資治通鑑晉紀二十七 烈宗孝武皇帝 太元 九年 384年
正月・慕容垂の燕再興
- 正月乙酉朔、苻丕は大宴を開いたが、慕容農が来ないのでようやく異変に気づき、捜索の末、列人で挙兵したことを知った。
- 慕容鳳・王騰・段延らは翟斌に、慕容垂を盟主として奉じるよう勧め、翟斌も従った。
- しかし慕容垂は、もともと自分は苻暉救援のために来たのであって翟斌のためではない、と言ってすぐには応じなかった。
- 丙戌、慕容垂が洛陽に至ると、平原公苻暉は苻飛龍殺害を聞いて門を閉ざし、受け入れなかった。
- 翟斌の長史郭通が再度説得し、翟斌の衆を利用して大業を成すべきだと勧めると、慕容垂はついにこれを受け入れた。
- 洛陽は四面受敵で保持しにくいため、慕容垂は東へ向かい、鄴を取って拠点にしようと決めた。
- 扶余王余蔚や昌黎鮮卑の衛駒が降り、その途中で群臣はしきりに尊号を進めた。
- 慕容垂は晋の元帝の先例にならい、大将軍・大都督・燕王として承制行事を称し、統府を開いた。弟の慕容徳を范陽王・車騎大将軍、甥の慕容楷を太原王・征西大将軍にし、翟斌を河南王・建義大将軍に封じた。
- さらに余蔚・衛駒・慕容鳳らにも官を授け、二十余万を率いて石門から河を渡り、鄴へ進軍した。
慕容農の河北蜂起
- 慕容農は列人で烏桓の魯利に身を寄せた。魯利の妻は、農は食を求めて来たのではなく大事を起こすために来たのだと見抜き、備えを促した。
- 慕容農は張驤を説得し、家の主君である燕王がすでに大事を挙げ、遠近が呼応していると伝えた。張驤は旧主を得たとして喜んで従った。
- 農は列人の住民を駆り出して兵とし、桑や榆を切って武器とし、衣の前垂れを裂いて旗にした。
- 趙秋が屠各の畢聰らを説得し、東夷・烏桓の諸部も次々に参加した。
- 農は張驤を輔国将軍、劉大を安遠将軍、魯利を建威将軍とし、自ら館陶を破って軍資と武器を得た。さらに康台の牧馬を奪い、数万の兵に膨れ上がった。
- 張驤らは慕容農を都督河北諸軍事・驃騎大将軍として推戴し、農はこれを受けて厳正に部隊を編成した。
- 趙秋は、戦う兵には封賞が必要だとして承制による封拝を勧め、農も従ったので、参加者はさらに増えた。
- 農はまた、庫傉官偉・乞特帰・平叡・平幼ら燕の旧臣にも呼びかけ、皆これに応じた。
- 蘭汗に頓丘を攻めさせてこれを落とし、号令厳正で私掠を禁じたため、人々は喜んだ。
石越討伐軍の敗北
- 苻丕は石越に歩騎万余を与えて慕容農討伐へ向かわせた。
- 慕容農は、石越が南で慕容垂本隊を拒まず、自分のような別働隊に来たのは、燕王を恐れ自分を軽んじているからであり、油断しているはずだと見抜いた。
- 列人城を修理すべきだという意見には、兵の心を結ぶことこそ肝要であり、山河こそ城郭だとして応じなかった。
- 辛卯、石越が列人西に来ると、趙秋・綦母滕が前鋒を破った。趙謙は今こそ攻めるべきだと進言したが、慕容農は、敵は外見の甲冑は整っているが、こちらは兵の心に甲を着けているといい、暮れを待って攻める策を取った。
- 石越は柵を築いて守ろうとしたが、慕容農はすでに勝機を見ていた。夕方に城西へ出陣し、劉木らが柵を越えて突入すると、秦兵は総崩れとなった。慕容農も大軍で続いて大破し、石越の首を慕容垂へ送った。
- 石越と毛当はいずれも前秦の勇将であり、その連敗で人心は大きく動揺し、各地で盗賊蜂起が相次いだ。
正月末〜二月・慕容垂の鄴包囲と燕建国
- 庚戌、慕容垂は鄴に到着し、前秦の建元二十年を改めて燕元年とし、服色・朝儀も旧燕の制度に戻した。
- 庫傉官偉を左長史、段崇を右長史、鄭豁らを従事中郎とした。
- 慕容農は兵を率いて鄴で垂と合流し、すでに称されていた官号を追認された。
- 世子の慕容宝を太子とし、一族・功臣に大量の封爵を行った。
- 可足渾譚は二万余を集めて野王を攻め落とし、平幼・平叡兄弟も数万を率いて鄴に来た。
- 苻丕は姜讓を使者に出し、改心するなら今なお遅くないと説かせたが、慕容垂は、もとは苻丕を安全に長安へ帰したうえで自国を再興し、秦とは永く隣好を保つつもりだったのに、鄴を引き渡さないから戦うのだと答えた。
- 姜讓は、慕容垂は故国にも新主にも背いたのであり、長楽公は皇帝の嫡子として分陝の重任を負う者だから、百城の地を手放すはずがない、七十の老身を逆臣として晒すだけだと厳しく詰った。慕容垂は黙って答えなかった。
- 左右は姜讓を殺そうとしたが、慕容垂は「彼は主君のために言っただけだ」として礼遇して返した。さらに苻堅への上表で、苻丕を長安へ返して利害を説いたが、苻堅・苻丕は怒って責め返した。
- 劉牢之は譙城を落とし、桓冲配下の郭宝は魏興・上庸・新城の三郡を奪い、楊佺期は成固に進んで潘猛を敗走させた。
- 壬子、慕容垂は鄴の外郭を破り、苻丕は中城へ退いた。関東の六州郡県の多くは任務を持ったまま燕へ降った。
- 癸丑、慕容垂は陳留王慕容紹を冀州刺史として広阿に置いた。
二月・桓冲の死と晋の人事
- 桓冲は、謝玄らの勝利に対して以前の悲観的な発言を恥じ、その悔恨から病となり、二月辛巳に死去した。
- 朝議では謝玄に荊州・江州を兼ねさせようとしたが、謝安は自分と一門の勢力が強すぎること、また桓氏を失職させて怨ませることを恐れ、桓石民を荊州刺史、桓石䖍を豫州刺史、桓伊を江州刺史にした。
鄴攻防と河北平定
- 慕容垂は丁零・烏桓二十余万を使って飛梯・地道で鄴を攻めたが落とせず、長囲を築いて包囲戦に切り替えた。
- 老弱を肥郷に分置し、新興城を築いて輜重を置いた。
- 前秦側では、高泰が旧燕臣ゆえに二心ありと疑われ、吳韶とともに勃海へ逃れた。韶は燕軍に投じようとしたが、高泰は禍を避けるために去るだけで、君を替えて仕えることはしないと拒んだ。申紹はその進退を道にかなう君子と評した。
- 范陽王慕容徳は枋頭を攻めて奪い、守備兵を置いて帰還した。
- 東胡王晏は館陶を拠点にして鄴を支援し、鮮卑・烏桓・郡県民の塢壁で燕に従わない者もまだ多かった。
- 慕容垂は太原王慕容楷と陳留王慕容紹を派遣した。楷は、彼らはもともと燕臣であり、今は徳で撫すべきだとして、自らは辟陽に駐屯し、紹に騎兵数百で各地を説得させた。
- 王晏は紹に従って楷のもとへ出頭し降伏した。鮮卑・烏桓・塢壁の民も数十万口が降り、楷は老弱を残して守宰を置き、丁壮十余万を発して鄴へ連れて行った。慕容垂は大いに喜び、楷・紹兄弟は文武兼備で先王に継げると称賛した。
三月・関中で慕容泓・慕容沖・姚萇が挙兵
- 三月、謝安は太保に任じられた。
- 前秦の北地長史だった慕容泓は、慕容垂が鄴を攻めたと聞いて関東へ逃れ、鮮卑数千を集めて華陰に戻り、強永を破った。
- その勢力は急速に膨れ、自ら都督陝西諸軍事・大将軍・雍州牧・済北王を称し、慕容垂を丞相・都督陝東諸軍事・大司馬・冀州牧・呉王に推戴した。
- 苻堅は、権翼の進言を用いなかったため鮮卑がここまで勢いづいたのだと嘆き、広平公苻熙を雍州刺史として蒲阪に鎮させ、鉅鹿公苻叡を都督中外諸軍事・衛大将軍・録尚書事とし、竇衝・姚萇を補佐につけて五万で慕容泓討伐へ向かわせた。
- 慕容沖も平陽で挙兵し、二万を得て蒲坂へ進み、竇衝がこれを討つことになった。
- 庫傉官偉も営部数万を率いて鄴に来たため、慕容垂はこれを安定王に封じた。
- 前秦の信都・高城・常山・中山にはまだ苻定・苻紹・苻亮・苻謨・苻鑒らが拠っていたので、慕容垂は楽浪王温に信都攻撃を命じたが、落とせなかった。
四月・苻叡戦死と姚萇の自立
- 四月丙辰、慕容垂は撫軍大将軍の慕容麟を増援として信都方面へ送った。
- 慕容泓は前秦軍の接近を聞いて関東へ退こうとしたが、苻叡は粗暴で軽敵し、これを追い止めようとした。姚萇は、鮮卑は東へ帰る意志で動いているのだから、追い立てて関を出させるべきで、追い詰めれば窮鼠のように噛みつくと諫めた。
- 苻叡は従わず華沢で戦い、敗れて殺された。姚萇は配下を派遣して謝罪したが、苻堅は怒って彼らを殺した。
- 姚萇は恐れて渭北の馬牧へ逃れ、尹緯・尹詳・龐演らが羌の豪族を糾合して五万余家を率いて合流した。
- こうして姚萇は盟主に推され、大将軍・大単于・万年秦王を称し、大赦して白雀と改元した。尹詳・龐演を左右長史、姚晃・尹緯を左右司馬、そのほか多くの属官・将帥を任じた。
四月〜五月・慕容沖の合流要求と慕容暐の密書
- 竇衝は河東で慕容沖を大破したが、沖は鮮卑騎八千を率いて慕容泓に合流した。
- 慕容泓の軍は十余万に達し、苻堅へ使者を送って、すでに呉王は関東を平定したから、兄の慕容暐を皇帝として返し、自分は関中の燕人を率いて輿衛し、鄴に還る、秦とは虎牢を境に隣国となろうと持ちかけた。
- 苻堅は怒って慕容暐を呼びつけ、その一族を人面獣心だと責めたが、長く仕えてきたこともあって結局は位を元に戻し、暐に慕容泓・慕容沖・慕容垂を説得する書を送らせた。
- しかし慕容暐は密かに慕容泓へ、もはや自分は籠の中の人であり生還は望めない、燕室の罪人として顧みる価値もないから、大業を成し、呉王を相国、中山王を太宰・大司馬とし、自分の死を聞いたらただちに帝位に就けと伝えた。
- 慕容泓はこれを受けて長安へ向かい、燕興と改元した。
鄴攻囲中の慕容垂危機と晋軍進展
- 慕容垂はなお鄴城が堅固なのを見て、封衡の提案を受け、漳水を引いて城を水攻めにした。
- 包囲の最中、華林園で酒宴をしていたところ、秦兵の奇襲を受けて矢を浴び、危うく脱出できなくなるところだったが、慕容隆が騎兵で突入して辛うじて救い出した。
- 晋の趙統は襄陽を攻め、秦の荊州刺史都貴は魯陽へ逃れた。
- 五月、前秦の洛州刺史張五虎が豊陽をもって降った。
- 梁州刺史楊亮は五万で蜀へ進み、費統に三万の水陸軍を率いさせて先鋒とした。自らは巴郡に駐屯したが、秦の益州刺史王広は康回らに迎撃させた。
- 前秦の苻定・苻紹は燕へ降り、慕容麟は常山を攻めた。
- 後秦の姚萇は北地へ進み、華陰・北地・新平・安定の羌胡十余万がこれに降った。
六月・崇徳太后の死と趙氏塢攻防
- 六月癸丑朔、崇徳太后褚氏が崩じた。
- 苻堅は自ら歩騎二万を率いて趙氏塢の後秦軍を攻め、楊璧らに分道攻撃させた。後秦軍は何度も敗れ、姚萇の弟の尹買も斬られた。
- 後秦軍には井戸がなく、前秦は安公谷を塞いで同官水をせき止め、渇きで苦しめた。営中には渇死者も出た。
- だが大雨が降って後秦軍営にだけ深く水がたまり、前秦軍の包囲外にはわずかしか降らなかったため、後秦軍は息を吹き返した。苻堅は天まで賊を助けるのかと嘆いた。
- 慕容泓の側近の高蓋らは、泓は人望で慕容沖に及ばず法も厳しすぎるとしてこれを殺し、慕容沖を皇太弟に立てて承制行事させ、高蓋を尚書令にした。
- 姚萇は子の姚嵩を人質として慕容沖に送り、和睦を請うた。
- 劉春が魯陽を攻めると、都貴は長安へ逃げ帰った。
- その後、姚萇は七万を率いて前秦軍を攻め、楊璧・徐成・毛盛ら将吏数十人を捕えたが、礼をもって返した。
七月・河北の燕優勢と長安周辺の前秦敗北
- 七月、慕容麟は常山を落とし、苻亮・苻謨を降して中山へ進んだ。さらにこれを陥として苻鑒を捕えた。こうして冀州はほぼ燕のものとなり、麟の威名は大いに上がった。
- 前秦の幽州刺史王永・平州刺史苻沖は二州の兵を率いて燕に反撃し、慕容垂は平規を差し向けた。宋敞が范陽で迎え撃ったが敗れ、平規は薊南に進んだ。
- 平原公苻暉は洛陽・陝城の兵七万を率いて長安へ帰った。
- 苻堅は、慕容沖が長安へ迫っているのを聞いて北地から撤兵し、撫軍大将軍苻方を驪山に置き、苻暉を都督中外諸軍事・車騎大将軍・録尚書事として五万を与え、慕容沖に当たらせた。
- しかし鄭西で慕容沖に大敗し、続いて姜宇・河間公苻琳の三万も灞上で敗れ戦死した。慕容沖はそのまま阿房城を占拠した。
蜀・河南方面での晋軍進展
- 康回は数度敗れて成都に退いた。
- 梓潼太守の塁襲が涪城を挙げて晋に降った。
- 晋の荊州刺史桓石民は魯陽を占拠し、河南太守高茂を北へ進めて洛陽に駐屯させた。
- 己酉、康献皇后が崇平陵に葬られた。
翟斌の離反とその滅亡
- 翟斌は功を恃んで驕り、要求に限りがなく、鄴がなかなか落ちないのを見て密かに二心を抱いた。
- 太子慕容宝は除くべきだと願ったが、慕容垂は、河南での盟約を破れば豪傑を集めるうえで悪評を招くとして拒んだ。
- 慕容徳・慕容紹・慕容農も、翟斌兄弟は必ず国の患いになると諫めたが、垂は驕る者はやがて自滅すると言ってなお礼遇した。
- 翟斌は丁零や党与に自分を尚書令にするようほのめかしたが、垂はまだ台閣が整っていないとしてかわした。
- これに怒った翟斌は密かに苻丕と通じ、丁零に堤防を決壊させて水攻めを崩そうとした。しかし露見し、慕容垂は翟斌と弟の翟檀・翟敏を殺した。余党は赦した。
- その夜、翟真は営兵を率いて邯鄲へ走り、そこから再び鄴へ向かって外から包囲し、苻丕と呼応しようとした。
- 慕容宝と慕容隆はこれを破り、翟真は邯鄲へ逃げた。慕容楷・慕容紹は丁零は大志あるわけでなく恩寵が過ぎて乱れたにすぎない、急に追えば群れて賊となるから、いったん散らしてから討つべきだと述べ、慕容垂もこれに従った。
呂光の西域制圧
- 龜兹王帛純は窮して重い賄賂を獪胡に送り救援を求めた。獪胡王は弟の呐龍・侯将馗らに温宿・尉頭など諸国兵を合わせ、七十余万を率いて救援に向かわせた。
- 呂光は龜兹城西でこれを大破し、帛純は逃走した。三十余国の王侯が降った。
- 呂光が入城すると、その都は長安に匹敵するほど宮室・市街が壮麗だった。呂光は西域をよく鎮撫し、威恩が行き渡ったため、前代の漢でも完全には服属させられなかった遠方諸国まで帰附した。
- 彼は漢朝から西域諸国に与えられていた節や符伝も回収して新しいものに替え、帛純の弟の震を龜兹王に立てた。
八月〜九月・鄴包囲の再編と晋軍北進
- 八月、翟真は邯鄲からさらに北へ逃れた。慕容垂は慕容楷・慕容農に騎兵で追わせたが、楷は戦おうとし、農は敵営に丁壮が見えず伏兵を疑って慎重論を唱えた。楷は聞かず進んで戦い、燕軍は大敗した。翟真は中山近くの承営に拠った。
- 鄴城では草も糧も尽き、松を削って馬に食わせるありさまだった。慕容垂は諸将に、苻丕は窮している以上降らないだろう、いったん新城へ退いて西帰の道を開き、昔日の恩に報いる形を取り、かつ翟真討伐にもあてようと提案した。
- 丙寅夜、慕容垂は包囲を解いて新城へ向かった。
- 慕容農には清河・平原を巡って租税を徴収させたが、農は規則を明らかにして有無を均したため、軍令は整い、略奪もなく、穀物・絹帛が道を埋めて軍資は十分となった。
- 戊寅、郗愔が死去した。
- 謝安は前秦の衰えに乗じて中原開拓を奏請し、謝玄を前鋒都督として桓石䖍とともに北伐させた。謝玄は下邳に至り、前秦の徐州刺史趙遷は彭城を捨てて燕へ逃げたので、玄は彭城を占拠した。
- 苻堅は呂光が西域を平定したと聞いて、玉門以西諸軍事・西域校尉に任じたが、道はもはや通じなかった。
- 前秦の幽州刺史王永は劉庫仁に救援を求め、庫仁は妻の兄公孫希に騎三千を与えて送り出した。希は薊南で平規を大破し、勢いに乗って唐城へ進んだ。
九月〜十月・晋の河北進出と長安包囲
- 九月、謝玄は劉牢之に張崇を攻めさせた。辛卯、張崇は鄄城を捨てて燕へ走り、牢之は鄄城を取った。河南の城塁も次々に晋に帰附した。
- 謝安は自ら北征を願い出て、揚州・江州など十五州都督と黄鉞を加えられた。
- 慕容沖は長安に迫り、苻堅が城上から見て「この賊はどこから湧いたのだ」と嘆くほどであった。堅が罵ると、沖は「奴隷であることに飽き飽きした。今度はお前を身代わりにしたい」と言い返した。
- 慕容沖はかつて苻堅に寵愛されていたため、苻堅は錦袍を贈って和らげようとしたが、沖は天下を志す今、一着の衣など顧みない、慕容暐を返すなら苻氏を赦そうと突っぱねた。
- 苻堅は王猛と苻融の言を用いなかったことを悔やみ、白虜がここまで迫るとはと怒った。
- 冬十月辛亥朔、日食があった。乙丑、大赦が行われた。
- 謝玄は高素を派遣して苻朗を攻めさせた。軍が琅邪に至ると苻朗は降り、朗は苻堅の従子であった。
長楽公苻丕救援をめぐる各勢力
- 翟真は承営で公孫希・宋敞と連携し、苻丕は宦官出身の光祚に数百を率いさせて中山へ送り、翟真と結ばせた。さらに邵興に数千騎を与えて旧来の冀州郡県を招かせ、襄国で合流するようにした。
- この時、燕軍は疲弊し、前秦の勢いもやや持ち直していたため、冀州の郡県は勝敗を見て日和見していた。
- 趙郡の趙粟らも柏郷で挙兵して邵興に応じた。
- 慕容垂は慕容隆・張崇に邵興邀撃を命じ、慕容農にも清河から進ませて合流させた。
- 襄国での戦いで隆は邵興を大破し、興は広阿へ逃れたが、そこで農に捕えられた。光祚は西山沿いに逃げて鄴へ帰り、趙粟らも破られて、冀州郡県は再び燕へ従った。
- 劉庫仁は公孫希の勝報を聞いて大軍で苻丕救援に向かおうとし、雁門・上谷・代郡の兵を繁畤に集めた。
- しかし配下にいた慕輿文・慕輿常は、三郡兵が遠征を嫌っているのを知ると夜襲して劉庫仁を殺し、名馬を奪って燕へ逃げた。そのため公孫希の軍は潰れ、希は翟真のもとへ逃れた。庫仁の弟の頭眷が部衆を継いだ。
鄴救援交渉と謝玄の対応
- 苻丕は光祚・封孚を派遣して、并州の張蚝・王騰に晋陽からの救援を求めたが、兵が少なく応じられなかった。
- 進退きわまった苻丕は僚佐に策を問うた。司馬楊膺は晋に帰服すべきだと唱えたが、苻丕はまだ決めかねた。
- そのころ謝玄は劉牢之に碻磝を、郭満に滑台を、顔肱・劉襲に黄河北岸を押さえさせており、苻丕は桑拠を黎陽に置いて防いでいた。劉襲は夜襲してこれを破り、黎陽を奪った。
- 苻丕は恐れて従弟の苻就と参軍焦逵を謝玄へ送り、道を借り食糧を求めて西へ国難を救いに行き、援軍が来れば鄴を明け渡す、もし長安への道が閉ざされていれば、率いる兵とともに鄴を守ると書いた。
- 焦逵と姜讓は楊膺に対し、今さら両にらみの文面では救援も得られず、正式な表を出して王師来援の際には身をもって南帰する意を明確にせよと密かに説いた。
- 楊膺は自分なら苻丕を抑えられると考え、書状を表文に改めて送った。
- 謝玄は滕恬之を黄河渡河後の黎陽守備に当て、朝廷は兗州・青州・司州・豫州平定の功により、謝玄に徐・兗・青・司・冀・幽・并七州都督を加えた。
後秦の方針転換と新平籠城
- 姚萇は、慕容沖が長安を攻めている今、まず長安を取るべきだという群臣の意見に対し、燕軍はもともと帰国願望で起こっており、志を遂げれば長く関中には留まらない、自分は嶺北へ移って物資を蓄え、秦が滅び燕が去った後に労せず関中を取るべきだと述べた。
- そこで長子の姚興に北地を守らせ、姚穆を同官川に置き、自らは新平を攻めた。
- 新平では、昔郡人が郡将を殺したため前秦に城角を削られる恥辱を受けており、土地の有力者たちはこれを雪ぎたいと願っていた。
- 太守の苟輔は降伏を考えたが、馮傑・馮羽・趙義・馮苗ら郡人は、田単が一城で斉を救った例を引いて、前秦の城はまだ百を超える、どうして今すぐ叛臣になれるのかと諫めた。
- 苟輔も志は同じだと言い、住民の犠牲を恐れるのみだと答え、ついに城に拠って固守した。
- 姚萇は土山や地道で攻め、城内も対抗工事を行って地中でも地上でも戦った。後秦側の死者は一万余に達した。
- 苟輔は偽って降伏するふりをし、入城しようとした姚萇を伏兵で襲って危うく捕えるところまでいき、さらに一万余を殺した。
王嘉入長安と長安の鮮卑粛清
- 隴西の処士王嘉は倒虎山に隠れ、未来を知る異術があるとされて秦人に神聖視されていた。苻堅・姚萇・慕容沖の三者とも迎えを出したが、十一月に王嘉は長安へ入った。
- 人々は、聖人が来たのだから苻堅にはまだ福があると考え、三輔の堡壁や山地の氐羌四万余が苻堅に帰した。
- 苻堅は王嘉と高僧道安を外殿に置き、政務の動静を諮問した。
- その一方で、長安城中に残る鮮卑千余人と結んだ内応計画が進んでいた。慕容紹の兄の慕容肅は、慕容暐とひそかに鮮卑を動員して変乱を起こそうとしていた。
- 十二月、慕容暐は子の婚礼を口実に苻堅の臨幸を願い、その席で伏兵により殺害しようとした。苻堅は一度は許したが、大雨で行幸が中止となり、計画は露見した。
- 苻堅は慕容暐・慕容肅を召し出した。肅は、国家の大事に個人的恩義は論じられないと開き直った。苻堅はまず肅を殺し、続いて暐とその宗族を誅殺し、城内の鮮卑も男女老少を問わず皆殺しにした。
- ただし、慕容垂の幼子の慕容柔は宦官宋牙の養子となっていたため連座を免れ、太子慕容宝の子慕容盛とともに隙を見て脱出し、慕容沖のもとへ走った。
年末・翟遼撃破と鄴再包囲
- 慕容麟・慕容農は連携して翟遼を奇襲し、大破した。翟遼は単騎で翟真のもとへ逃れた。
- 慕容垂は、苻丕がなお鄴にとどまり去らないので、あらためて兵を率いて鄴を囲んだが、なお西方への退路だけは開けておいた。
- 焦逵が謝玄に会うと、謝玄はまず苻丕の子を人質として求めてから出兵しようとした。しかし焦逵は、苻丕の真意と楊膺の考えを強く説明したため、謝玄は劉牢之・滕恬之ら二万を鄴救援に派遣した。
- 苻丕が飢えを訴えると、謝玄は水陸両路で米二千斛を送り届けた。
- 前秦の梁州刺史潘猛は漢中を棄てて長安へ逃げ、梁州はふたたび晋の手に帰した。