資治通鑑晉紀三十四 安皇帝下 隆安 五年 401年

正月 南凉・西凉・後凉の政変と方針

  • 武威王の利鹿孤は、群臣から帝号を称するよう勧められたが、安国将軍の鍮勿崙が強く反対した。遊牧のまま機動力を保ち、晋人を城郭に住まわせて農桑を興し、蓄えと軍備を整え、強国は避け弱国を攻めるのが長久の策だと論じた。利鹿孤はこれを是として、帝号をやめ河西王と称した。
  • 利鹿孤は広武公の傉檀を、内外諸軍を統轄する凉州牧・録尚書事に任じた。
  • 後凉の王・吕纂は酒と狩猟を好み、太常の楊穎が国勢の衰えを憂えて諫めたが、纂は言葉では謝しても改めなかった。
  • 番禾太守の吕超が鮮卑の思盤を独断で攻撃したため、思盤は訴え出た。纂は吕超と思盤をともに姑臧へ召した。吕超は恐れて殿中監の杜尚と結び、纂の前で責められたが、その場では許された。
  • その後、纂は吕超・思盤らを宮中で宴に招いた。纂が酔って禁中を遊覧している最中、吕超は機を見て剣で襲い、纂を刺殺した。楊后は禁兵に討伐を命じたが、杜尚がこれを止め、兵も戦わなかった。
  • 将軍の魏益多は纂の首を取り、公然と、纂が先帝の遺命に背いて太子を殺し帝位を奪い、しかも荒淫暴虐であったため、吕超の挙兵は宗廟安定のためだと宣言した。
  • 纂の叔父の吕佗、その弟の吕緯は北城にいた。吕緯は挙兵を勧められたが、吕佗の妻がこれを止めた。さらに吕超の弟・吕邈が、吕超は吕緯を立てるために動いたのだと説いたため、吕緯はこれを信じて入城し、捕らえられて殺された。
  • 吕超は兄の吕隆に帝位を譲り、吕隆が天王位についた。大赦し、年号を神鼎と改め、母の衛氏を太后、妻の楊氏を后とした。吕超は都督中外諸軍事・録尚書事・安定公となった。神鼎という年号は、かつて吕超が番禾で小鼎を得たことを瑞兆とみなしたためである。
  • 纂の后の楊氏は、宝物と玉璽の所在を吕超に問い詰められたが応じず、また吕超がこれを娶ろうとすると拒み、自殺した。父の楊桓は河西王の利鹿孤のもとへ逃れ、左司馬とされた。

二月 孫恩の海上行動と西秦の再編

  • 孫恩は浹口から出て句章を攻めたが落とせず、劉牢之に撃たれて再び海へ逃れた。
  • 秦王の姚興は、乞伏乾帰を苑川へ戻して旧部を返し、その勢力を回復させた。

三月 劉裕、海塩方面で孫恩を破る

  • 孫恩は北上して海塩へ向かった。劉裕はこれを追って旧治に城を築き、防戦した。
  • 孫恩は日々攻め寄せたが、劉裕はたびたび撃退し、その将の姚盛を斬った。兵力差は大きかったため、劉裕は夜に旗を伏せ兵を隠し、翌朝は病弱な兵だけを城上に見せて自分は逃げたように見せかけた。
  • 孫恩軍が油断して城へ殺到すると、劉裕は伏兵をもって大破した。
  • 孫恩は滬瀆へ向かい、劉裕は城を捨てて追撃した。海塩令の鮑陋の子・鮑嗣之が呉兵千人を率いて先鋒を願い出たが、呉人は戦に不慣れだとして劉裕は制した。しかし嗣之は従わず戦死した。
  • 劉裕は伏旗・伏鼓で味方が四面にいるように見せ、さらに死者の衣を脱がせて余裕あるように装い、最後は自ら大呼して反撃し、敵を退かせた。

春夏 河西・北凉・魏の動き

  • 河西王の利鹿孤は後凉を攻め、凉王の吕隆と戦って大勝し、二千余戸を移して帰った。
  • 魏は鄴の行台を廃し、そこに属していた六郡をもって相州を置き、庾岳を刺史とした。
  • 乞伏乾帰が苑川へ着くと、辺芮を長史、王松寿を司馬とし、公卿・将帥を皆、僚属・偏将の立場に下げて再編した。
  • 北凉王の段業は、沮渠蒙遜の勇略を恐れて外に出そうとし、馬権を張掖太守にして蒙遜と交代させた。馬権は段業に重用されていたが蒙遜を侮り、蒙遜は段業に、真に警戒すべきは馬権だと讒言してこれを殺させた。
  • 蒙遜は兄の沮渠男成に、段業は乱世を鎮める器ではないから除いて兄を戴きたいと持ちかけたが、男成は段業は自家が立てた主君であり、これを裏切るのは不祥だと拒んだ。
  • そこで蒙遜は西安太守への出任を願い、表向きは外へ出る形を整えたうえで、男成とともに蘭門山を祭る約束を結び、裏では司馬の許咸に、男成が休暇を口実に反乱を起こすと段業へ密告させた。
  • 段業は男成を捕らえて死を賜った。男成は死に臨み、真の謀反人は蒙遜であり、自分を殺させて部衆を奪おうとしているのだと訴え、いったん自分の死を秘して蒙遜を誘い出せば必ず討てると勧めたが、段業は聞き入れなかった。
  • 蒙遜は男成の無実の死を泣いて訴え、部衆に復讐を呼びかけた。民衆は憤激してこぞって応じ、氐池に至るころには一万を超えた。鎮軍将軍の臧莫孩も降り、羌胡の多くがこれに呼応した。
  • 段業は田昻・梁中庸らを討伐に出したが、王豊孫が田氏は代々反しやすい家柄だと警告したにもかかわらず、段業は田昻を信用した。田昻は侯塢で五百騎を率いて蒙遜に降り、軍は総崩れとなり、梁中庸もまた降った。
  • 五月、蒙遜は張掖に到着し、段業はわずかに命乞いしたが斬られた。段業は儒者風の温厚な人物で、権略も威令も足りず、占いや巫覡を信じすぎたために敗れたと評された。
  • 蒙遜は大都督・大将軍・凉州牧・張掖公を称し、大赦して年号を永安とし、一族や有力者を配置したので、文武の士は皆喜んだ。
  • 沮渠男成の弟・富占将軍の俱傫は五百戸を率いて河西王の利鹿孤に降った。

五月 孫恩、滬瀆を陥す

  • 孫恩は滬瀆を陥れ、呉国内史の袁崧を殺し、四千人が死んだ。
  • 一方、吕隆は豪族を多く殺して威を立てようとしたため、内外ともに騒然とし、人々は身の安全を保てなくなった。
  • 魏安の焦朗は、吕氏兄弟の争いと政治の乱れを見て、秦の隴西公・姚碩徳に、今こそ後凉を取る好機だと勧めた。姚碩徳は姚興に奏し、歩騎六万で後凉を討ち、乞伏乾帰も騎七千で従った。

六月 孫恩、丹徒に迫り建康震動

  • 孫恩は海上から不意に丹徒に現れ、十余万の兵と千余艘の楼船を率いていたため、建康は大きく動揺した。
  • 朝廷は戒厳を布き、高素らが石頭を守り、劉襲が淮口を遮断し、司馬恢之が南岸を守り、桓謙らが白石、王嘏らが中堂に屯した。さらに譙王司馬尚之を京師防衛に召し入れた。
  • 劉牢之は山陰から兵を引いて迎撃に向かったが、間に合わなかったため、劉裕を海塩から援軍として向かわせた。劉裕は千人に満たぬ兵で急行し、孫恩と同時に丹徒へ着いた。
  • 丹徒守備軍に戦意がない中、孫恩は蒜山に登って威圧したが、劉裕は手勢を率いて突撃し、大破した。崖や水に落ちて死ぬ者が多く、孫恩は辛くも船に逃れた。
  • それでも孫恩はなお兵を整えて京師へ進もうとし、元顕の軍はしばしば敗れた。道子は祈祷に頼るばかりだった。
  • そこへ譙王尚之が精兵を率いて到着し、積弩堂に屯した。孫恩は風に逆らって楼船を進められず、白石に着くまで日数を費やした。その間に劉牢之が新洲に戻ったと知り、建康攻略を断念して海へ去り、郁洲へ北走した。
  • 孫恩の別将は広陵を落として三千人を殺し、寧朔将軍の高雅之は郁洲で孫恩に敗れて捕らえられた。

六月 桓玄の挙兵準備

  • 桓玄は日ごろから兵を鍛え、朝廷の隙を窺っていた。孫恩が京師に迫ったと聞いて討伐を請う上表をしたため、元顕は大いに恐れた。
  • 孫恩が退くと、元顕は詔書で桓玄の進発を止めたが、桓玄はなお戒厳して備えを続けた。

夏秋 秦の後凉征討と諸国の対応

  • 七月、魏の長孫肥は歩騎二万を率いて南下し、許昌から彭城に至った。将軍の劉該は魏に降った。
  • 姚碩徳は金城から河を渡って広武へ向かった。利鹿孤は広武の守備兵を収めてこれを避けた。
  • 秦軍が姑臧に到着すると、吕隆は吕超・吕邈らを出して迎え撃たせたが、姚碩徳は大破し、吕邈を生け捕りにし、万単位の兵を斬った。吕隆は城に籠もった。
  • 巴西公の吕佗は東苑の兵二万五千を率いて秦に降った。
  • 西凉公の李暠、河西王の利鹿孤、沮渠蒙遜はいずれも使者を送り、秦へ入貢した。
  • かつて後凉から利鹿孤に降っていた姜紀は、傉檀に重用されていた。利鹿孤は、姜紀は見どころはあるが、いずれ去って他国の患いになるだろうから殺すべきだと傉檀に告げた。しかし傉檀は布衣の交わりを信じて拒んだ。
  • 八月、姜紀は数十騎を率いて秦軍に奔り、姚碩徳に、吕隆は孤立しており降伏しても真に服従するわけではない、今のうちに自分へ兵を与えれば取れると説いた。さらに、もし秃髪氏が姑臧を併せれば、威勢はますます強まり秦の大敵になると警告した。
  • 姚碩徳は姜紀を武威太守とし、兵二千を与えて晏然に駐屯させた。
  • 姚興は楊桓の賢を聞いて召した。利鹿孤はこれを引き留められなかった。

秋 劉裕、郁洲で孫恩を圧迫

  • 劉裕は詔で下邳太守に任じられ、郁洲で孫恩を討った。幾度も大破したため、孫恩の勢いは衰え、再び海沿いに南へ逃れた。劉裕はこれを追撃した。

八月閏月 後燕の宮廷クーデタ

  • 後燕王の慕容盛は、父の慕容宝が柔弱で国を失ったことを戒め、刑罰を厳しくして、自らの聡明を誇り、臣下に少しでも嫌疑があれば先手を打って誅したため、宗親や勲旧は皆身の危険を感じていた。
  • 丁亥、左将軍の慕容国が秦輿・段讃とともに禁兵を率いて慕容盛を襲おうとしたが露見し、五百余人が死んだ。
  • さらに壬辰の夜、段璣が秦輿の子の興、段讃の子の泰らと禁中で騒ぎを起こした。慕容盛はみずから左右を率いて出戦し、賊を潰走させたが、混乱の中で闇から襲われて負傷し、禁衛を整えたのち死亡した。
  • 中壘将軍の慕容拔と郭仲らは、国難にあたっては年長の君主を立てるべきだとし、衆望は盛の弟の平原公・慕容元に集まった。
  • しかし白太后の丁氏は河間公の慕容熙を寵愛していたため、太子の慕容定を廃して密かに熙を宮中へ迎え、翌朝、群臣は変事を知って熙に即位を勧めた。熙は元に譲る姿勢を見せたが、元は辞退し、癸巳に熙が天王位についた。
  • 段璣らは三族誅滅され、甲午には慕容元も嫌疑を理由に死を賜った。
  • 閏月に慕容盛を興平陵に葬り、昭武皇帝と諡し、中宗と廟号した。
  • その後も丁氏が帰宮する前に、慕容提・張仏らが旧太子の慕容定を立てようとしたが発覚し、処刑された。慕容定も死を賜った。
  • 後燕は大赦し、年号を光始とした。

秋 姑臧包囲と後凉の降秦

  • 姚碩徳は姑臧を長く包囲した。城中の東方人には外応を企てる者が多く、魏益多も再び扇動したが、発覚して三百余家が連座した。
  • 姚碩徳は夷夏の人々を慰撫し、守宰を置き、食糧を節し粟を蓄えて長期戦に備えた。
  • 後凉の群臣は秦と和を結ぶよう勧めたが、吕隆は拒んだ。安定公の吕超は、備蓄は尽き、上下は疲弊しており、今は屈して敵を退かせ、のちに徳政で立て直すべきだと説いた。
  • 九月、吕隆は使者を送って秦に降伏を願った。姚碩徳は、吕隆を鎮西大将軍・凉州刺史・建康公に封じるよう上表した。
  • 吕隆は子弟と旧臣の慕容筑・楊穎ら五十余家を長安へ質として送った。
  • 姚碩徳の軍紀は厳正で、略奪もなく、先賢を祭り名士を礼したため、西方の人々は喜んだ。

秋冬 沮渠蒙遜と河西王の対立

  • 蒙遜の支配下にあった酒泉・凉寧の二郡が西凉に叛いて降り、さらに吕隆が秦に降ったと聞くと、蒙遜は大いに恐れ、弟の沮渠挐と牧府長史の張潜を姚碩徳のもとへ送り、部衆を率いて東遷したいと願った。
  • 姚碩徳はこれを喜び、張潜を張掖太守、挐を建康太守に任じた。しかし挐は、姑臧はまだ落ちておらず、姚碩徳も糧が尽きれば帰るのだから、今みずから土地を捨て他人の支配を受けるのは愚策だと蒙遜を諫めた。臧莫孩も同意した。
  • そこで蒙遜は子の奚念を河西王の利鹿孤のもとへ質として送り援助を求めたが、利鹿孤は、奚念は幼いから弟の挐を送れと言って受け入れなかった。
  • 冬十月、蒙遜は再び上疏し、誠意は子でも弟でも同じであり、今は外敵の脅威があるため弟を出せないと弁明した。
  • 利鹿孤は怒り、張松侯の俱延と興城侯の文支に騎一万を率いさせて蒙遜を襲わせた。万歳・臨松に至って蒙遜の従弟の鄯善茍子を捕らえ、民六千余戸を奪った。
  • 蒙遜の従叔の孔遮が利鹿孤に入朝し、挐を質として差し出すと約したため、利鹿孤は奪った民を返し、俱延らを召還した。

南燕 酒席の応答と杜弘の派遣

  • 南燕主の慕容徳は延賢堂で群臣に宴を賜い、自分は古のどの君主に比せられるかと尋ねた。青州刺史の鞠仲は少康や光武帝に比したが、慕容徳はこれはお世辞であり、だから褒賞も冗談だと言って帛千匹を与えた。
  • 韓範が、天子に戯言はなく、今日のやり取りは君臣ともに失当だと諫めると、慕容徳は大いに喜び、絹五十匹を賜った。
  • 慕容徳の母と兄の慕容納は長安にいたため、平原人の杜弘を探索のため派遣した。杜弘は、もし太后の消息を得られなければ西方の張掖まで赴いて死をもって任務を果たすと誓い、あわせて老父の杜雄に本県の禄を願った。張華は出発前の俸禄要求は君を脅す罪だとしたが、慕容徳は忠孝を兼ね備えた願いだとして、杜雄を平原令にした。
  • 杜弘は張掖に着いたが、盗賊に殺された。

冬 孫恩の敗退、魏・後凉・南凉・桓玄

  • 十一月、劉裕は滬瀆・海塩でふたたび孫恩を破り、俘斬は万単位に上った。孫恩は浹口からさらに遠く海へ逃れた。
  • 十二月、魏主の拓跋珪は常山王の拓跋遵・定陵公の和跋に五万を率いさせ、高平の没弈干を襲わせた。虎威将軍の宿沓干は燕の令支を攻め、燕の宇文拔が救援したが、宿沓干は令支を落として守兵を置いた。
  • 吕超は姜紀を攻めて落とせず、続いて焦朗を攻めた。焦朗は弟の子の嵩を利鹿孤へ質として送り、救援を請うた。傉檀が赴くと吕超はすでに退いていたが、焦朗は城門を閉ざして傉檀を拒んだ。
  • 傉檀は怒って攻めようとしたが、俱延が、民は故土を恋うものであり、焦朗は孤城で食も乏しいのだから、今年降らずとも来年には服する、無益な攻城で兵を損ねるべきでないと諫めた。傉檀はこれを受け、焦朗と和した。
  • 傉檀は姑臧近くの胡坑に陣し、吕超が夜襲してくると見て火を備えた。吕超は王集に精兵二千を率いさせて夜襲したが、傉檀は静かに待ち、敵が営内に入ると内外で一斉に火を挙げ、王集と甲首三百余級を斬った。
  • 吕隆は恐れて傉檀と偽って和し、苑内で盟を結ぼうとした。傉檀は俱延を入れたが、俱延は伏兵を疑って壁を壊して入った。そこへ吕超の伏兵が襲い、俱延は馬を失ったが、郭祖が奮戦して辛うじて免れた。
  • 傉檀は怒って昌松太守の孟禕を顕美で攻めた。吕隆は荀安国・石可に騎五百を率いさせて救わせたが、両者とも傉檀を恐れて退却した。
  • 同じころ桓玄は、兄の桓偉を江州刺史として夏口に、司馬の刁暢を襄陽に置き、皇甫敷・馮該を湓口に戍させ、沮水・漳水流域の蛮二千戸を江南へ移して武寧郡を置き、さらに流民を集めて綏安郡を立てた。
  • 朝廷は広州刺史の刁逵と豫章太守の郭昶之を徴したが、桓玄は留めて遣さなかった。
  • 桓玄は晋国の三分の二を実質支配していると自負し、しばしば祥瑞文書を奉って人心を惑わした。また会稽王道子に書を送り、王国宝の死後に王恭が朝政を奪わなかったのは明公への忠があったからで、今の朝廷には時流の名望ある人物がいても信用しないため、この禍に至ったのだと述べた。
  • 元顕はこれを見て大いに恐れた。張法順は、桓玄は荆楚を併せ持ち、いま孫恩の乱で東土は疲弊しているから、必ずこの機に乗ると説き、今のうちに劉牢之を前鋒として討つべきだと勧めた。
  • 武昌太守の庾楷もまたひそかに元顕に通じ、桓玄は人望を失っているので、朝廷軍が来れば内応すると告げた。
  • 元顕は張法順を京口へ送り劉牢之と協議させたが、牢之は難色を示した。張法順は帰って、牢之は朝廷に二心あり、このままでは大事を壊すから召し入れて殺すべきだと勧めたが、元顕は従わなかった。
  • こうして元顕は水軍を大いに整え、兵を集め、艦船を装備して桓玄討伐を図った。