資治通鑑晉紀二十九 烈宗孝武皇帝 太元 十五年 390年

春:朱序、西燕と翟遼を退ける

  • 正月乙亥、譙敬王司馬恬が薨じた。
  • 西燕主慕容永が洛陽へ向かったため、朱序は河陰から北へ黄河を渡ってこれを破り、白水まで追撃した。だが翟遼もまた洛陽を狙っていると知ると軍を返し、これも撃退した。
  • 朱序は膺揚将軍朱党を石門に置き、子の朱略に洛陽防衛を総督させ、参軍の趙蕃を補佐につけ、自身は襄陽へ帰った。

晋朝:道子牽制の人事

  • 琅邪王司馬道子は寵を頼みに驕慢で、宴席でも酔って礼を失うことがあった。孝武帝はこれを快く思わず、名望ある人物を方鎮に出してひそかに道子を抑えようとした。
  • 帝が王雅に王恭・殷仲堪の起用を問うと、王雅は二人とも気位が高く度量や統御力に欠け、平時の守成はともかく、事があれば乱のもとになると答えた。しかし帝は聞き入れず、二月辛巳、王恭を都督青・兖・幽・并・冀五州諸軍事・兖青二州刺史として京口に鎮させた。

後秦と前秦の交戦

  • 三月戊辰、晋では大赦が行われた。
  • 姚萇は前秦の扶風太守斉益男を新羅堡で破り、斉益男を敗走させた。
  • 苻登は隴東で後秦の天水太守張業生を攻め、姚萇が救援に来ると軍を引いた。

四月:魏掲飛・雷悪地の乱と姚萇の手腕

  • 四月、前秦の鎮東将軍魏掲飛は自ら衝天王を称し、氐・胡を率いて杏城の後秦安北将軍姚当成を攻めた。鎮軍将軍の雷悪地も叛いてこれに応じ、李潤で姚漢得を攻めた。
  • 群臣は、長安近くの苻登ではなく遠方の魏掲飛を憂える理由を問うたが、姚萇は、苻登はすぐには滅ぼせず、また長安もすぐには落ちないが、雷悪地ほどの人物が魏掲飛・董成と結べば杏城・李潤を根拠に長安東北が失われると見抜いた。
  • 姚萇は精兵一六〇〇をひそかに率いて赴き、敵軍が続々集まるのをかえって歓迎した。主魁を破っても残党が散っては平定が難しいが、一カ所に集めて一挙に叩けば根こそぎにできると考えたからである。
  • 魏掲飛らが後秦軍の少数を見て総攻撃すると、姚萇はあえて堅守して弱く見せ、子の姚崇に騎兵数百を率いて背後へ出させた。敵は大いに乱れ、姚萇は王超らに総攻撃させて魏掲飛を斬り、一万余を殺した。雷悪地は降り、姚萇は以前どおりに遇した。雷悪地は、自分は一代の豪傑と思っていたが姚萇には毎度屈すると感服した。
  • 姚萇はこの勝利を記念し、姚当成の営柵の穴ごとに木を立てて戦功を示させた。営を広げたという報告には、地の小ささこそが奇功の証であり、大きくすることに意味はないと語った。

西方と北方の動き

  • 吐谷渾の視連が乾帰へ使者を送り、乾帰は視連を沙州牧・白蘭王に任じた。
  • 丙寅、拓跋珪は燕の趙王慕容麟と意辛山で会い、賀蘭・紇突鄰・紇奚の三部を破った。紇突鄰・紇奚は魏へ降った。

秋:関中と北辺

  • 秋七月、馮翊の郭質が広郷で兵を挙げて前秦に応じ、姚萇の暴虐を討つ檄を三輔に飛ばした。多くの塁堡がこれに応じたが、鄭県の苟曜だけは数千を集めて後秦に付いた。前秦は郭質を馮翊太守、後秦は苟曜を豫州刺史とした。
  • 劉衛辰は子の直力鞮に賀蘭部を攻めさせた。賀訥は危急となり魏へ降ろうとし、丙子、拓跋珪が自ら救援に出て、直力鞮を退けた。賀訥の部落は魏の東辺に移された。

八月から十月:晋・燕・吐谷渾

  • 八月、劉牢之は鄄城で翟釗を破り、翟釗は黄河北へ逃れた。さらに滑台で翟遼を破り、張願も降った。
  • 九月、北平の呉柱が千余を集め、沙門法長を天子に立てて反乱し、北平郡を破って広都・白狼城へ進んだ。
  • 燕の高陽王慕容隆は、ちょうど夫人を葬るため郡県の守宰を集めていたが、呉柱の乱を聞いても、民は安んじており彼らは詐言で愚民を誘っただけだと見て、まず葬礼を終えた。そののち広都令らを先に返し、続いて安昌侯進に百余騎を与えて白狼城へ急行させると、反乱軍は自然に瓦解し、呉柱らは捕えられて斬られた。
  • 晋では侍中王国宝が中書令となり、ほどなく中領軍を兼ねた。これは司馬道子が後押ししたものである。
  • 丁未、呉郡太守王珣が尚書右僕射となった。
  • 吐谷渾の視連が死に、子の視羆が立った。視羆は父祖が慈仁であったため近隣に侮られてきたとして、武功を立てようと将士を励ました。
  • 冬十月、乾帰は視羆に対し、あらためて沙州牧・白蘭王に任じる使者を送ったが、視羆は受けなかった。

年末:乾帰の西辺と柔然討伐

  • 十二月、郭質は苟曜と鄭県東で戦って敗れ、洛陽へ逃れた。
  • 越質詰帰が平襄に拠って乾帰に叛いた。これは十三年に乾帰に附いた人物である。
  • またこの年、燕は薊に行台を置き、長楽公慕容盛に録行台尚書事を加えた。
  • 正月の動きとして続けて、乾帰は越質詰帰を攻め、これを降して宗女を娶せた。
  • 賀染干が兄の賀訥を殺そうと図り、賀訥も知って兵を挙げた。拓跋珪は燕へ向けて、自ら先導して討伐に当たると申し出た。