資治通鑑晉紀二十九 烈宗孝武皇帝 太元 十六年 391年

春:賀蘭部争いと前秦の攻勢

  • 二月甲戌、燕主慕容垂は趙王慕容麟に賀訥討伐を命じ、鎮北将軍蘭汗には龍城の兵で賀染干を討たせた。
  • 三月、苻登は雍から後秦の安東将軍金栄を范氏堡で破り、さらに渭水を渡って京兆太守韋範の段氏堡を攻めたが落とせず、曲牢に進んだ。
  • 四月、蘭汗は牛都で賀染干を破った。

五月:姚萇、苻登を再破

  • 苟曜は一万を擁してひそかに苻登を内応で招いた。苻登は曲牢から繁川へ進み、馬頭原に軍を置いた。
  • 五月、姚萇が迎え撃つと、苻登はこれを破って後秦の右将軍呉忠を斬った。姚萇は兵を収めて再戦しようとしたため、姚碩徳が、ふだんは軽戦を戒め計略を好むのに、なぜ敗戦直後に再び進むのかと問うた。
  • 姚萇は、苻登は用兵が遅く虚実を知らず、軽兵で東方へ出たのは苟曜と通じている証であり、ゆるがせにすれば連携が固まるので、その前に急撃して事を砕くのだと説明した。そして大破し、苻登は郿へ退いた。

強金槌の帰順

  • 前秦の兗州刺史強金槌は新平を拠って後秦に降り、子の強逵を人質として差し出した。姚萇は数百騎だけでその営に入ろうとしたため、部下は危険だと諫めた。
  • しかし姚萇は、苻登を離れた以上、強金槌にほかの帰る先はなく、初めて来附した者には心を開いて結ばねばならぬとして聞かなかった。実際には配下の氐人の中に姚萇を害そうとする者もいたが、強金槌が従わなかったため事なきを得た。

六月から七月:燕と魏の関係悪化

  • 六月甲辰、趙王慕容麟は赤城で賀訥を破ってこれを捕え、その部落数万を降した。慕容垂は部衆を賀訥へ返し、賀染干を中山へ移した。
  • 慕容麟は、拓跋珪の挙動を見ればいずれ必ず国の患いになるから、都へ召してその弟に国政を監させるべきだと進言したが、慕容垂は従わなかった。
  • 西燕主慕容永が河南を侵すと、太守楊佺期がこれを破った。
  • 七月壬申、慕容垂は范陽へ赴いた。
  • 拓跋珪は弟の拓跋觚を燕へ遣わして入朝させたが、慕容垂は老い、子弟が政権を用いており、良馬を求めるため拓跋觚を留めた。拓跋珪はこれに応じず、ついに燕と絶交し、西燕に好を求めた。
  • 拓跋觚は逃げ帰ったが、燕太子慕容宝がこれを追って捕えた。慕容垂はなお以前どおりに遇した。

西北の攻防

  • 苻登は新平を攻め、姚萇が救援に来ると引いた。
  • 苻登の驃騎将軍没奕干は二子を乾帰に人質として送り、鮮卑大兠を共に攻つよう要請した。乾帰はこれに応じ、鳴蟬堡で大兠を破った。大兠は変装して逃れ、乾帰はその部衆を収めて帰ったのち、没奕干の二子を返した。
  • だが没奕干はまもなく叛いて劉衛辰と結んだ。
  • 八月、乾帰は騎兵一万を率いて没奕干を討ち、没奕干は他楼城へ逃れた。乾帰はこれを射て片目を傷つけた。

晋朝:言論統制と人事

  • 九月癸未、王珣が尚書左僕射、太子詹事謝琰が右僕射となった。
  • 太学博士范弘之は、殷浩に贈諡すべきだと論じる中で、桓温の不臣の跡を述べた。当時なお桓氏は盛んで、王珣も桓温の旧吏だったため、桓温は昏君を廃して明君を立てた忠節の士だとして、范弘之を余杭令へ左遷した。

冬:魏、柔然・匈奴鉄弗を破る

  • 十月壬辰、慕容垂は范陽から中山へ還った。
  • このころ柔然は、もと代に服属していた部族で、郁久閭氏を称していた。先代の地粟袁が死ぬと、長子の匹候跋が東辺に、次子の緼紇提が西辺に分かれていた。
  • 戊戌、拓跋珪は柔然を討った。柔然は部ごと逃げたため、拓跋珪は六百里追撃した。諸将が糧尽きを理由に帰還を勧めると、拓跋珪は副馬を食えば三日分の糧になるかを確かめ、なお倍道で追わせた。柔然は家畜を駆って走るため、数日ごとに水辺に必ず留まると見抜いていたからである。
  • 大磧南の南床山下で大破し、長孫嵩・長孫肥にさらに追わせた。屋撃は平望川で斬られ、匹候跋は涿邪山で降り、緼紇提も劉衛辰を頼ろうとして追いつかれ、ついに降った。拓跋珪はその部衆を雲中へ移した。
  • 翟遼が死に、子の翟釗が立って定鼎と改元し、燕の鄴城を攻めたが、遼西王慕容農が撃退した。
  • 呂光は乾帰が没奕干を討っている隙を衝いて兵を出したが、乾帰が帰軍すると呂光軍も退いた。
  • 劉衛辰は子の直力鞮に八、九万を率いさせて魏南部を攻めた。十一月己卯、拓跋珪は五、六千でこれを拒み、壬午、鉄岐山南で大破した。直力鞮は単騎で逃げた。
  • 拓跋珪はその勢いで五原金津から黄河を南へ渡り、直ちに劉衛辰の本拠へ進んだ。部落は大いに動揺し、恱跋城に迫られた劉衛辰父子は逃走した。追撃の結果、直力鞮は木根山で捕えられ、劉衛辰は部下に殺された。
  • 十二月、拓跋珪は塩池に軍を置き、劉衛辰の宗党五千余を誅してその屍を黄河に投じた。これはかつて劉衛辰が前秦の兵を借りて代を滅ぼした怨みに報いたものである。
  • 黄河南の諸部はみな降り、馬三十余万匹、牛羊四百余万頭を得たことで、魏の国用は大いに豊かになった。
  • 劉衛辰の末子勃勃は薛于部へ逃れた。拓跋珪が引き渡しを求めたが、部帥太悉伏は、国を失って帰ってきた者を見捨てられないとして拒み、勃勃を没奕干のもとへ送った。没奕干は娘を勃勃に嫁がせた。

年末:関中の攻防

  • 戊申、慕容垂は魯口へ赴いた。
  • 苻登は安定を攻め、姚萇は隠密へ赴いてこれを防いだ。出発に際し、姚萇は太子姚興に、苟曜は自分が北上したと聞けば長安へ来るだろうから、その時に捕えて誅せと命じた。
  • 果たして苟曜は姚興を見に長安へ来た。姚興は尹緯に責めさせ、そのまま誅殺した。姚氏にとって腹背の患いだった存在を、姚萇は機に応じて除いたのである。
  • その後、姚萇は安定城東で苻登を破り、苻登は路承堡に退いた。
  • 姚萇が酒宴を開くと、諸将は兄の姚襄ならこんな敵をここまで許さなかっただろう、陛下は慎重すぎると言った。姚萇は、姚襄には威容・統率・学識・人望の四つで自分の及ばぬ点があったが、自分には計略に少し長ずるところがあるだけだと笑って答え、群臣はみなこれを称えた。