春正月 江陵・襄陽の回復
- 南陽太守の魯宗之が挙兵して襄陽を襲い、桓蔚を江陵へ敗走させた。
- 劉毅らの諸軍が馬頭に到着すると、桓振は安帝を伴って江津へ移り、江州・荊州の割譲と引き換えに天子を返すことを求めたが、劉毅らは拒絶した。
- 魯宗之は柞溪で桓振の将・温楷を破り、さらに紀南へ進んだ。
- 桓振は桓謙・馮該に江陵守備を任せ、自ら魯宗之と戦ってこれを大破したが、劉毅らは豫章口で馮該を破った。
- 桓謙は江陵を捨てて逃れ、劉毅らは入城して卞範之らを捕らえ処刑した。
- 桓振は帰還途中に城中の火を見て陥落を知り、軍は総崩れとなって溳川へ逃れた。
朝廷の再建と処分
- 詔により大方針の処分は冠軍将軍の劉毅に一任された。
- 大赦が行われ、年号は義熙に改められた。ただし桓氏一族のみ赦免から除外された。
- ただし、桓冲がかつて王室に忠節を尽くしたことを考慮し、その孫の桓胤だけは特別に赦された。
- 魯宗之を雍州刺史、毛璩を征西将軍・益梁秦凉寧五州都督とし、毛瑾を梁・秦二州刺史、毛瑗を寧州刺史とした。
- 劉懐粛が馮該を石城で追い詰めて斬った。
- 桓謙・桓怡・桓蔚・桓謐・何澹之・温楷らは後秦へ亡命した。桓怡は桓弘の弟である。
北方諸国の動き
- 後燕の燕王慕容熙が高句麗を攻め、遼東城を陥落寸前まで追い込んだが、「皇后とともに輦で入城するまで先登を禁じる」と命じたため、城方に備えを整える時間を与え、攻略できずに引き返した。
- 後秦の姚興は鳩摩羅什を国師として異例の厚遇を加え、自ら群臣や沙門を率いて講経を聴いた。さらに西域の経論三百余巻を漢語へ訳出させ、仏塔・寺院の造営を盛んにし、坐禅する僧も常に多数にのぼった。公卿以下も仏教を尊び、その風は州郡にまで広がった。
- 乞伏乾帰は吐谷渾の大孩を大破して一万余人を捕らえ、大孩は逃走後に胡園で死んだ。
- 吐谷渾では樹洛干が残党数千家を率いて莫何川へ移り、自ら車騎大将軍・大単于・吐谷渾王と称した。彼は賦役を軽くし、賞罰を明確にしたため、吐谷渾は再び勢いを回復し、沙漒の諸部族もこれに帰服した。
- 西涼公李暠は大将軍・大都督・秦凉二州牧を自称し、大赦して建初と改元した。また黄始・梁興をひそかに建康へ派遣し、晋に表を奉った。
二月 安帝の帰還
- 留台が法駕を整えて江陵で安帝を迎えた。
- 劉毅と劉道規は夏口に留まり、何無忌が安帝を奉じて東へ帰還した。
毛璩討伐軍の崩壊と譙縦の擁立
- 毛璩は江陵陥落の報を聞くと、三万を率いて東下し桓振討伐に向かった。弟の毛瑾・毛瑗には外水、参軍の譙縦・侯暉には涪水方面を進ませた。
- しかし蜀の人々は遠征を喜ばず、侯暉は巴西の陽昧と結んで反乱を企てた。
- 侯暉らは人望のあった譙縦を主君に立てようとし、譙縦は固辞したが、脅迫同然に擁立された。
- 侯暉は毛瑾を涪城で襲って殺し、譙縦を梁・秦二州刺史に推戴した。
- 毛璩は略城で変を聞き成都へ引き返し、王瓊に討伐を命じたが、譙縦の弟・譙明子に敗れ、多数の損害を出した。
- さらに益州の営戸の李騰が城門を開いて譙縦軍を引き入れ、毛璩と毛瑗を殺し、その一族を滅ぼした。
- 譙縦は成都王を称し、従弟の譙洪を益州刺史、譙明子を巴州刺史として白帝に駐屯させた。
- これにより蜀は大混乱に陥り、漢中が空虚となったため、氐王楊盛は甥の楊撫を派遣してそこを押さえた。
三月 桓振再起とその最期
- 魏の道武帝拓跋珪は豺山から帰還すると、尚書の三十六曹を廃止した。
- 桓振は鄖城から江陵を急襲し、荊州刺史司馬休之を破って襄陽へ追った。自ら荊州刺史を称した。
- これに対し、建威将軍劉懐粛が雲杜から急行して沙橋で戦い、劉毅の派遣した唐興の援軍も加わって、桓振を陣中で斬った。江陵は再び晋の手に戻った。
三月 安帝の建康帰着と新体制
- 安帝は建康に到着した。
- 百官が宮門に参じて罪を請うと、復職が許された。
- 尚書の殷仲文が朝廷音楽の整備を劉裕に願い出たが、劉裕は今はその余裕もなく、自分の性分にも合わぬとして応じなかった。殷仲文が「好きであれば自然に理解できる」と言うと、劉裕は「理解してしまえば好きになるからこそ、かえって手を付けぬのだ」と答えた。
- 琅邪王司馬徳文を大司馬、武陵王司馬遵を太保、劉裕を侍中・車騎将軍・都督中外諸軍事、劉毅を左将軍、何無忌を右将軍・豫州刺史、劉道規を輔国将軍・并州刺史、魏詠之を征虜将軍・呉国内史とした。
- 劉裕は録尚書事も受けず、たびたび京口への帰還を願った。詔と百官の強い勧め、さらには安帝自身の来訪まであってようやく出仕の姿勢を示したが、最終的には京口へ帰ることが許された。
- 魏詠之を司馬休之に代えて荊州刺史とした。
劉毅と劉敬宣の確執
- かつて劉毅が劉敬宣の参軍だった頃、世人の中には劉毅を豪傑とみる者があったが、劉敬宣は「外は寛容でも内心は猜疑深く、自己を誇って他を軽んじる性質で、上に凌ごうとして災いを招くだろう」と評していた。
- 劉毅はこの評価を恨みに思っていた。
- のちに劉敬宣が江州に任じられた際、自ら功なくして要職は不当だとして辞退したが、劉裕は許さなかった。
- 劉毅は、建義に参加しなかった劉敬宣のような者を自分たち功臣より先に厚遇するのはおかしい、と劉裕に人を通じて不満を伝えた。
- 劉敬宣はますます不安となり、辞職を願い出て、宣城内史として召し返された。
夏四月 劉裕の帰鎮と盧循への対応
- 劉裕は京口へ帰り、荊・司など十六州都督、兼兗州刺史に改めて任ぜられた。
- 盧循が朝貢の使者を送った。当時の朝廷は再建直後で討伐に手が回らず、盧循を広州刺史、徐道覆を始興相とした。
- 盧循は劉裕に益智粽を贈り、劉裕はこれに対して続命湯を返した。軽い贈答ではあるが、互いの思惑をにおわせるやりとりでもあった。
- 盧循のもとにいた王誕は、「自分は武人ではないからここにいても役に立たない。北へ帰れば劉裕の知遇を受けて恩に報いられる」と説いた。
- 劉裕も書を送り、呉隠之を帰すよう求めたが、盧循ははじめ応じなかった。
- 王誕は再び、「一つの土地に二人の主は容れられない。孫策が華歆を留めなかったのもそのためだ」と説き、ついに盧循は呉隠之と王誕をともに帰還させた。
南燕 慕容超の帰還
- 南燕の慕容徳は、かつて兄の慕容納と母の公孫氏を張掖に残し、秦の淮南遠征に従軍した際、別れの印として金刀を母に残していた。
- その後、慕容徳が燕の再興に転じると、張掖太守苻昌は慕容納と慕容徳の諸子を殺したが、公孫氏は高齢のため助かり、慕容納の妻段氏は身重であったため即決されなかった。
- 旧吏の呼延平が公孫氏と段氏を救って羌中へ逃がし、段氏はそこで慕容超を生んだ。公孫氏は臨終に金刀を慕容超へ渡し、「東に帰れたなら叔父にこれを返せ」と言い残した。
- 呼延平はさらに母子を涼州へ連れて行き、呂隆が後秦に降ると、慕容超も涼州民とともに長安へ移された。
- 慕容超は捕捉されぬよう狂者を装い物乞いをしていたが、東平公姚紹だけは非凡さを見抜いた。姚興の前でも狂気を装い通したため、深く追及されずに済んだ。
- 慕容徳が遺腹の甥の所在を知ると、呉弁を長安へ派遣して確認させた。呉弁は同郷で卜者となっていた宗正謙を通じて慕容超に連絡した。
- 慕容超は母や妻にも告げず、宗正謙とともに名を変えて逃亡し、南燕へ向かった。
- 途中、梁父で鎮南長史悦寿がこれを兗州刺史慕容法に知らせたが、法は偽の衛太子事件のような詐称かもしれぬとして丁重に扱わなかった。これが後の両者の遺恨となった。
- 慕容徳は慕容超の到着を聞いて大いに喜び、騎兵三百で迎えさせた。慕容超が金刀を差し出すと、慕容徳は慟哭し、慕容超を北海王・侍中・驃騎大将軍・司隷校尉に任じ、優秀な人物を選んで側近に付けた。
- 慕容徳は子がなかったため、慕容超を後継としたい考えを強めた。慕容超も内ではよく仕え、外では士をへりくだって遇したため、内外の評判は一気に集まった。
五月以後 江南の平定
- 桂陽太守の章武王司馬秀と益州刺史司馬軌之が反乱を企てたが、発覚して処刑された。司馬秀は桓振の妹を妻としていたため、自身の立場を恐れて反したという。
- 桓玄の残党である桓亮・苻宏らも各地で郡県を侵したが、劉毅・劉道規・檀祗らが分兵して討ち平らげた。
- 荊州・湘州・江州・豫州はおおむね平定され、劉毅を豫州刺史、何無忌を会稽内史に任じた。
六月〜七月 北方の戦況
- 北青州刺史の劉該が反乱し、北魏を援軍として引き入れ、清河・陽平二郡太守の孫全もこれに呼応した。
- 魏の索度真・斛斯蘭が徐州に侵入して彭城を囲んだが、劉裕は弟の劉道憐、孟龍符を派遣して救援させ、劉該・孫全を斬って魏軍を退けた。孟龍符は孟懐玉の弟である。
- 後秦の隴西公姚碩徳は仇池を攻め、楊盛軍をたびたび破ったうえ、将軍斂俱に漢中を攻めさせて成固を奪い、流民三千余家を関中へ移した。
- 楊盛は後秦に降り、都督益寧二州諸軍事・征南大将軍・益州牧とされた。
- 劉裕は後秦に和睦と南郷など諸郡の返還を求めた。姚興の群臣は反対したが、姚興は劉裕が微賤から起こって桓玄を討ち晋室を再興したことを高く評価し、その名声を完成させるのを惜しむ必要はないとして、南郷・順陽・新野・舞陰など十二郡を晋へ割譲した。
八月〜九月 南燕の皇位継承
- 後燕では遼西太守邵顔が罪を得て逃亡し盗賊となったが、中常侍郭仲が討って斬った。
- 南燕では女水が涸れた。慕容徳はこれを不吉に感じたが、ほどなく病に伏した。
- 北海王慕容超が祈祷を願い出たが、慕容徳は「君主の寿命は天にあり、水に左右されるものではない」として許さなかった。
- 群臣を東陽殿に引見して慕容超を皇太子に立てる議を開いたが、直後に地震があり、慕容徳も不安のまま宮へ戻った。
- その夜、病が重くなり、段后が中書を呼んで慕容超を立てる詔を作ってよいかと問うと、慕容徳は目を開けてうなずいた。こうして慕容超は皇太子となり、赦令も出された。
- まもなく慕容徳は死去した。遺体は所在を秘すため十余りの棺を四門から出し、ひそかに山谷へ葬られた。
- 慕容超が即位し、大赦して年号を太上と改めた。段后を皇太后とし、北地王慕容鍾らを重用した。
- 慕容徳の諡は献武皇帝、廟号は世宗とされた。
南燕新政と重臣の不安
- 慕容超は側近の公孫五楼を腹心として内政に参与させたため、慕容鍾・段宏ら慕容徳以来の重臣は不安を覚え、外任を求めた。
- 慕容超は慕容鍾を青州牧、段宏を徐州刺史に出し、公孫五楼を武衛将軍・屯騎校尉として政務に参与させた。
- 封孚は、皇族の柱石や外戚の名望家を外へ出し、寄寓の臣を内に置くのは危ういと諫めたが、慕容超は聞かなかった。
- 慕容鍾と段宏は「黄犬の皮では狐裘の継ぎにはならぬ」と陰で嘆き、公孫五楼はこれを聞いて恨んだ。
晩年の諸事件
- 魏詠之が死去した。
- 江陵令の羅脩が王慧龍を奉じて江陵を襲おうと図ったが実行できず、王慧龍を連れて後秦へ逃れた。劉裕は劉道規を荊州刺史とした。
- 乞伏乾帰は仇池を攻めたが、楊盛に敗れた。
- 西涼公李暠は、沮渠蒙遜に圧力を加えるため都を酒泉へ移すことを決め、建康・敦煌に守備を置いて遷都した。
- 李暠は諸子への手紙で、政道では賞罰を慎重にし、愛憎に左右されず、忠正を近づけ佞諛を遠ざけ、訴訟では和顔で理に任せ、疑いを先立てて人を罰してはならぬなど、統治の心得を詳しく戒めた。
- 十二月、慕容熙が契丹を襲った。