資治通鑑晉紀二十六 烈宗孝武皇帝 太元二年 377年
春 周辺諸国の前秦入貢と奢侈への警告
- 高句麗・新羅・西南夷が前秦へ入貢した。
- かつて後趙の営繕を担当した熊邈が、石氏の宮殿や器物の豪華さを苻堅に繰り返し語ったため、苻堅は彼を将作長史として大規模な造船・兵器製造を行わせ、金銀で華美に飾らせた。
- 慕容農はひそかに慕容垂へ、王猛の死後に法制は緩み、今また奢侈が重なって災いが近い、機会を失わず英傑を結集すべきだと語ったが、慕容垂は笑って取り合わなかった。
秋 晋の人事異動
- 桓豁は朱序を梁州刺史として襄陽に鎮させるよう上表した。
- 七月、謝安に司徒を加えようとしたが辞退したため、代わりに侍中・揚豫徐兖青五州都督を加えた。
- その後、征西大将軍・荆州刺史の桓豁が死去した。
- 十月、桓冲を江・荆・梁・益・寧・交・広七州都督・荆州刺史とし、その子の桓嗣を江州刺史に任じた。
- 王藴を江南諸軍都督・徐州刺史、謝玄を兖州刺史・広陵相・江北諸軍監に任じた。
桓冲、上明へ移鎮
- 桓冲は前秦の強盛を恐れ、長江南岸の上明へ拠点を移すよう上奏した。
- 江陵は劉波に、江夏は楊亮に守らせた。
王藴の辞退と謝安の説得
- 王藴は後宮の外戚として重い立場にありながら、徐州刺史を固辞した。
- 謝安は、皇后の父としての重任をみだりに軽く見るべきではないと説き、王藴はようやく受命した。
郗超の評価と北府兵の形成
- 郗超は、父の郗愔が謝安より高位であるべきなのに、謝安が権柄を握り、郗愔は閑職に置かれていることを不満としており、謝氏と確執があった。
- しかし朝廷が北辺防衛の人材を求めると、謝安は甥の謝玄を推挙した。
- 郗超はこれを聞き、謝安が私情を超えて親族を挙げたこと、また謝玄の才能なら推挙に背かないことを高く評価した。
- 謝玄は勇敢な兵を募り、劉牢之らを得て、これを精鋭の前鋒とした。京口の兵はのちに「北府兵」と称され、敵に恐れられるようになった。
王彪之の死と宮室論
- 王彪之が死去した。
- 彼は以前、謝安が宮室の修築を望んだ際、国家の重任は政治を整えることにあり、建物を飾ることではないと論じ、戦乱の最中に民力を煩わせるのは不可だとして退けていた。
- そのため、王彪之の生前には大きな造営は行われなかった。
十二月 郗超の死
- 臨海太守の郗超が死去した。
- 彼は桓氏に通じていたが、父の郗愔が王室に忠実であったため、生前は秘密にしていた。
- 病が重くなると、箱に納めた書簡を門生に託し、自分の死後、父が悲しみ過ぎて病むようなら見せよ、そうでなければ焼けと命じた。
- 郗愔は果たして深く嘆いて病となり、箱を開くと中には郗超と桓温との密書があった。
- 郗愔は激怒し、「こいつは死ぬのが遅すぎた」と言って、以後は涙も見せなかった。