資治通鑑晉紀二十六 烈宗孝武皇帝 太元五年 380年

正月から二月 前秦の軍備強化と朱肜の諫言

  • 苻堅は再び北海公苻重を鎮北大将軍として薊に置いた。
  • 二月、渭城に教武堂を建て、太学生のうち陰陽・兵法に通じた者に諸将を教授させようとした。
  • しかし朱肜は、天下の大半を得た今こそ武を休め文徳を修めるべきで、百戦錬磨の将に書生が兵法を教えるのは実益なく名声を損なうと諫めた。
  • 苻堅はこれを聞き入れて中止した。

三月 苻洛の叛乱計画

  • 幽州刺史・行唐公苻洛は、代を滅ぼした功がありながら開府儀同三司を得られず、不満を抱いていた。
  • 苻堅が彼を益州牧として西南夷方面へ転出させようとすると、苻洛は、帝室の近親でありながら辺地に追いやられ、しかも京師を通ることも許されないのは、自分を梁成のもとで溺れ死なせる意図だと受け取った。
  • 治中の平規は、今こそ機に乗じて燕地を掌握し、烏桓・鮮卑・高句麗・百済を引きつければ大業が成ると説いた。
  • 苻洛はこれに乗り、自ら大将軍・大都督を称し、幽州の諸将を組織し、周辺諸国に兵を求めた。

周辺諸国の拒絶と苻洛の暴走

  • しかし高句麗・百済・新羅などは、天子の藩屏として守ることはできても、行唐公に従って叛逆することはできないと断った。
  • 苻洛は不安になったが、なお決断できずにいた。
  • 王緼・王琳・皇甫傑・魏敷らは計画の失敗を悟って密告しようとしたが、苻洛に殺された。
  • 吉貞・趙讃は、ここでやめて表を奉って留任を乞えば苻堅も容れるだろうと勧めたが、平規は、もはや事は露見しているのだから、詔を受けたふりをして幽州兵を率いて南下し、陽平公苻融を捕えて冀州を奪うべきだと主張した。
  • 苻洛はこれに従い、七万を率いて和龍を発した。

四月から五月 苻洛の敗死

  • 苻堅が群臣に対策を諮ると、呂光は、兵五万あれば容易に平定できると述べた。
  • 苻堅はいったん使者を出して苻洛をなだめ、和龍へ帰れば幽州を世封とすると告げた。
  • しかし苻洛は、幽州では狭すぎる、秦中を与えて高祖の業を継がせよとまで言い返した。
  • 苻堅は激怒し、竇衝・呂光に四万を授けて討たせ、都貴を急派して鄴の冀州兵三万を前鋒とし、苻融を征討大都督とした。
  • 北海公苻重も薊の兵を率いて苻洛に合流したが、中山での戦いで大敗し、苻洛は生け捕りとなった。
  • 苻重は薊へ逃げたが、呂光に追われて斬られた。
  • 石越は海路から和龍を急襲し、平規を斬った。
  • こうして幽州の乱は平定された。
  • それでも苻堅は苻洛を殺さず、西海郡へ流した。

六月 晋で恩賞

  • 朝廷は、前秦軍撤退を謝安と桓冲の功とみなし、二人とも開府儀同三司とした。
  • 六月に大赦があり、會稽王道子を司徒としたが、これも辞退された。

前秦の再編 苻融・苻丕・諸氐の分置

  • 苻堅は苻融を侍中・中書監・都督中外諸軍事・車騎大将軍・司隷校尉・録尚書事とし、長楽公苻丕を関東諸軍都督・征東大将軍・冀州牧とした。
  • 氐族人口が増えたことを受け、三原・九嵕・武都・汧・雍などから十五万戸を宗室諸親に分け与え、諸州鎮に散らして、古の諸侯のように守らせた。
  • 苻丕には仇池氐の楊膺・九嵕氐の斉午らが属し、彼らは長楽家の世卿とされた。
  • さらに幽州を分けて平州を置き、石越を平州刺史として龍城に、梁讜を幽州刺史として薊城に置いた。
  • 毛興を河州刺史、王騰を并州刺史とし、それぞれ氐戸三千を配した。
  • 平原公苻暉を洛陽に、鉅鹿公苻叡を雍州に置き、それぞれにも氐戸を配した。
  • 苻堅が灞上まで苻丕を送った際、分散配置される諸氐は父兄と別れるのを嘆き悲しみ、見物人まで涙した。
  • 趙整は琴を奏で、氐を遠くへ移して鮮卑だけを近くに残せば、危急の時に誰に助けを求めるのかと諷したが、苻堅は笑って受け流した。

九月から十二月 晋の喪と前秦の地方人事

  • 晋では皇后王氏が死去し、十一月に隆平陵へ葬られた。
  • 前秦では九真太守の李遜が交州で叛いた。
  • 苻堅は揚壁を秦州刺史、趙遷を洛州刺史、姜宇を寧州刺史に任じた。
  • 十二月、都貴を荆州刺史に、毛当を新設の東豫州刺史として許昌に置いた。
  • この年、前秦は捕虜にしていた毛璪之ら二百余人を晋へ帰した。