資治通鑑晉紀三十 安帝 太元 二十年 395年

春・燕と西秦の整備

  • 正月、慕容垂は封則を後秦へ使者として送り、聘礼に報いた。
  • その後、自ら平原から広川・勃海・長楽を巡猟して帰還した。
  • 西秦の乞伏乾帰は、太子熾磐を尚書令とし、辺芮・秘宜を左右僕射に任じ、官制はおおむね魏武帝・晋文帝の旧例に従って整えた。ただし、大単于・大将軍の称号はなお用い、旧来の府佐制度も維持した。
  • 薛干の太悉伏は長安から嶺北へ逃れ、上郡以西の鮮卑・雑胡がこれに呼応した。

晋の皇太子と道子政権

  • 2月、尚書令陸納が死去した。
  • 3月朔、日食があった。
  • 皇太子司馬徳宗が東宮に移り、王雅が少傅を兼ねた。
  • このころ会稽王司馬道子は専権し、奢侈と放縦を極めていた。寵臣の趙牙はもと倡優、茹千秋はもと銭唐の捕賊吏で、いずれも媚びと賄賂で取り立てられた。
  • 趙牙は道子のために東第を造営し、築山・穿池に莫大な費用を投じた。孝武帝は実地に赴いて豪華さを戒めたが、工事はかえって激しくなった。
  • 茹千秋は官職を売買し、権勢を笠に巨万の富を集めた。聞人奭がこれを上奏し、帝はますます道子を嫌った。
  • ただし太后への配慮から道子を廃せず、王恭・郗恢・殷仲堪・王珣・王雅らを内外の要地に配して牽制した。
  • 道子もまた王国宝・王緒を腹心として引き寄せ、ここに朋党対立が激化した。
  • 徐邈は、漢文帝や晋武帝の故事を引いて兄弟関係には深い慎みが必要だと述べ、道子の失徳をなお寛容に処すべきだと帝に進言した。帝はこれを受け、再び道子に政務を委ねた。

西秦の敗北

  • 楊定の死後、天水の姜乳が上邽を襲って拠った。
  • 4月、西秦王乾帰は乞伏益州に六千騎を与えて討たせた。辺芮と王松寿は、益州は戦勝続きで驕っており、単独では必ず軽敵敗戦すると警告した。
  • 乾帰はその勇を信じ、韋䖍・務和を補佐につけたが、益州は大寒嶺に至っても部伍を整えず、兵に遊猟と飲酒を許し、軍事を論ずる者を斬るとまで命じた。
  • 姜乳はこれを逆襲して大破した。

魏の大挙南下

  • 拓跋珪は燕に叛き、国境付近の諸部を侵した。
  • 5月、慕容垂は太子慕容宝・慕容農・慕容麟に八万を授けて五原から魏を討たせ、慕容徳・慕容紹に後続の歩騎一万八千を率いさせた。
  • 高湖は、魏と燕は婚姻で結ばれ、燕は拓跋珪を内難から救った恩もあるのに、馬の返還問題程度で大軍を起こすのは筋が通らないと諫めた。また拓跋珪は沈着で謀略に富み、兵馬も強く、慕容宝が相手を軽視すれば危ういと警告した。
  • しかし慕容垂は怒って高湖を免官した。
  • 6月、慕容楷が死去した。
  • 乾帰は都を西城へ移した。
  • 7月、呂光は十万の兵で西秦を討った。西秦では密貴・周・莫者羖羝が、呂光に称藩し、子の敕勃を人質に出すべきだと勧めた。乾帰は一度従ったが、呂光が退くと後悔して周と羖羝を殺した。

参合陂への道

  • 魏では張衮が、燕は滑台・長子での勝利に驕り、こちらを軽視しているから、弱く見せて慢心させるべきだと進言した。拓跋珪はこれを採用し、全部落と家畜を西へ千里余り移して避難させた。
  • 燕軍は五原に着くと、魏の別部三万余家を降し、穄田百万斛余を収め、黒城を置いた。
  • 黄河に臨んで渡河の準備を進める一方、拓跋珪は後秦に援軍を求めた。
  • 秃髪烏孤は乙弗折掘ら諸部を破って服属させ、廉川堡を築いて都とした。広武の趙振はその将来を見込んで身を寄せ、烏孤はこれを得て大業が成ると喜んだ。
  • 呂光は烏孤を広武郡公に封じた。
  • このころ長星が須女から哭星にかけて現れた。孝武帝はこれを不吉と感じ、華林園で酒を挙げ、「長星よ、一杯飲むがよい。古来、万歳の天子などあろうか」と言った。

秋冬・参合陂の大敗

  • 8月、拓跋珪は黄河南岸で兵を整えた。
  • 9月、さらに河畔へ進んだ。燕軍が渡河しようとしたが暴風で船が流され、南岸に着いた燕兵三百余人は魏に捕えられたものの、拓跋珪はこれを釈放して帰した。
  • 慕容宝らは中山出発後、慕容垂の容体を長く知らされていなかった。拓跋珪は捕えた燕の使者に、川向こうから「父君はもう死んだのに、なぜ帰らぬのか」と叫ばせ、燕軍を動揺させた。
  • 拓跋珪は陳留公拓跋虔を河東、東平公拓跋儀を河北、略陽公拓跋遵を燕軍南方に置いて包囲の形を作った。後秦も楊佛嵩を派遣して魏を援けた。
  • 靳安は慕容宝に、天時が燕に不利で大敗必至だから撤退すべきだと告げたが、聞き入れられなかった。彼はこのままでは皆が野に屍をさらすと嘆いた。
  • 燕軍内部では、慕輿嵩らが慕容垂はすでに死んだと思い込み、慕容麟を立てて乱を起こそうとしたが発覚して誅された。
  • 10月辛未、慕容宝は船を焼いて夜中に撤退した。氷結前であったため魏軍は渡河できないと思い、斥候も置かなかった。
  • 11月己卯、暴風ののち川が凍ると、拓跋珪はただちに渡河し、軽騎を率いて急追した。
  • 参合陂で、支曇猛が風と気色から魏軍来襲を察して備えを勧めたが、慕容宝も慕容麟も取り合わなかった。麟は曇猛を妄言として処刑しようとすらした。曇猛は、かつて苻氏が淮南で大軍を擁しながら敗れたのも、衆を恃み敵を軽んじ天道を信じなかったからだと泣いて諫めた。
  • 慕容徳の勧めで一応、慕容麟に三万騎を率いさせ後衛に置いたが、麟は遊猟ばかりで備えを怠った。
  • 魏軍は昼夜兼行して乙酉の夕方に参合陂西へ到着し、丙戌の日の出に山上から燕営を見下ろした。燕軍は移動を始めようとしていたところで、突然それを見て大混乱に陥った。
  • 拓跋珪は総攻撃をかけ、燕軍は水辺へ殺到して将棋倒しのように踏み合い、多数が溺死した。拓跋遵も前面を塞いだため、四、五万が武器を捨てて降り、逃れた者は数千にすぎなかった。
  • 慕容宝らは単騎で辛うじて逃れ、慕容紹は戦死、倭奴・慕容道成・尹国らは生け捕られ、文武の将吏数千人が失われた。
  • 拓跋珪は賈閏・賈彝・晁崇ら有用な燕臣だけを留め、他は衣糧を与えて帰すつもりでいたが、中部大人王建が、ここで皆殺しにすれば燕は空虚になって攻略しやすいと説いたため、捕虜を坑殺した。
  • 12月、拓跋珪は雲中の盛楽へ帰った。

年末・燕の再建準備

  • 慕容宝は参合陂の敗北を恥じ、再度魏を討とうと願った。
  • 慕容徳は、魏がこの勝利で太子を軽く見ている今こそ、慕容垂みずからの神略で屈服させねば後患となると説いた。
  • 慕容垂は、慕容会に留台を任せて幽州刺史を兼ねさせ、高陽王慕容隆を龍城から中山へ呼び戻し、翌年大挙して魏を撃つ計画を立てた。
  • この年、姚興は叔父姚緒を晋王、姚碩德を隴西王、弟姚崇を斉公、姚顕を常山公に封じた。