資治通鑑晉紀三十三 安皇帝 隆安 四年 400年

春正月:後燕・西秦・南凉の改元

  • 正月、後燕の慕容盛は大赦を行い、自らの称号を「庶人天王」と下げた。
  • 北魏の和跋は遼西で盧溥を急襲し、これを捕えて子の煥とともに平城へ送り、車裂に処した。慕容盛が派遣した救援軍は間に合わず、帰路に魏の守宰を斬って引き返した。
  • 西秦王乞伏乾帰は苑川に遷都した。
  • 禿髪利鹿孤も大赦し、年号を建和とした。

二月:後燕の高句麗遠征

  • 高句麗王安は後燕への礼が慢ったため、二月、慕容盛はみずから三万の兵を率いて討伐に向かった。
  • 驃騎大将軍慕容熙を前鋒とし、新城・南蘇の二城を攻略、国境を七百余里ひらき、五千余戸を移して帰還した。
  • 慕容盛は、叔父の慕容熙の武勇は世祖慕容垂の風があるが、大略では慕容弘に及ばないと評した。

三月:北魏の立后、桓玄の勢力拡大、後凉内乱

  • 北魏では、拓跋珪が劉頭眷の娘を寵愛し子の拓跋嗣を生ませていたが、后を立てるにあたり、旧俗に従って金人を鋳させたところ、劉氏は成功せず、燕主慕容宝の幼女である慕容氏が成功したため、三月、慕容氏が皇后に立てられた。
  • 東晋では、桓玄が荆雍を平定したのち、荆州・江州の兼領を求めた。朝廷ははじめ荆州を与え、江州には桓脩を置いたが、桓玄がなお固く求めたため、結局江州も兼ねさせた。さらに兄桓偉を雍州刺史、従子桓振を淮南太守とし、朝廷はこれを拒めなかった。
  • 後凉では、吕纂が大司馬吕弘の功と勢力を恐れ、吕弘もまた疑い、東苑兵をもって反乱を起こして宫城を攻めた。
  • 吕纂は焦辨にこれを撃たせ、吕弘軍は潰れた。吕纂は東苑の婦女を将兵に与えて大掠奪を行ったが、侍中房晷は、兄弟相争ったうえ民衆に罪はないのに婦女子まで辱めるのは天地も忍ばぬと泣いて諫めた。
  • 吕纂は面目を改め、吕弘の妻子を東宮に移して厚遇した。
  • 吕弘は禿髪利鹿孤のもとへ逃れようとしたが、道中広武で吕方に捕えられ、吕纂のもとへ送られて康龍に殺された。
  • 吕纂は楊氏を皇后に立て、その父楊桓を尚書左僕射・凉都尹とした。

四月:後凉の南凉遠征失敗、李暠の自立

  • 吕纂は利鹿孤を討とうとしたが、中書令楊穎は、南凉は上下心を一つにしていて隙がなく、今は攻めるべきでないと諫めた。しかし吕纂は聞き入れなかった。
  • 利鹿孤は弟の禿髪傉檀に迎撃させ、四月、三堆で後凉軍を破り、二千余級を斬った。
  • このころ隴西の李暠は文雅と善政で名があり、郭黁はかつて宋繇に対し、李暠は将来国家を持つ人物だと予言していた。白額の駒が生まれればその時だとも言われた。
  • 敦煌護軍郭謙・沙州治中索仙らは、孟敏の死後、李暠を敦煌太守に推した。李暠は当初辞退したが、宋繇に段業は遠略がなく成功しないと説かれ、就任した。
  • 段業はのち索嗣を敦煌太守として李暠に代えようとした。索嗣は到着前から李暠に交代を命じたため、李暠は驚いたが、張邈・宋繇が、今こそ一国を成す好機であり、索嗣は驕って兵も弱いので一戦で擒えられると勧めた。
  • 李暠は宋繇を先に遣わして索嗣を油断させたのち、張邈・宋繇・二子の李歆・李譲に迎撃させ、索嗣を破って張掖へ走らせた。
  • 李暠は旧交を思ってなお索嗣を憎みきれず、段業に誅殺を求めた。沮渠男成も索嗣を嫌っていたため、段業は索嗣を殺し、李暠へ謝罪したうえで、李暠を都督凉興以西諸軍事・鎮西将軍とした。

吐谷渾・後燕の情勢

  • 吐谷渾の視羆が死に、九歳の世子樹洛干に代わって弟の烏紇堤が立った。烏紇堤は懦弱で淫逸だったため、樹洛干の母の念氏が国政を専断したが、胆力と知略により国人を服させた。
  • 後燕では、段登の謀反に連座した前将軍段璣が遼西へ逃れた。
  • 王珣が死去した。
  • 拓跋珪は東は涿鹿、西は馬邑へ行幸し、灅水の源を視察した。
  • 段璣は後燕へ帰って罪を謝し、慕容盛はこれを赦して思悔侯の号を与え、公主を娶らせて内殿直とした。

孫恩の再侵攻と謝琰の敗死

  • 謝琰は家格と名望によって会稽を鎮したが、民心を収めることも武備を整えることもできなかった。諸将が、賊は海辺にいて帰順の道を開くべきだと諫めても聞かなかった。
  • 謝琰は、苻堅百万の軍ですら淮南で滅んだのだから、孫恩のような小賊は海に入って死ぬだけで、再起などありえないと高をくくった。
  • ところが孫恩は浹口から入り、余姚・上虞を破り、邢浦へ進んだ。参軍劉宣之が一度は破ったが、孫恩は日をおかず再来し、官軍は敗れた。
  • 五月己卯、孫恩は会稽に到達した。謝琰は食事もとらずに「まず賊を滅ぼしてから食う」と言って出撃したが敗れ、帳下都督張猛に殺された。
  • 呉興太守庾桓は、郡民がまた孫恩に呼応するのを恐れ、男女数千人を殺した。
  • 孫恩はさらに臨海へ転じ、朝廷は大いに震え、桓不才・孫無終・高雅之らを派遣して防がせた。

西秦と南凉、六月の日食

  • 後秦の碩徳が五千の兵で西秦を討ち、南安峡から入った。乞伏乾帰は諸将を率いて隴西に布陣した。
  • そのころ、かつて南凉に帰服していた楊軌・田玄明が利鹿孤暗殺を企てたため、利鹿孤はこれを殺した。
  • 六月朔、日食があった。
  • 晋では琅邪王師の何澄が尚書左僕射となった。
  • 後燕は大赦を行った。

夏から秋:後凉の張掖遠征と姑臧急襲

  • 吕纂は北凉を襲おうとしたが、姜紀は、夏の農繁期であり、しかも嶺西へ遠征すれば南凉が虚を衝いて京師を襲うと諫めた。しかし吕纂は従わず、張掖を包囲し、西は建康を掠めた。
  • 禿髪傉檀はこれを聞くと、一万騎を率いて姑臧を急襲した。
  • 吕纂の弟の吕緯は北城に拠って固守したが、傉檀は朱明門上で酒宴を開き、鐘鼓を鳴らして将士を饗し、青陽門で兵威を示したうえ、八千余戸を掠めて去った。
  • 吕纂はこれを聞いて張掖から引き返した。
  • 七月、晋の太皇太后李氏が崩じ、西秦も大赦を行った。

西秦の崩壊と乞伏乾帰の投奔

  • 西秦では、前線の慕兀らが駐屯していたが、後秦王姚興がひそかに兵を進めてこれを救った。
  • 乞伏乾帰は中軍二万を柏楊に、外軍四万を侯辰谷に置き、自らは軽騎数千で前進して秦軍をうかがった。しかし大風と濃霧で主力とはぐれ、追撃騎兵に迫られて外軍へ逃げ込んだ。翌朝の戦いで西秦軍は大敗し、三万六千の部衆が後秦に降った。
  • 姚興は枹罕へ進んだ。乞伏乾帰は金城へ退き、諸豪帥に、もはや国を保てないので各自後秦に降って宗族を保全せよと涙ながらに告げたが、皆は従いたいと願った。
  • 乾帰は、天がまだ自分を見捨てていなければまた再起の日もあろう、今ここで共死しても益はないと説き、自らは数百騎だけを率いて允吾へ走り、南凉の利鹿孤に降った。
  • 利鹿孤は禿髪傉檀を遣わして迎え、晉興に住まわせ、上賓の礼で遇した。
  • だが禿髪俱延は、乾帰はもと属国であり、今の帰順は真心ではなく、姚氏へ逃げれば国患になるから乙弗の地に移して隔離すべきだと説いた。利鹿孤は、窮して来た者を疑えば、今後だれも帰附しなくなるとして退けた。
  • その後、南羌梁戈らがひそかに乾帰を招くと、乾帰はこれに応じようとした。臣下の屋引阿洛がこれを告げたため、利鹿孤は吐雷に三千騎を率いさせ、捫天嶺に屯させた。
  • 乾帰は殺されることを恐れ、太子乞伏熾磐に、自分だけが長安へ走り、お前たち母子兄弟は人質として残れば南凉は害さないだろうと語った。そして熾磐らを西平へ送り、自ら八月、枹罕へ南走して後秦に降った。

秋冬:余姚の敗戦、元顕の加官、西凉の成立

  • 八月、晋の尚書右僕射王雅が死去した。
  • 九月、地震が起こった。後凉の吕方が後秦に降り、広武の民三千余戸は南凉の利鹿孤のもとへ奔った。
  • 十一月、高雅之は余姚で孫恩と戦って敗れ、山陰へ走り、多くの兵が死んだ。朝廷は劉牢之を会稽など五郡の都督とし、孫恩を討たせた。孫恩は再び海へ逃れ、劉牢之は上虞に屯し、劉裕を句章守備に当てた。
  • 呉国内史袁山松は滬瀆塁を築いて孫恩に備えた。
  • 司馬元顕は徐州をも併せて領することを求め、朝廷はついに彼を開府儀同三司、十六州都督・徐州刺史とし、その子司馬彦瑋を東海王に封じた。
  • 乞伏乾帰が長安へ至ると、姚興は彼を都督河南諸軍事・河州刺史・帰義侯とした。
  • しばらくして乞伏熾磐が父のもとへ逃げようとしたところ、南凉に捕らえられた。利鹿孤は殺そうとしたが、禿髪傉檀が、子が父のもとへ帰ろうとしただけで深く責めるには及ばない、大度を示すべきだと諫めたので赦した。
  • 姚興は、かつて洛陽陥落で捕えられた晋将劉嵩ら二百余人を晋へ帰した。
  • 北凉の晋昌太守唐瑶が叛き、六郡に檄を飛ばして李暠を推戴した。李暠は冠軍大将軍・沙州刺史・凉公を称し、敦煌太守を兼ね、年号を庚子とした。こうして西凉が成立した。
  • 李暠は唐瑶・郭謙・索仙・張邈・尹建興・張体順らを任用し、宋繇を東方へ遣わして凉興・玉門以西の諸城を平定した。
  • 酒泉太守王徳も北凉に叛いたが、沮渠蒙遜の討伐を受けて城を焼いて唐瑶のもとへ走り、沙頭で大敗した。

十二月:星変、車胤の死、北魏の災異対応、南燕建国

  • 十二月、天津に彗星が現れた。司馬元顕はこの天変を受け、録尚書事を辞して尚書令に復した。
  • 吏部尚書車胤は、元顕の驕恣を道子に告げて抑制を求めたが、元顕はこれを知って、父子の間を裂こうとしたと怒った。車胤は恐れて自殺した。
  • 後燕の慕容盛は燕台を立て、諸部の雑夷を統轄させた。
  • 北魏では太史がたびたび天文の乱れを奏し、拓跋珪も占書に「王を改め政を易う」とあるのを見て不安を強めた。群下に対して、帝王の継統は天命によるものであり、妄りに犯してはならぬと諭したうえで、官名をしばしば改め、災異を厭おうとした。
  • 董謐が仙薬の経書を献じると、拓跋珪は仙人博士を置き、仙坊を立て、薬を煉らせ、死罪人に試させたが多くが死んで効験はなかった。それでも信仰はやまなかった。
  • また、燕が諸子を要地に分封して権力が下に移り、ついに滅亡へ向かったことを深く戒めていたため、公孫表の法家思想にも傾き、群臣を厳しく御した。左将軍李粟が不遜な態度を重ねたことで誅され、朝臣は震え上がった。
  • 丁酉、慕容盛は献荘后丁氏を皇太后とし、遼西公慕容定を皇太子に立て、大赦した。
  • この年、南燕王慕容徳は広固で皇帝に即位し、大赦して年号を建平とした。名を備徳と改め、避諱をしやすくした。
  • また前燕主慕容暐に幽皇帝の諡を追贈し、慕容鍾を司徒、慕輿抜を司空、封孚を左僕射、慕輿護を右僕射とし、妃段氏を皇后に立てた。