北の兵を率いて夏を討たせたが、出発後まもなく「仏嵩は敵を見ると勇を抑えられず、兵が多すぎれば必ず敗れる」と懸念した。果たして赫連勃勃との戦いに敗れ、楊仏嵩は捕えられて絶食の末に死んだ。
  • この間、姚興は昭儀斉氏を皇后に立てた。
  • 沮渠蒙遜は姑臧へ遷った。

江陵平定後の処置と諸葛長民への疑念

  • 十一月己卯、劉裕は江陵に到着し、郗僧施を殺した。
  • 毛修之はもともと劉毅の僚佐だったが、日頃から劉裕に通じていたため特に赦された。
  • 劉裕が今後の施政を申永に問うと、申永は旧怨を除き、恩恵を厚くし、門地秩序は一応保ちながらも能力ある者を抜擢することだと答えた。劉裕はこれを採り、租税・徭役・刑罰を軽くし、名士を礼遇したので荊州の人心は安んじた。
  • 諸葛長民は驕慢貪侈で法を犯すことが多く、劉毅誅殺を見て、自分にも禍が及ぶと恐れた。弟黎民は、劉氏が滅べば諸葛氏も危ういとして、劉裕の不在中に図るべきだと勧めた。
  • 長民はなお決断できず、のちに冀州刺史劉敬宣へ書を送り、もはや異端は尽き、天下の道は開けた、富貴を共にしようと誘った。敬宣は応ぜず、むしろその書を劉裕に示した。
  • 劉穆之は長民の変を憂え、何承天に相談した。何承天は、荊州のことよりも、劉裕が帰還時に軽率な行動をとるのが心配だと述べ、厳重な備えを促した。
  • 王誕が先に建康へ下ることを願い出ると、劉裕は、諸葛長民が自分を疑っているから軽装で帰れば安心させられるかと問うた。王誕はその通りだと答え、劉裕もこれを許した。

北涼建国と蜀討伐準備

  • 沮渠蒙遜は河西王に即位し、大赦して玄始と改元した。官僚制度は、かつて呂光が三河王だった時の先例にならった。
  • 劉裕は蜀征討を計画し、主将の人選に悩んだ末、武勇と吏才を兼ねる朱齢石を抜擢した。周囲は名望がまだ軽いとして難色を示したが、劉裕は退かなかった。
  • 十二月、朱齢石を益州刺史とし、臧熹・蒯恩・劉鍾らとともに蜀を討たせた。二万の兵が付けられ、臧熹は位こそ上だったが朱齢石の指揮下に入った。
  • 劉裕は朱齢石に密かに作戦を授けた。過去の劉敬宣の失敗から、敵は今回も外水から来ると警戒しながら、実際には内水を主道と見るはずだと読み、大軍は外水から成都を突き、疑兵を内水へ出す策をとった。
  • 情報漏れを防ぐため、具体命令は封書にして白帝で開かせることにした。
  • 毛修之は従軍を強く望んだが、劉裕は、蜀人が毛氏を怨んでいるため余計な殺戮を招くと考え、許さなかった。
  • 荊州十郡を分けて湘州を再設した。
  • 劉裕には太傅・揚州牧が加えられた。
  • 丁巳、北魏主は北巡して長城に至り、還った。