資治通鑑晉紀三十 烈宗孝武皇帝 太元 十九年 394年

春・前秦の総攻勢と秃髪烏孤

  • 苻登は姚萇の死を聞いて喜び、「姚興のような若輩は杖で打ちすえるようなものだ」と軽んじ、大赦して全軍を率い東進した。胡三省は、軽敵が敗因であり、苻登が姚萇の晩年には滅びず、姚興の即位直後に亡んだのはこのためだと指摘する。
  • 苻登は安成王苻広に雍を、太子苻崇に胡空堡を守らせ、乞伏乾帰を左丞相・河南王に任じ、秦・梁・益・凉・沙五州牧と九錫を与えた。
  • このころ秃髪思復鞬が死に、子の秃髪烏孤が立った。烏孤は雄勇で大志があり、大将の紛陁と凉州攻略を相談した。
  • 紛陁は、まず農事と軍備、賢者登用と政刑整備を優先すべきだと説き、烏孤も従った。
  • 呂光は烏孤に冠軍大将軍・河西鮮卑大都統を授けた。配下は従属を嫌がったが、石真若留は基盤未固の今は受けて相手を慢心させ、機を待つべきだと進言し、烏孤はこれを採った。胡三省は、紛陁・石真若留はいずれも情勢判断に優れた人物だと見る。

苻登の敗北

  • 2月、苻登は姚奴・帛蒲の二堡を落とした。
  • 後燕では、慕容垂が清河公慕容会を鄴に残し、司・冀・青・兗の兵を発して西燕を討たせた。慕容楷は滏口、慕容農は壺関、慕容垂自身は沙亭から進んで、進軍方向を曖昧にして敵を惑わせた。
  • 西燕の慕容永は台壁に兵糧を集め、小逸豆帰・王次多・勒馬駒らに守らせた。
  • 夏、苻登は六陌から廃橋へ進んだ。後秦の姚詳が馬嵬堡に拠り、姚興は尹緯に救援を命じた。
  • 尹緯は廃橋に布陣して待ち、前秦軍は水の確保もできず多数が渇死した。そこへ前秦軍が猛攻してきたが、狄伯支が慎重策を勧める中、尹緯は今こそ士気の高まりを利用して敵を捕えるべきだとして決戦を選んだ。
  • 結果として前秦軍は大敗し、その夜に総崩れとなった。苻登は単騎で雍へ逃れ、苻崇と苻広も城を捨てて逃亡した。苻登は平凉へ走って残兵を集め、馬毛山に入った。胡三省は、ここは平凉方面の要害だと説明している。

後燕、台壁で西燕を撃破

  • 慕容垂は鄴の西南に一か月余りとどまり動かなかった。慕容永は、太行道が広いので慕容垂が別路から来るのではないかと疑い、諸軍を軹関に集めて太行口を塞ぎ、台壁だけに守兵を残した。
  • 4月末から5月、慕容垂は大軍を滏口から天井関へ進め、まっすぐ台壁へ向かった。
  • 慕容永は大逸豆帰を派遣して救援させたが、平規・慕容農が相次いでこれを破り、勒馬駒を斬り、王次多を捕えた。
  • 慕容垂は台壁を包囲し、慕容永は太行方面の軍を呼び戻して五万の精兵で迎えた。しかし刁雲・慕容鍾は恐れて後燕に降り、慕容永はその妻子を誅した。
  • 己亥、慕容垂は台壁南に陣し、慕容国に千騎を谷間に伏せさせた。
  • 翌日、慕容垂はわざと退き、追ってきた西燕軍の背後を伏兵で断ち、四面から攻めて大破した。首級八千余、慕容永は長子へ逃れ、晉陽の守将も逃亡したので、慕容瓚らがこれを占領した。

姚興の即位

  • 後秦では、このころ姚興が喪を発し、槐里で皇帝に即位した。大赦して元号を皇初とし、安定へ赴いて姚萇を武昭皇帝と諡し、太祖と廟号した。

晋の宣太后と長子攻囲

  • 6月、会稽王の生母鄭氏が簡文宣太后と追尊された。
  • 宣太后を元帝に配食させるべきかで議論が起こり、徐邈は正妻でなかった以上不適切だとし、臧燾は子によって尊ばれたことを明らかにする意義を説いた。結局、太廟の西側に別廟が立てられた。
  • 慕容垂は進軍して長子を囲んだ。慕容永は後秦へ逃れようとしたが、蘭英が「石虎来攻の際に太祖が堅守して大燕の基を成した先例」を挙げ、籠城して慕容垂を疲れさせるべきだと説いたため、慕容永はこれに従った。胡三省は、ただ昔に似せようとしても、そのときの臣下の忠死ぶりまで再現できるかは別問題だと評する。

苻登の最期

  • 苻登は子の汝陰王苻宗を人質として乞伏乾帰に送り、援軍を求めた。乾帰は妹を苻登に嫁がせ、乞伏益州ら一万騎を送った。
  • 7月、苻登はこれを迎えようと出兵したが、姚興が安定から涇陽へ進み、馬毛山の南で戦って苻登を捕え、殺害した。胡三省はその年齢を52と記す。
  • 姚興は苻登の軍勢を解散して農業に帰らせ、陰密の三万戸を長安へ移し、李皇后を姚晃に与えた。
  • 乞伏益州らは苻登の死を聞くと、そのまま撤退した。
  • 苻崇は湟中へ逃れて帝位を称し、元号を延初とした。苻登には高皇帝の諡と太宗の廟号が贈られた。

後秦の反乱鎮圧・西燕滅亡

  • 後秦では强熈・强多が叛き、竇衝を盟主に推した。姚興は自ら討伐し、武功に至ると强多は甥の良国に殺されて降り、强熈は秦州へ、竇衝は汧川へ逃れたが、氐の仇高に捕えられて送られた。
  • 呂光は子の呂覆を高昌に鎮させ、西域統治を委ねた。
  • 8月、晋では李氏が皇太后となり、崇訓宮に居した。
  • 慕容永は窮地に陥り、子の慕容弘らを郗恢のもとへ送って救援を求め、玉璽一紐を贈った。郗恢は、後燕が西燕を併呑すれば害が大きいから両者を共存させて機を見て共倒れを図るべきだと上奏し、朝廷は王恭・庾楷に救援を命じた。
  • 慕容永は晋軍が出ないことを恐れ、太子慕容亮まで人質に出したが、平規に高都で捕えられた。
  • さらに慕容永は魏にも救援を求め、拓跋珪は陳留公拓跋虔ら五万騎を秀容へ進めた。
  • だが晋・魏の援軍が到着する前に、西燕の大逸豆帰配下の伐勤らが門を開いて後燕軍を引き入れた。慕容永は捕えられて斬られ、公卿大将三十余人も殺された。
  • 後燕は、慕容永の支配していた八郡七万余戸と、前秦から伝わった天子の車服・伎楽・宝物を獲得した。
  • 慕容垂は慕容瓚を并州刺史として晉陽へ、慕容鳳を雍州刺史として長子へ置き、西燕の旧臣である屈遵・王徳・李先・封則・胡母亮・張騰・公孫表らも才に応じて任用した。

秋冬・西秦の拡大と後燕の東略

  • 9月、慕容垂は長子から鄴へ戻った。
  • 10月、苻崇は梁王乞伏乾帰に追われ、楊定のもとへ逃れた。楊定は司馬邵彊に秦州を守らせ、自ら二万を率いて苻崇とともに乾帰を攻めた。
  • 乾帰は軻彈・益州・詰帰に三万騎を授けて迎撃させた。益州は敗れ、諸軍は退こうとしたが、軻彈の司馬翟瑥が主君の威名を思えばこの程度で退くべきでないと叱咤し、再戦して楊定・苻崇を大破し、両人を斬った。前秦はここに六主四十三年で滅んだ。
  • 乾帰は隴西一帯をほぼ併合した。楊定に子がなかったため、叔父の子楊盛が仇池に拠って秦州刺史・仇池公を称し、武王と諡して晋に使者を送り、藩属を願い出た。
  • 苻崇の太子苻宣は楊盛のもとへ逃れた。楊盛は氐・羌を二十部に分け、護軍を置いて統治し、郡県は置かなかった。
  • 慕容垂は陽平・平原を巡幸し、遼西王慕容農に黄河を渡らせて青・兗方面を攻めさせた。廩丘・陽城を破り、東平太守韋簡が戦死し、高平・泰山・琅邪諸郡は城を捨てて潰走した。
  • 慕容農は東海まで進み、各地に守令を置いた。
  • 柔然では曷多汗が父を捨て、社崘とともに西へ逃げた。長孫肥は上郡の跋那山で曷多汗を斬ったが、社崘は残党数百を率いて逃れ、やがて疋候跋を殺して五原以西の諸部を掠め、漠北へ去った。胡三省は、柔然がこの後魏の大患となるとみる。

年末・青州方面と外交

  • 11月、慕容農は辟閭渾を龍水で破り、臨淄に入った。
  • 12月、慕容垂は慕容農らを呼び戻した。
  • 姚興は後燕と好を結び、慕容宝の子慕容敏を送り返した。後燕はこれを河東公に封じた。
  • 乞伏乾帰は自ら秦王を称し、大赦を行った。これ以後、史書では彼の政権を西秦として区別する。