資治通鑑晉紀三十 安帝 太元 二十一年 396年

春・燕の動揺と慕容垂の最終遠征

  • 正月、高陽王慕容隆が龍城から中山へ精鋭を率いて入り、敗戦で落ちていた燕人の気力をやや回復させた。
  • 休官の権万世が西秦に降った。
  • 慕容垂は平規に冀州の兵を発させたが、2月、平規は博陵・武邑・長楽三郡の兵を率いて魯口で反乱を起こした。その一族の平翰も遼西で呼応した。
  • 余嵩の討伐軍は敗れ、慕容垂はみずから出陣した。平規は家族や平喜らを伴って黄河を渡って逃げ、慕容垂は引き返した。
  • 平翰は龍城へ向かったが、清河公慕容会が東陽公慕容根らに討たせて破り、平翰は山南へ逃れた。

慕容垂、平城を急襲

  • 3月、慕容垂は慕容徳を中山に残し、ひそかに青嶺を越え、天門を経て山を穿って道を通し、魏の意表を突いて雲中を直撃した。
  • 拓跋虔は平城に部落三万余家を率いて駐屯していたが、慕容農・慕容隆の前鋒をまったく警戒していなかった。
  • 閏月乙卯、燕軍が平城に到着すると、拓跋虔はようやく迎撃したが敗死し、その部落はことごとく燕に収められた。
  • 拓跋珪は震え上がって逃亡を考え、諸部にも動揺が広がった。胡三省は、拓跋虔が勇将であったからこそ、その死が諸部の離反を招いたのだと見る。
  • 慕容垂は参合陂を通る際、積み重なる燕兵の遺骸を見て祭を行い、軍士は大いに慟哭した。慕容垂自身も恥と怒りのあまり吐血し、これが病の原因となった。
  • その後も馬上ではなく輿に乗って進んだが、平城西北三十里で病は重くなった。
  • 慕容宝らは慕容垂の来援を聞いて引き返し、燕軍の叛者が魏に「垂はすでに死に、軍中の輿にはその遺体がある」と密告した。拓跋珪は追撃を考えたが、平城陥落の知らせを受けて陰山へ退いた。胡三省は、これは「死んだ諸葛に生きた仲達が走る」に似ると評している。
  • 慕容垂は平城近くに十日ほど留まったのち、燕昌城を築いて撤退した。
  • 4月癸未、上谷の沮陽で死去した。71歳であった。喪は秘されたまま軍は進み、丙申に中山へ到着し、戊戌に発喪した。成武皇帝と諡し、廟号を世祖とした。

慕容宝の即位

  • 4月壬寅、太子慕容宝が即位し、大赦して元号を永康とした。
  • 5月、慕容徳を六州都督・車騎大将軍・冀州牧として鄴に、慕容農を六州都督・并州牧として晉陽に置いた。庫傉官偉を太師、蔚を太傅とした。
  • さらに慕容麟を尚書左僕射、慕容隆を右僕射、慕容盛を司隷校尉、慕容鳳を冀州刺史、劉該を徐州刺史に任じた。
  • 晋では謝琰が尚書左僕射となった。

段后の死と燕の継嗣問題

  • もともと慕容垂には前段后所生の子令・宝があり、後段后所生に朗・鑒がいた。ほかにも麟・農・隆・柔・熈ら多くの寵姫の子がいた。
  • 慕容宝は若いころ名声があったが、やがて怠惰になり朝野の失望を招いた。
  • 後段后はかねて、慕容宝は太平時の守成には向くが、乱世を済う才ではないとして、遼西王か高陽王のどちらかに大業を託すべきだと慕容垂に進言していた。また慕容麟は奸詐で、後日の国難となるから早く処置すべきだとも言った。
  • だが慕容垂は左右の讒譽を信じ、これを「我を晋の献公にする気か」と退けた。段氏は、太子は必ず社稷を失うと嘆き、范陽王慕容徳こそ非常の器だと妹に語った。
  • 慕容宝と慕容麟はこれを怨み、ついに段氏に自裁を迫った。段氏は、兄弟が母をも殺すようでは先業を守れまいと罵って自殺した。
  • 慕容宝は、嫡統を廃そうとした罪があるので母后としての礼を尽くすべきでないと論じたが、眭邃が、子が母を廃する義はなく、たとえ漢の閻后のように順帝を廃した者でさえ配享されたのだと大声で主張し、結局は正式に喪礼が行われた。

魏の拡大と燕の内政不満

  • 6月、拓跋珪は王建らを派遣して燕の広寧太守劉亢泥を斬り、その部落を平城へ移した。上谷太守慕容詳も郡を捨てて逃亡した。
  • さらに賀太妃が死去した。
  • 慕容宝は士族の旧籍を整理し、清濁を分け、戸口を再点検し、軍営や封陰の戸を郡県に帰属させた。制度としては必ずしも誤りではないが、敗戦直後の不安定な時期に断行したため、士民は怨み、離反の兆しが生まれた。胡三省は、『大学』の「本末先後」を引いて時機を失した改革だと評する。

凉州・魏・高唐の動き

  • 呂光は天王に即位し、国号を大凉、元号を龍飛とした。百官を備え、世子呂紹を太子とし、子弟二十人を公侯に封じた。段業らも尚書に任ぜられた。
  • 呂光は秃髪烏孤を征南大将軍・益州牧・左賢王に任じようとしたが、烏孤は、呂光の諸子・甥たちが貪虐で民心を失っている以上、不義の爵位は受けられず、自分は帝王の事業を行うつもりだとして、鼓吹・羽儀のみを留め、使者を返した。
  • 平規は残党を集めて高唐に拠ったが、高陽王慕容隆が東方の民の支持を受けつつ南下し、平規は逃走、慕容進らが済北で斬った。
  • 慕容宝は王献之の娘を太子妃に立てた。
  • 拓跋珪は群臣の勧めで天子の旌旗を立て、警蹕の制を用い、元号を皇始とした。張恂は中原進出を勧め、拓跋珪もこれを良しとした。胡三省は、ここに南北の形勢が定まり、後の中国史の流れに大きく影響したと論じている。

魏の并州攻略

  • 慕容農は部曲数万戸を率いて并州へ移ったが、当地には備蓄が乏しく、しかも早霜で収穫が不作だったため、住民は軍を養えなかった。
  • さらに諸胡を護軍に分けて監督させたことで、民も夷もともに怨み、ひそかに魏軍を招いた。
  • 8月己亥、拓跋珪は歩騎四十余万で大挙して南下し、馬邑から句注を越えた。李栗を前駆とし、封真らには東道から軍都を出て幽州を襲わせた。
  • 幽州・平州牧の清河公慕容会は、身分は高くなかったが年長で才能があり、慕容垂に愛された。かつては東宮を代行するほど重用されたが、慕容宝は少子の慕容策を太子に立て、慕容会と慕容盛を王に封じるに留めた。
  • 慕容会はこれに不満を抱き、章武王慕容宙を陵辱するなど、反意を抱く様子が明らかになった。
  • 9月、慕容宙が宣平陵に慕容垂と段后を葬った後、慕容宝は慕容隆の部曲・参佐の家属を中山へ戻すよう命じたが、慕容会は多くを手元に留めて従わなかった。

晉陽陥落と魏の華北支配

  • 9月戊午、魏軍は陽曲に至り、西山から晉陽を望んで挑発した。遼西王慕容農が出撃したが大敗し、晉陽へ逃げ帰ったものの、司馬慕輿嵩に城門を閉ざされた。慕容農は妻子を率いて東へ逃れ、長孫肥に潞川で追いつかれて家族を奪われ、自身だけが負傷しつつ中山へ戻った。
  • 拓跋珪は并州を平定し、台省を置き、刺史・太守以下に儒生を用いた。軍門に来る士大夫は年少年長を問わず引見し、才能ある者は抜擢した。
  • 奚収を汾川へ派遣して燕の丹楊王買徳らを捕え、張恂らを諸郡太守に任じて農桑を勧めた。胡三省は、これこそ拓跋珪が中原を取れた理由だと見る。

中山をめぐる攻防

  • 慕容宝は魏軍迫る中、東堂で防衛策を諸臣に諮った。
  • 苻謨は、平地へ入らせれば敵わないので隘路を塞いで防ぐべきとし、眭邃は、魏騎兵は携行糧食が少ないから、住民を堡に集め、堅壁清野で持久すれば六十日で退くと説いた。
  • 封懿は、民堡ではかえって兵糧を敵に与えるだけであり、関を拠って戦うのが上策と述べた。
  • 慕容麟は、中山に籠って敵の疲弊を待つべきだと主張し、これが採用された。胡三省は、険阻で防がず籠城に頼ったことが慕容宝敗亡の原因だと評する。
  • 慕容農は安喜に屯し、軍事全般は慕容麟に委ねられた。
  • しかし慕容宝は酒色に溺れ、政務を見る時間は少なく、外部の者は容易に会えなかった。
  • 寵愛された張貴人は年齢をからかわれて恨みを抱き、その日の夕方、酔って清暑殿に寝た慕容宝を婢に命じて被で顔を覆わせ、殺害した。左右には「悪夢のうちの急死」と言わせ、真相は追及されなかった。

晋の安帝即位と政争

  • 太子が帝位を継ぎ、大赦が行われた。司馬道子は太傅・揚州牧・黄鉞仮授となり、内外の政務はすべてこれに諮ることとされた。
  • 安帝は極めて聡明さに欠け、言葉も十分に話せず、暑寒・飢飽の区別さえ自分ではできなかった。起居飲食はすべて他人任せだったが、同母弟の琅邪王司馬徳文が恭謹に付き従い、その度合いを整えていた。
  • 王国宝はもともと道子に取り入っていたが、御史中丞褚粲にしばしば弾劾され、また帝に媚びて一時道子と疎遠になったため、道子との旧交は壊れていた。
  • しかし孝武帝の死後、再び道子に接近して王緒とともに朝権を分け持ち、その権勢は内外を震わせた。
  • 王恭は山陵に赴くたびに正論を吐いて道子に憚られ、王緒はこの機に兵を伏せて王恭を殺すよう王国宝に勧めたが、国宝は応じなかった。
  • 道子は内外融和を装いつつ王恭を懐柔しようとしたが、王恭は時政を論ずるたび激しい態度を崩さず、道子はついに彼を除こうと考えた。
  • 一方で王恭にも、入朝時に兵で王国宝を誅せとの勧めがあったが、庾楷が国宝に党していることを恐れて実行しなかった。
  • 王珣は、罪状が明白でないうちの先制攻撃は朝野の支持を失うと諫めた。王恭は従ったが、のちに王珣を権臣の間で保身する胡広のようだと評し、王珣は王陵と陳平を対比しつつ、最後にどうなるかだけを見ればよいと答えた。
  • 10月、孝武帝は隆平陵に葬られた。帰鎮にあたり王恭は道子に、幼主のもとで伊尹・周公のごとき難しい任を担うのだから、政務に親しみ、直言を納れ、佞人を遠ざけるよう強く求めた。これにより王国宝らはいよいよ恐れた。

年末・魏の河北侵攻

  • 拓跋珪は于栗磾・公孫蘭に二万の歩騎を率いさせ、晉陽から韓信旧道をひそかに進ませた。自身も井陘から中山へ迫り、李先は魏に降って征東左長史となった。
  • 西秦では軻彈と益州が不和となり、軻彈は凉へ奔った。
  • 拓跋珪は常山を攻め落とし、太守茍延を捕えた。常山以東では守宰の多くが逃亡か降伏し、郡県はほとんど魏に附いた。中山・鄴・信都だけが燕に残った。
  • 11月、拓跋儀が鄴を、王建と李栗が信都を攻め、拓跋珪自身は中山を攻撃した。
  • 高陽王慕容隆は南郭を守って朝から夕方まで戦い、多くの損害を与えて魏軍を退かせた。
  • しかし拓跋珪は中山は堅く、慕容宝は出戦しないと見て、力攻めは損であり長囲は糧費がかかると判断し、先に鄴と信都を取る方針へ転じた。
  • 同じころ、章武王慕容宙は薊に入り、陽城王蘭とともに守った。魏の石河頭は攻めあぐねて漁陽に退いた。
  • 拓跋珪は崔宏を捕えて黄門侍郎とし、張衮とともに機密と制度の創設を担当させた。屈遵も降って中書令となり、詔令・文書を統括した。
  • 慕容徳は鄴の城下で夜襲をかけて魏軍を破ったが、韓卓は、魏軍にはなお四つの利があり、燕軍には三つの不利があるから追撃すべきでないと論じた。慕容徳はこれに従い、深い塁と堅い守りで敵を疲れさせる方針を採った。

冬十二月・河東・関中

  • 12月、賀頼盧が二万騎を率いて拓跋儀とともに鄴を攻めた。
  • 魏の別部大人没根は、拓跋珪に憎まれて誅されることを恐れ、数十人を率いて燕に降った。慕容宝は鴈門公に封じた。
  • 没根は魏営への夜襲を願い出たが、慕容宝は重兵を与えず、百余騎のみ授けた。没根は夜半に中軍まで入り、拓跋珪を驚かせたが、兵が少なすぎて大局を変えられず、多くの首級を挙げて帰るにとどまった。胡三省は、慕容宝が降人を使いこなせなかったと見る。
  • 楊盛は晋に使者を送り服属を請い、朝廷はこれを鎮南将軍・仇池公に任じた。楊盛は苻宣を平北将軍とした。
  • 越質詰帰が二万戸を率いて西秦から姚興の秦へ降り、成紀に移され、鎮西将軍・平襄公となった。
  • 姚碩德は上邽の姜乳を攻め、姜乳は降伏した。碩德は秦州牧として上邽に鎮し、姜乳を中央に徴した。
  • 强熈・権千成が三万で上邽を囲んだが、姚碩德はこれを破り、强熈は仇池へ、ついで後秦へ逃れた。碩德は略陽で権千成も降した。
  • 西燕滅亡後、河東太守柳恭らは各地に兵を擁して自立していた。姚興は晋王姚緒にこれを討たせたが、柳恭らは黄河沿いで防ぎ、緒は渡れなかった。
  • 永嘉の乱以来、汾陰の薛氏は一族を集めて黄河を阻み、劉・石・苻の諸政権にも仕えなかった。姚興は礼を尽くして薛彊を招き、鎮東将軍に任じた。
  • 薛彊は後秦軍を率いて龍門から渡河し、蒲阪へ入城させたため、柳恭らはみな降った。姚興は姚緒を并・冀二州牧として蒲阪に鎮させた。