資治通鑑晉紀二十八 烈宗孝武皇帝 太元 十年 385年

正月:前秦の窮乏と関中・河北の戦乱

  • 正月、前秦の苻堅が長安で群臣を集めて宴を開いたが、都は深刻な飢饉に見舞われ、人肉食まで起きていた。将軍たちは宴席の肉を持ち帰って家族を養うほどで、国家の疲弊は隠しようがなかった。
  • 慕容冲は阿房で皇帝を称し、西燕を建てて更始と改元した。だが自負が強く、賞罰も感情任せで、若い慕容盛からも将来を危ぶまれていた。
  • 後秦の姚萇は諸将を新平攻囲に残し、自らは安定を攻め、前秦の勃海公苻珍を捕らえ、嶺北の諸城を降した。
  • 苻堅は西燕軍と仇班渠・雀桑・白渠で連戦した。前二戦では西燕軍を破ったが、白渠では前秦軍が大敗し、苻堅自身も西燕軍に包囲された。殿中将軍鄧邁の奮戦でようやく脱出した。
  • その後、西燕の高蓋が夜襲して長安南城に入りかけたが、竇衝・李辯らに撃退された。戦死者の遺体は飢えた兵に食われる有様だった。
  • 高蓋が渭北の砦を攻めると、太子苻宏が成貳壁でこれを大破し、三万級を斬った。

河北:後燕の攻勢

  • 後燕では、帯方王慕容佐と平規が薊を攻め、幽州刺史王永はたびたび敗れたため、和龍・薊の宮室を焼いて三万を率い壺関へ退いた。
  • 慕容農は慕容麟と中山で合流し、丁零の翟真を攻めた。先鋒として承営に至ると、翟真の弱さを見抜いて精騎で本陣を衝かせた。翟真が逃げると部衆は門に殺到して潰走し、承営外郭は陥落した。

二月〜三月:長安周辺の攻防と蜀の変動

  • 二月、苻堅は長安城西で再び慕容冲を大破し、阿城まで追ったが、伏兵を恐れて入城せず引き返した。
  • 益州では、前秦の益州刺史王広が蜀の李丕を成都守備に任じ、自身は隴西へ退却した。蜀人も三万余りこれに従った。
  • 劉牢之は枋頭へ進んだが、楊膺・姜讓の反乱計画が露見して長楽公苻丕に殺され、進軍をためらった。
  • 前秦の苻暉は西燕との戦いでたびたび敗れ、苻堅に厳しく叱責されると、憤って自殺した。
  • 長安防衛を憂えた李辯・彭和正は西州人を集めて韮園に立てこもったが、苻堅の召しにも応じなかった。
  • 慕容冲は驪山で高陽公苻方を殺し、尚書韋鍾を捕えた。韋鍾の子・韋謙を馮翊太守として三輔招撫に使おうとしたが、地元豪族から忠義を責められ、韋鍾は自殺、韋謙は前秦へ逃げ帰った。
  • 茍池・俱石子が驪山で西燕と戦って敗れ、茍池は慕容永に斬られ、俱石子は鄴へ逃れた。
  • 苻堅は楊定を派遣して慕容冲を大破し、一万余の鮮卑を捕えたが、帰還後に全て坑殺した。
  • 滎陽の鄭燮は郡を挙げて後燕に降った。

後燕の苦戦と慕容農・慕容温の統治

  • 燕王慕容垂は鄴攻略が長引いて陥とせず、いったん北の冀州へ向かう方針に変えた。慕容麟を信都、慕容温を中山に置き、慕容農を鄴から呼び戻した。
  • この動きにより、遠近の人々は後燕の勢いを疑い、去就を考え始めた。
  • だが慕容農は高邑で、帰郷したがる部下たちに仮の任官を与えて送り返し、後で自然に迎えに来させればよいと判断した。側近はその識見に感服した。
  • 慕容温は中山で兵力こそ弱かったが、守勢に徹して農桑を奨励し、旧民を撫し新民を招いて兵糧を充実させた。翟真の夜襲も撃退し、以後は中山に近づかせなかった。さらに一万の兵で軍糧を慕容垂に送り、中山の宮室整備まで進めた。

劉牢之と慕容垂の攻防

  • 劉牢之は黎陽太守劉撫を孫就柵で攻めた。慕容垂は慕容農を残して自ら救援に向かう。
  • 苻丕はその隙を突いて夜襲したが、慕容農に撃退された。
  • 劉牢之は慕容垂と戦って敗れ、黎陽へ退いた。慕容垂は再び鄴へ戻った。
  • 西域から帰還中の呂光は、龜茲が豊かだったため一時は留まろうともしたが、僧の鳩摩羅什が「ここは長く保てる地ではない。東へ帰れば良地が得られる」と進言したため、将兵の意見も合わせて帰国を決めた。大量の宝物と良馬を携えて東へ向かった。

四月:鄴をめぐる戦い、謝安の出鎮、蜀・新平の変動

  • 四月、劉牢之は鄴へ進み、慕容垂を破って包囲を解かせ、新城まで退かせた。さらに北走したところを追ったが、苻丕もその後を追い、董唐淵で慕容垂に逆襲される。
  • 慕容垂は「秦と晋は寄せ集めで、勝てば増長し負ければ崩れる」と見て、疲労した劉牢之軍を五橋沢で急襲し大破した。劉牢之は単騎で逃れた。
  • 慕容垂は猛将の宜都王慕容鳳に、創業の時期だからこそ自重せよと戒め、慕容徳の副将にしてその鋭さを抑えた。
  • 鄴城内は甚だしい飢饉に陥り、苻丕は軍を率いて枋頭の晋軍の穀物を頼った。劉牢之も鄴へ入って敗残兵を収容し、やや立て直したが、敗戦の責任を問われて召還された。
  • 幽州・冀州一帯では、戦乱が一年以上続いたため大飢饉となり、人肉食が起き、村落は荒廃した。慕容垂は桑の実を軍糧とするため養蚕を禁じた。
  • 会稽王司馬道子は専権を好み、謝安との間に不和が生じた。ちょうど苻堅から救援要請が来たため、謝安は自ら出征を願い、広陵の歩丘に新城を築いて駐屯した。
  • 蜀では、蜀郡太守任権が成都を奪回し、前秦が任じた益州刺史李丕を斬って、再び益州を取り戻した。
  • 新平は糧も矢も尽き、外援も来なかった。姚萇は「城だけ欲しいのだ」と偽って茍輔を誘い出し、城民五千を連れ出させたうえで、男女をことごとく坑殺した。馮傑の子・終だけが脱出して長安へ奔った。苻堅は茍輔らに節愍侯の諡を追贈し、終を新平太守とした。

五月〜閏月:長安崩壊への道

  • 翟真は承営を捨てて行唐へ移ったが、司馬鮮于乞に殺された。乞もすぐに部衆に殺され、翟成が立てられた。多くの兵は後燕に降った。
  • 五月、慕容冲は長安を猛攻し、苻堅も自ら流血しながら督戦したが、関中は荒廃し、道路は絶え、千里に煙がなかった。なお三十余の堡塁が趙敖を盟主に立て、難を冒して前秦に兵糧援助を試みたが、多くは西燕に殺された。
  • 三輔で西燕に拉致された民衆は、内応して火を放つので兵を出してほしいと苻堅に密奏した。苻堅は彼らの忠義を憐れみつつも、天命が去ったと見て消極的だった。請願に押されて七百騎を出したが、火は逆風で内応側を焼き、多くが死んだ。苻堅はその死者を祭って哭した。
  • 衛将軍楊定が慕容冲に捕えられると、苻堅は大いに恐れ、讖文にすがって五将山へ向かう決意をした。
  • 苻堅は太子苻宏に長安守備を命じ、自身は張夫人・中山公苻詵と二人の娘を連れて、騎兵数百で五将山へ脱出した。冬までに隴から兵糧を送ると諸州に触れた。
  • 苻堅は途中で韮園を襲い、李辯は西燕へ逃れ、彭和正は恥じて自殺した。
  • 閏月、朝廷は羅友を益州刺史として成都に鎮させた。

閏月〜八月:後燕の北方制圧と長安陥落、謝安の死

  • 閏月、慕容垂は常山で行唐の翟成を囲み、帯方王慕容佐を龍城に置いた。
  • 六月、高句麗が遼東を攻め、慕容佐配下の郝景が救援に向かったが敗北し、遼東・玄菟の二郡は失われた。
  • 苻宏は長安を守れず、数千騎で母や宗室を連れて下辨へ西走した。権翼ら数百人は後秦に奔った。
  • 慕容冲は長安に入り、大掠奪を行い、死者は数知れなかった。
  • 七月、旱魃で井戸も涸れた。苻堅は五将山で姚萇の部将呉忠に包囲され、平然と食事を取ったのち捕えられ、新平の別室に幽閉された。
  • 苻宏は下辨で南秦州刺史楊璧に拒絶された。楊璧の妻は苻堅の娘だったが、夫を捨てて苻宏に従った。苻宏は武都へ逃れ、氐の豪族強熙を頼って晋へ来奔し、江州に置かれた。
  • 苻丕は三万を率いて枋頭から鄴へ帰ろうとしたが、晋の檀玄に谷口で敗られたのち、再び鄴へ入った。
  • 後燕では建節将軍余巖が武邑で反乱し、薊に入り千余戸を略奪して令支に拠った。平規は慕容垂の命に反して出戦し敗れた。
  • 癸酉、鮮于得が翟成を斬って慕容垂に降り、慕容垂は行唐を屠り、翟成の衆をことごとく坑殺した。
  • 謝安は病を理由に帰京を願い、許された。八月に建康へ戻り、大赦の後、丁酉に没した。朝廷は桓温の例にならって特別の礼を加えた。
  • 庚子、司徒琅邪王司馬道子が揚州刺史・録尚書・都督中外諸軍事を兼ね、政権の実権を握った。

八月:苻堅の最期

  • 姚萇は苻堅に伝国璽を求め、自分こそ天命に応じた者だと称した。苻堅は激怒して拒み、「五胡の順にお前たち羌は入っていない」と罵った。
  • 姚萇はさらに尹緯を遣わして禅譲を求めたが、苻堅は「聖賢の事であって、反逆者に許されるものではない」と退けた。
  • 苻堅は尹緯の才を惜しみ、自分が用いなかったから国を失ったのだと嘆いた。また、平生恩を与えた姚萇に対する憤りを抑えられず、たびたび死を求めて罵った。
  • 娘たちが辱めを受けることを嫌い、張夫人に命じて先に宝・錦の二女を殺させた。
  • 辛丑、姚萇は苻堅を新平の仏寺で縊殺した。張夫人と苻詵も自殺した。姚萇の将士でさえその死を哀れんだ。姚萇は苻堅の名を隠そうとして、壮烈天王と諡した。

苻丕の即位と各地の再編

  • 苻丕は長安救援に向かうつもりで鄴にいたが、壺関の王永に招かれ、鄴の男女六万余を率いて潞川から晋陽へ入った。
  • そこで初めて長安失陥と苻堅の死を知り、喪を発して皇帝に即位し、大赦して大安と改元した。苻堅には宣昭皇帝の諡と世祖の廟号を贈った。
  • 慕容垂は魯王慕容和を鄴に置き、慕容農を蠮螉塞から龍城方面へ進ませ、余巖討伐の兵を集めた。慕容麟・慕容隆は勃海・清河を巡撫し、封懿を捕えたが後に放した。

北方草原:拓跋珪の脱出

  • 鮮卑の劉頭眷は賀蘭部や柔然を破って勢いに乗ったが、子の羅辰が、従兄の劉顕こそ将来の禍だと警告した。頭眷は聞き入れず、まもなく顕に殺されて乗っ取られた。
  • 顕はさらに拓跋珪も殺そうとしたが、弟亢埿の妻である珪の姑が、珪の母賀氏へ密告した。
  • 顕の謀主梁六眷も部下の穆崇・奚牧に命じて珪へ知らせた。賀氏は夜に顕を酔わせ、その隙に珪を長孫犍・元他・羅結らとともに逃がした。
  • 珪は賀蘭部の賀訥を頼り、復国後は旧臣を忘れぬと約した。
  • 顕は賀氏を殺そうとしたが、賀氏は神車に隠れて難を逃れた。
  • 長孫嵩は七百余家を率いて顕を離れ五原へ移り、のちに珪へ帰属した。庾和辰も賀氏を奉じて珪のもとへ奔った。
  • 賀蘭部では染干が珪の人望を妬み、刺客を放とうとしたが失敗し、ついには兵で珪を囲んだ。賀氏が自ら出て責めると、染干は恥じて退いた。

九月〜十二月:呂光の涼州奪取と後燕の安定化

  • 九月、苻丕は張蚝・王永・王騰・苻冲・楊輔・王亮らを重用し、皇后と皇太子を立てた。
  • 呂光は西域から帰還して宜禾に至ると、涼州刺史梁熙は国境を閉ざして拒もうとした。高昌太守楊翰や張統は、険要を先に押さえ、あるいは苻洛を盟主に立てて諸州をまとめるよう勧めたが、梁熙は用いず、逆に苻洛を殺した。
  • 呂光は当初、楊翰の防衛策を恐れて進軍をためらったが、杜進が梁熙の優柔不断を見抜き、速攻を勧めたのでこれに従った。楊翰もやがて郡を挙げて呂光に降った。
  • 酒泉方面で梁熙の子梁胤ら五万が防いだが、呂光軍は安弥でこれを大破・捕虜とした。四山の胡夷も呂光に帰順した。
  • 武威太守彭済が梁熙を捕えて呂光に降り、呂光は梁熙を殺して姑臧に入った。自ら涼州刺史を兼ね、諸将を各地に配置し、涼州の郡県も多くがこれに従った。
  • 酒泉太守宋皓と西郡太守宋泮だけは降らず、呂光に捕えられても忠節を曲げなかったため、殺された。梁熙を裏切った尉祐・彭済らは呂光に寵用されたが、姚皓ら名士を誣告で殺したため、涼州の人心は離れた。
  • 尉祐は金城太守となった後、允吾で叛き興城に拠ったが、姜飛に破られた。
  • 乞伏国仁は大都督・大将軍・単于を称し、秦州・河州を領して建義と改元し、勇士城に都した。
  • 前秦の魏昌公苻纂は関中から晋陽へ奔り、苻丕は彼を太尉・東海王とした。
  • 十月、西燕の高蓋が後秦を攻めたが新平南で大敗し、後秦に降った。子として養っていた楊定は隴右へ逃れて旧衆を集めた。
  • 苻定・苻紹・苻謨・苻亮らも河北から苻丕へ謝罪使を送り、十一月、各地の州牧・都督に任じられた。
  • 竇衝・王統・毛興・王広・楊璧・楊定ら隴右の有力者も、後秦討伐のため苻丕と連携を求めた。苻丕はこれに応じ、官爵を与えた。
  • 楊定はのち歴城へ移って百頃に兵糧を蓄え、龍驤将軍・仇池公を称し、晋に藩属を申し出たため、その称号を追認された。
  • 後燕の慕容麟・慕容隆は清河で蔡匡を救援に来た任泰を撃破し、匡も降った。だが慕容垂は匡を殺して、その砦の住民まで屠った。
  • 慕容農は龍城に至ると、余巖討伐を急がず、まず田の収穫を終えることを優先した。やがて令支に進むと余巖の衆は散り、余巖は降伏した。慕容農はこれを斬り、高句麗を討って遼東・玄菟を奪回した。
  • 慕容農は龍城に鎮して法制を整え、刑を軽くし、賦役を省き、農桑を勧めたため、流民数万が集まった。さらに高句麗へ流れた幽冀の民も、龐淵を遼東太守にして招き戻した。
  • 慕容麟は博陵の王兗を攻めた。城中では張猗が抜け出して内応しようとしたが、王兗は母を捨てる不忠不孝を面前で責めた。十二月、博陵は陥落し、王兗・苻鑑は殺された。宋敞が救援に来たが間に合わず、苻丕は彼を平州刺史にした。
  • 慕容垂は北の中山へ赴き、慕容温の功績を称えて、ここに都を定めた。丙申、後燕は正式に中山へ遷都した。
  • 苻定は信都に拠って後燕へ抵抗し、慕容垂は従弟の慕容精を冀州刺史として討たせた。