資治通鑑晉紀三十三 安皇帝 隆安 三年 399年

春正月:後燕の粛清と改元、北魏の北方遠征

  • 春正月、晋では大赦が行われた。
  • 後燕では、昌黎尹の留忠が反乱を企てて誅殺され、この事件に連座して尚書令の東陽公慕容根、尚書の段成も死を賜った。留忠の弟の留志も凡城で誅された。
  • 後燕は平原公慕容元を司徒・尚書令に任じた。
  • 北魏の道武帝拓跋珪は北巡し、諸軍を東道・西道・中道の三路に分けて大漠を越え、高車を奇襲した。
  • 後燕では右将軍張真、城門校尉和翰が謀反で処刑され、ついで大赦を行い、年号を長楽に改めた。慕容盛は十日ごとに自ら獄訟を裁き、拷問をあまり用いずに事情を見抜いた。

南凉の内政と河西攻略構想

  • 武威王禿髪烏孤は都を楽都に移し、一族を各地に配置して統治体制を整えた。隴右・河西の有力者や豪傑を適材適所に任用し、内外の政務はおおむね安定した。
  • 烏孤は群臣に、隴右・河西が分裂して十余国となった現状を踏まえ、吕氏・乞伏氏・段氏のうちどこを先に攻めるべきかを問うた。
  • 楊統は、乞伏氏はもと同系であり最終的には服属し、段氏は脅威が小さいので、まず衰えつつある後凉の吕光政権を狙うべきだと説いた。浩亹・廉川方面から揺さぶれば姑臧は数年で疲弊し、その後は他勢力も自然に屈するという見通しであった。
  • 烏孤はこれを是とした。

二月:北魏の高車撃破、林邑の南侵、北凉の成立

  • 二月、北魏軍は高車三十余部を大破し、多数の人畜を獲得した。別働隊の衛王拓跋儀も大漠を越えて諸部を破り、高車諸部を震え上がらせた。
  • 林邑王范達は日南・九真を陥れ、さらに交趾へ侵攻したが、太守杜瑗に撃退された。
  • 北魏の征虜将軍庾岳は、渤海で張超を破って斬った。
  • 段業は凉王に即位し、年号を天璽とした。沮渠蒙遜を尚書左丞、梁中庸を右丞とした。
  • 北魏主は牛川南方で大規模な狩猟を行い、高車人を使って広大な囲いをつくらせ、平城南方に大きな鹿苑を築かせた。

三月:北魏の官制整備と文教振興

  • 三月、拓跋珪は平城に帰還した。
  • 北魏では尚書三十六曹と外署を分掌する体制を整え、合わせて三百六十曹を置き、八部大人がこれを総覧した。崔宏は広く三十六曹を統轄した。
  • 五経博士を置き、国子太学の学生数を増やして三千人とした。
  • 拓跋珪が博士李先に天下で最も人の知恵を益するものを問うと、李先は書籍だと答えた。これにより、郡県に命じて広く書籍を捜索し、平城へ送らせた。

南燕の滑台放棄と青州進出の決断

  • かつて後秦王苻登の弟苻広が南燕の慕容徳を頼っていたが、天象を口実に自ら秦王を称して挙兵した。慕容徳はこれを討って斬った。
  • その間に、滑台では魯陽王慕容和の長史李辯が晋軍を引き入れようとし、のちには慕容和を殺して滑台を北魏に降した。
  • 北魏の和跋は鄴から急行して滑台を接収し、慕容徳軍を撃破した。陳郡・潁川方面の民も多く北魏に付いた。
  • 南燕の慕容雲は李辯を斬り、将士と家族二万余を率いて慕容徳のもとへ走った。
  • 慕容徳は滑台奪回か他所への転進かで迷ったが、韓範・張華・潘聡らの議論のうち、潘聡は滑台は四方の強国に挟まれ守り難く、むしろ青州の広固こそ立国の基礎にふさわしいと主張した。
  • 沙門竺朗も天文・易占から、まず兗州を取り、次いで斉地へ進むのが天意だと述べた。
  • 慕容徳はこれに従って南下し、兗州北辺の郡県は次々と降った。慕容徳は守宰を置き、兵に掠奪を禁じたため、民衆は牛酒を携えて迎えた。

四月:西秦・東晋・後凉

  • 北魏の庾真・奚斤は庫狄・宥連・侯莫陳の三部を破り、大峨谷まで追撃して戍を置いて帰った。
  • 晋では、安帝の生母陳夫人が徳皇太后として追尊された。
  • 鮮卑の疊掘河内が五千戸を率いて西秦に降り、西秦王乞伏乾帰はその地位を認め、宗女を妻として与えた。
  • 会稽王司馬道子が病気で、しかも常に酔っていたため、世子司馬元顕は朝廷を動かして道子から司徒・揚州刺史の職を解かせ、自ら揚州刺史となった。道子は醒めてから知って激怒したが、どうすることもできなかった。
  • 元顕は会稽の張法順を参謀とし、親党を多く登用したので、朝廷の高官たちは彼を恐れた。
  • 後燕では余超・高和らが謀反で誅された。
  • 後凉の太子吕紹と太原公吕纂が北凉を攻めたが、段業の部将沮渠蒙遜は、南凉の援軍を警戒して軽々しく戦うべきでないと諫めた。段業はこれを容れ、持久策をとったため、吕紹・吕纂は引き揚げた。

六月:南凉の布陣替え、東晋の人事

  • 烏孤は利鹿孤を凉州牧として西平に鎮させ、車騎大将軍禿髪傉檀を中央に呼び戻して国政をみさせた。
  • 司馬元顕は若年で重任を一挙に担うことを避ける姿勢を示し、琅邪王司馬徳文が司徒となった。
  • 北魏では旧晋臣盧溥が数千家を率いて漁陽へ食を求め、そのまま数郡を占拠した。

秋七月:盧溥の処遇、後燕の法制、洛陽攻防

  • 七月、後燕の慕容盛は盧溥を幽州刺史に任命した。
  • 慕容盛は、貴族が金帛で罪を贖える制度は、悪を懲らさず王府を利するだけで意味がないとして、今後は軍功による贖罪のみを許し、金帛納付による贖いをやめた。
  • 西秦の丞相・出連乞都が死去した。
  • 後秦の斉公姚崇と楊仏嵩が洛陽を攻め、河南太守辛恭靖は籠城した。雍州刺史楊佺期は北魏に救援を求め、張済を通じて事情を伝えた。佺期は、洛陽を羌に奪われるくらいなら北魏に渡る方がよい、とまで語って救援を促した。
  • 拓跋珪は太尉穆崇に六万騎を与えて洛陽救援に向かわせた。

八月:遼西の李朗誅殺と張衮・崔逞の失脚

  • 後燕の遼西太守李朗は長年郡を治めて威望があり、慕容盛に猜疑されるのを恐れて召しに応じず、ひそかに北魏軍を招いて郡ごと降ろうとした。
  • だが龍城へ送った使者の話を慕容盛が詰問すると虚偽が露見し、李朗の一族は皆殺しとなった。慕容盛は李旱を派遣して討たせた。
  • 北魏では、張衮がかつて推薦した盧溥・崔逞により失望を招いた。盧溥は後燕の官爵を受けて北魏の郡県を侵し、崔逞は過去の進言や態度、さらに家族を南燕へ走らせたことなどを理由に拓跋珪の不興を買い、死を賜った。張衮も尚書令史へ左遷され、引きこもって経籍を校訂するだけとなり、ほどなく死んだ。
  • さらに、かつて後燕から降った封懿も応対が疎略として退けられた。拓跋珪が中州士人を疑う気持ちを深めていたことがうかがえる。

南凉の代替わりと南燕の青州制圧

  • 武威王禿髪烏孤は、酔って乗馬した際に脇を傷めて死去した。遺命に従い、国人は弟の利鹿孤を立てた。烏孤には武王の諡と烈祖の廟号が贈られ、利鹿孤は都を西平へ移した。
  • 南燕の慕容徳は、晋の幽州刺史辟閭渾を説得して降そうとしたが応じなかったため、北地王慕容鍾に二万の兵を与えて攻めさせた。
  • 慕容徳は琅邪に進出し、徐州・兗州の民十余万が帰附した。さらに莒城を取り、潘聡を徐州刺史として置いた。
  • かつて蘭汗の乱で南へ逃れた封孚が辟閭渾のもとにいたが、慕容徳が到着すると降った。慕容徳は青州を得る以上に封孚を得たことを喜び、機密を委ねた。
  • 慕容鍾は檄文をもって青州諸郡に利害を説き、辟閭渾の部下である崔誕・張豁はいずれも南燕に降った。辟閭渾は魏へ逃れようとしたが、追撃されて斬られた。子の道秀は父とともに死を願ったが、孝を称えられて助命された。
  • 辟閭渾の参軍張瑛は主君のために強硬な檄文を書いていたが、慕容徳に捕らえられても顔色を変えず、韓信と蒯通の故事になぞらえて言い返し、殺された。
  • こうして慕容徳は広固を都と定めた。

九月:李朗平定、後秦の改元

  • 李朗は家族が誅殺されたと聞き、自らの部衆を固めていたが、李旱が一度召し戻されたことで燕内部に変事があると誤解し、守りを怠った。
  • のちに李旱が再出動すると、李朗は子に令支を守らせ、自ら北平で魏軍を迎えようとしたが、李旱に令支を奪われ、孟広平の追撃を受けて無終で斬られた。
  • 後秦の姚興は災異が重なったことから帝号を下げて王を称し、大赦を行って年号を弘始とした。官吏の等級を一段下げ、孤貧を救い、賢俊を登用し、法令を簡省し、訴訟を明らかにし、善政の守令には賞を、貪虐な者には誅を加えたため、遠近は粛然とした。

冬十月:後燕の処断、洛陽陥落、孫恩の乱勃発

  • 十月、後燕では中衛将軍衛双が罪により死を賜った。李旱はこれを聞いて恐れ、一時軍を捨てて逃げたが、のち戻って罪を謝し、慕容盛はその忠勤を念じて赦した。
  • 辛恭靖は洛陽を百余日守ったが、魏の救援が到着する前に後秦軍が洛陽を奪取した。辛恭靖は捕らえられても姚興に拝礼せず、羌賊の臣にはならないと言い放って投獄されたが、後に逃亡した。
  • 淮水・漢水以北の諸城の多くは、要員を人質として後秦に降った。北魏は穆崇を豫州刺史とし、野王に鎮して後秦の南侵に備えた。
  • 東晋では司馬元顕が苛烈な統制を行い、東土諸郡で公私の被保護民を京師へ移して兵役に充てたため、人心が騒いだ。
  • 孫恩はこの混乱に乗じ、海島から挙兵して上虞令を殺し、会稽へ進撃した。
  • 会稽内史王凝之は天師道を深く信じ、鬼兵が守ると称して兵を出さず備えもしなかった。孫恩が迫ってからようやく出兵を許したが間に合わず、会稽は陥落し、王凝之とその子らは殺された。妻の謝道韞は落ち着いて刀を取り、自ら数人を斬ったのち捕らえられた。
  • 呉国・臨海・義興などでも太守らが逃亡し、会稽の謝鍼、呉郡の陸瓌、呉興の丘尫、義興の許允之、臨海の周胄、永嘉の張永らがそれぞれ蜂起して孫恩に呼応し、八郡で長吏が殺された。
  • 三呉の民は長く太平に慣れて戦に不慣れだったため、郡県兵は風を望んで崩れた。孫恩は会稽を根拠とし、征東将軍を称し、従わぬ者は幼児に至るまで殺し、凄惨な虐殺を行った。
  • 孫恩は王道子・司馬元顕の罪を弾劾し、その誅殺を求める上表を行った。
  • 当時の東晋政局では、石頭以南は荆江、以西は豫州、京口と江北は劉牢之・高雅之が実力を握り、朝廷が実際に命令を及ぼせるのは三呉だけであった。その三呉も孫恩に奪われ、人心は危急となった。
  • 朝廷は内外を戒厳とし、道子に黄鉞を加え、元顕に中軍将軍を兼ねさせ、謝琰・劉牢之らに討伐を命じた。

十二月:北燕郡の帰附、劉裕の初陣、元顕の専横、荆州の政変

  • 十二月、後燕の燕郡太守高湖が三千戸を率いて北魏へ降った。
  • 後燕では宗室に封爵を与え、段太后が死去した。
  • 謝琰は許允之・丘尫を破って魏隠を迎え戻し、劉牢之も転戦して勝利を重ねた。謝琰は烏程に屯し、高素を牢之の支援に出した。
  • この時、彭城の劉裕が初めて頭角を現した。貧家の出で、若いころは履を売って暮らし、博打を好んで軽んじられていたが、劉牢之に従軍すると、わずかな手勢で数千の賊に遭遇して奮戦し、孤立しながらも敵を追い散らした。劉敬宣が救援して大勝し、劉裕の勇名が知られた。
  • 孫恩は当初、八郡が呼応したことで天下はもはや事がないと思い、朝服で建康に入ろうと豪語していたが、劉牢之が江を渡ると聞くと方針を変えた。官軍が会稽へ迫ると、男女二十余万口を率いて東走し、宝物や女子を道に捨てたため、官軍がそれを奪う間に海島へ逃げのびた。
  • 高素も山陰で孫恩党を破り、呉郡太守陸瓌・呉興太守丘尫・余姚令呉与・沈穆夫らを斬った。
  • しかし官軍は勝利後に掠奪を働いたため、民は失望し、郡県の城中は一時人影が絶えた。朝廷は孫恩再来を憂え、謝琰を会稽太守・五郡都督として海辺に布陣させた。
  • 司馬元顕は録尚書事となり、世人は父道子を東録、元顕を西録と呼んだ。だが元顕には良師友がなく、取り巻きは佞臣ばかりで、ますます驕奢となった。公卿以下は彼に拝礼を強いられ、財政窮乏のなかでも元顕だけは富を蓄えた。
  • 荆州では殷仲堪が桓玄を警戒して楊佺期と結んだが、互いに猜疑し、桓玄は逆に朝廷へ働きかけて勢力圏拡大を認めさせた。朝廷も両者を争わせようとして、桓玄に荆州四郡、さらに江州を与えた。
  • 楊佺期は怒って兵を挙げようとしたが、殷仲堪が抑えた。殷仲堪の部下羅企生は、主君は仁厚だが決断に乏しく、必ず難に及ぶと弟に語った。
  • この年、荆州では大水があり、殷仲堪は倉を開いて饑民を救った。桓玄はその虚を衝いて西上し、表向きは洛陽救援を唱えつつ、実際には殷仲堪・楊佺期の討滅を狙った。
  • 桓玄は巴陵の積穀を先に奪い、郭銓を前鋒に仕立て、兄桓偉と内応を図った。殷仲堪は桓偉を人質とし、殷遹・楊広らを派遣して防いだが連敗した。
  • 桓玄は零口に迫り、殷仲堪はやむなく楊佺期に救援を求めた。佺期は襄陽への退避を勧めたが、仲堪は州を捨てたくなく、兵糧があると偽って引き寄せた。
  • 佺期は精兵を率いて到着したが、実際には食糧が乏しかったため激怒した。それでも出撃して一時は桓玄を退かせたが、翌日の戦いで大敗し、逃走ののち捕らえられて殺された。兄楊広も殺された。
  • 殷仲堪も鄼城へ逃れ、さらに長安を目指したが、柞溪で追いつかれ、自殺を強いられた。仲堪は天師道に傾倒し、小恩恵で人心を取る一方、見通しと決断に欠けて敗れた。
  • 仲堪に仕えた羅企生は、主君の敗亡に際して見捨てず、家族の制止を振り切って忠節を示した。のちに桓玄は彼にも帰順を促したが、企生は拒み、嵆康・嵆紹の故事を引いて老母のため弟の助命だけを願い、自らは殺された。

後凉の王位継承争い

  • 後凉の吕光は病が重くなり、太子吕紹を天王に立て、自らは太上皇帝を称した。吕纂を太尉、吕弘を司徒とし、外敵が多いので兄弟が協力するよう戒めた。
  • しかし吕光の死後、吕紹は喪を秘し、吕纂が宮中へ入って涙を尽くして哭した。吕紹は位を譲ろうとしたが、吕纂は辞退した。
  • 驃騎将軍吕超は吕纂に異志ありとして早く除くべきだと勧めたが、吕紹は父の遺言を思って拒んだ。
  • 一方、吕弘は姜紀を通じて吕纂に挙兵を促した。
  • その夜、吕纂は壮士数百を率いて北城から侵入し、吕弘も東苑兵を率いて呼応した。守将の斉従は義によって吕纂に斬りかかり、額を傷つけたが、吕纂はその忠を称えて殺させなかった。
  • 吕紹の禁兵は崩れ、吕紹は自殺した。吕纂は一度吕弘に位を譲ろうとしたが、結局自ら天王位につき、大赦して年号を咸寧とした。吕光には懿武皇帝の諡と太祖の廟号が贈られ、吕紹は隠王とされた。
  • 吕弘は大都督・大司馬・録尚書事となり、番禾郡公に封じられた。斉従や吕超にも恩賞が与えられた。

年末の諸国動向

  • 後燕の慕容盛は河間公慕容熙を都督中外諸軍事・尚書左僕射・中領軍とした。
  • 劉衛辰の子の劉文陳が北魏へ降り、拓跋珪は宗女を妻として与え、宿氏の姓を賜った。