正月 劉裕帰還と後秦・西秦の動き
- 春正月、劉裕は建康へ帰還した。
- 後秦では、広平公姚弼が秦王姚興の寵愛を受けて雍州刺史として安定に駐屯していたが、姜紀の取り入りにより、朝廷内部の有力者と結んで入朝を図った。姚興が姚弼を尚書令・侍中・大将軍に任じると、姚弼は朝士を広く取り込み、東宮を圧迫する勢いを示したため、国内ではこれを嫌う者が多かった。
- 西北の反乱が多かったため、姚興は重臣を派遣して鎮撫させようとした。隴東太守郭播は姚弼を外鎮に出すよう求めたが、姚興は従わず、太常索稜を太尉・隴西内史として西秦招撫に向かわせた。
- 西秦王乞伏乾帰は、前年に奪った守宰を返還して謝罪し、降伏を願い出た。姚興はこれを受け入れ、乾帰を都督隴西嶺北雑胡諸軍事・征西大将軍・河州牧・単于・河南王に任じ、太子熾磐も鎮西将軍・左賢王・平昌公に任じた。
- 姚興が群臣に賢才を推挙させた際、梁喜が「人材が乏しい」と述べると、姚興は、昔の人物を求めるのではなく当代の人材を見抜いて用いるべきだと戒め、群臣は喜んだ。
後秦の対夏戦
- 後秦の姚詳は杏城に屯していたが、夏王赫連勃勃に圧迫されて大蘇へ逃れた。勃勃は鹿弈干に追撃させ、姚詳を斬ってその兵を尽く捕虜にした。
- 勃勃はさらに南下して安定を攻め、青石北原で尚書楊仏嵩を破り、四万五千を降し、東郷を落として三千余戸を貳城へ移した。
- 後秦の鎮北参軍王買徳が夏へ奔ると、勃勃は後秦滅亡の策を問うた。王買徳は、後秦は徳こそ衰えたが藩鎮はなお強固なので、今は力を蓄えて機を待つべきだと勧めた。勃勃は王買徳を軍師中郎将に任じた。
- 姚興は衛大将軍常山公姚顕を派遣して姚詳を迎えさせたが間に合わず、そのまま杏城に駐屯させた。
嶺南で盧循軍が敗れる
- 劉藩は孟懐玉ら諸将を率いて盧循を嶺南まで追った。
- 二月壬午、孟懐玉は始興を奪回して徐道覆を斬った。
西秦の移住政策と河西の抗争
- 乞伏乾帰は鮮卑僕渾部三千余戸を度堅城へ移し、その子乞伏敕勃を秦興太守として鎮守させた。
- 焦朗はなお姑臧に拠っていたが、沮渠蒙遜がこれを攻め落とし、焦朗を捕えたうえで助命した。そして弟の沮渠拏を秦州刺史として姑臧に置いた。
- 蒙遜はさらに南涼を攻めて楽都を三十日ほど包囲したが落とせず、南涼王禿髪傉檀は子の安周を人質に差し出して講和し、蒙遜は退いた。
- 吐谷渾の樹洛于が南涼を攻め、南涼太子虎台を破った。
- 傉檀は再び蒙遜を討とうとしたが、孟愷は、蒙遜は新たに姑臧を併呑して勢いが盛んなので攻めるべきでないと諫めた。傉檀は従わず五道から進軍し、畨禾・苕藋まで進んで五千余戸を掠めて帰還した。
- 将軍屈右は、戦利を得た今こそ急いで帰るべきであり、蒙遜は用兵に長けるので軽兵で急襲されれば危険だと述べた。だが伊力延は、敵は歩兵でこちらは騎兵だから追いつけない、急いで退くのは弱みを見せるだけだとして反対した。
- やがて昏霾と風雨の中で蒙遜軍が大挙して現れ、傉檀は敗走した。蒙遜は楽都を囲み、傉檀は城を固守して子の染干を人質に出し和を請い、蒙遜は引き揚げた。
三月 劉裕、謝晦を抜擢
- 三月、劉裕は太尉・中書監の地位を正式に受け、劉穆之を太尉司馬、陳郡の殷景仁を行参軍とした。
- 劉裕が有能な参佐を尋ねると、劉穆之は謝晦を推挙した。謝晦は謝安の兄謝据の曾孫である。
- 劉裕は謝晦を召して参軍とし、あるとき獄事の処理を臨時に代行させたところ、訴訟文書を一読しただけで次々に裁決し、誤りがなかった。以後、刑獄賊曹に抜擢され、劉裕はその才能を深く愛した。
盧循の最期
- 盧循は移動しながら兵を集め、番禺を包囲した。孫処が二十余日これを防いだ。
- 沈田子は劉藩に対し、番禺は賊の本拠であり、盧循がこれを囲み続ければ内応が起こる恐れがある、孫処の兵力も乏しいので、賊が再び広州を据えれば勢いを盛り返すと説いた。
- 夏四月、沈田子は番禺救援に向かい、盧循を撃破して一万余を斬った。さらに孫処とともに追撃し、蒼梧・鬱林・寧浦でも連破した。
- 孫処が病んで進めなくなると、盧循は交州へ逃れた。
- もと九真太守李遜が反乱を起こし、交州刺史杜瑗がこれを討って斬ったが、杜瑗もまもなく死去した。朝廷は子の杜慧度を交州刺史に任じたが、詔が届く前に盧循は合浦を破って交州へ向かった。
- 杜慧度は州府の兵を率いて石碕で盧循を破ったが、盧循にはなお三千ほどの残党があり、李遜の旧党李脱らが俚獠五千余人を集めて呼応した。
- 庚子、盧循は朝早く龍編南津に至った。杜慧度は家財を尽くして兵を賞し、盧循と戦った。雉尾炬を投げて船を焼き、歩兵を両岸に伏せて射かけると、盧循軍の船はことごとく炎上し、大敗した。
- 盧循はもはや助からぬと知り、先に妻子を毒殺したうえで、共に死ねる者を問うた。死を願う者もいたが、結局その者らも殺し、自ら水に投じた。杜慧度はその死体を収めて首を斬り、父子や李脱らあわせて七つの首級を函に納めて建康へ送った。
劉毅、江州を兼督して庾悦を圧迫
- 劉毅は以前、京口で貧しかった頃に庾悦と弓射の場で争った遺恨があり、これを根に持っていた。
- この年、劉毅は江州兼督を求めて許され、江州は内地であり民政を主とすべきだから軍府は不要だと上奏し、庾悦の軍府を廃して豫章へ移鎮させ、尋陽には州府兵一千を置いて蛮境に備えさせた。
- これにより庾悦は都督・将軍号を解かれ、刺史として豫章に移された。尋陽の守備は劉毅の腹心趙恢に任され、庾悦の配下三千もすべて劉毅の幕下へ吸収された。
- 庾悦は追及を受ける形となって憤りと恐れのうちに豫章へ赴いたが、背の腫れ物を発して死んだ。
西秦の再配置
- 乞伏乾帰は羌の句豈ら五千余戸を疊蘭城へ移し、兄の子阿柴を興国太守として置いた。
- 五月には子の木弈干を武威太守として嵻㟍城に鎮させた。
北魏・北燕の動き
- 丁卯、北魏の主拓跋嗣は金陵に詣で、山陽侯奚斤が留守を守った。
- 昌黎王慕容伯児が反乱を図ったが、己巳、奚斤がその党をあわせて捕え、斬った。
- 秋七月、北燕王馮跋は太子馮永に大単于を兼ねさせ、西輔を置いた。
- 柔然可汗斛律が馬三千匹を献じ、馮跋の娘・楽浪公主を妻に求めた。群臣は宗女でなく後宮の娘を与えるべきだとしたが、馮跋は異俗との信義を重んじ、楽浪公主を嫁がせた。
- 馮跋は政務に励み、農桑を奨励し、徭役と税を軽減し、守宰任命のたび自ら引見して施政の要を問うたので、燕の人々はこれを喜んだ。
西秦、南涼を破る
- 乞伏乾帰は平昌公熾磐と中軍将軍乞伏審虔を派遣して南涼を攻めた。八月、熾磐は河を渡り、傉檀は太子虎台に迎撃させたが、南涼軍は敗れ、牛馬十余万を奪われた。
西涼と北涼の戦い
- 沮渠蒙遜が軽騎で西涼を急襲した。西涼公李暠は、戦わずして敵を挫く策として城を閉ざし、敵の鋭気が尽きるのを待つべきだと判断した。
- やがて蒙遜は糧が尽きて退き、李暠は世子李歆に騎兵七千を授けて追撃させた。蒙遜は大敗し、その将沮渠百年が捕えられた。
冬 西秦、後秦領を蚕食
- 冬十一月、乞伏乾帰は後秦の略陽太守姚龍を柏陽堡で攻め落とし、ついで南平太守王憬の水洛城も奪った。
- その後、民三千余戸を譚郊に移し、乞伏審虔に二万を率いさせて譚郊を築城させた。
- 十二月、西羌の彭利発が枹罕を襲って奪い、自ら大将軍・河州牧を称した。乾帰が討伐したが、すぐには平定できなかった。
- この年、并州刺史劉道憐は北徐州刺史となり、彭城へ移った。