資治通鑑晉紀二十三 哀皇帝 隆和 元年 362年

正月 改元と減税

  • 大赦が行われ、隆和と改元した。
  • 田租は一畝あたり二升に減じられた。

前燕の洛陽攻略準備

  • 前燕の豫州刺史孫興は、洛陽は陳祐がわずかな兵で守る孤城にすぎず、攻略は容易だと上申した。
  • 前燕はその提案を採用し、寧南将軍呂護を河陰に進駐させた。

二月 晋の地方軍布陣

  • 庾希が北中郎将・徐兗二州刺史として下邳に鎮し、袁真が西中郎将・豫州刺史として汝南に鎮した。ともに節を仮された。
  • 帝の母周貴人は皇太妃となり、待遇は太后に準じた。

三月〜五月 洛陽救援と桓温の遷都構想

  • 呂護が洛陽を攻め、河南太守戴施は宛へ逃れた。陳祐が急を告げた。
  • 五月、桓温は庾希・竟陵太守鄧遐に水軍三千を率いさせ、洛陽防衛に向かわせた。
  • 桓温は上表して洛陽遷都を求め、永嘉の乱以後に江南へ移った人々をすべて北へ戻して河南を充実させたいと論じた。
  • 朝廷は桓温を恐れて公然と反対しにくかったが、北方は荒廃し、人心も動揺していたため、内心では無理だと知る者が多かった。
  • 孫綽は上疏し、江左の安定は長江の防衛線に依ってきたこと、江南へ移った士民はすでに数世代を経ており、祖先の墓も江南にあること、今急に洛陽へ移せば万民は険難と飢弊にさらされることを論じ、まず威望ある将に洛陽を鎮めさせ、梁国・許昌を平定し、漕運路を確保し、開墾が進み、中原が回復してから徐々に議すべきだと進言した。
  • 桓温はこの上表を不快に思い、孫綽の隠棲志向を皮肉った。
  • 朝廷は桓温を思いとどまらせるため使者派遣を考えたが、王述は「桓温は虚名で朝廷を威圧しているだけで、本気ではない」と見て、従っておけば自ずと実行しないと述べた。
  • そのため朝廷は、河洛再建には大きな労力が必要だとして、桓温の裁量に委ねる旨を告げ、結局この計画は実行されなかった。
  • 桓温はさらに洛陽の鐘虡を移そうとしたが、王述は、もし旧都に戻れないなら先に陵墓を動かすべきで、器物だけ先に移すべきではないと諫め、桓温はやめた。

朝廷と桓温

  • 朝廷は交・広が遠隔であることを理由に、桓温の都督職を并・司・冀三州に改めたが、桓温は表を上げて受けなかった。

秦の太学振興

  • 苻堅は自ら太学に臨み、諸生の経義を試験し、博士と議論した。以後、毎月一度は必ず訪れるようになった。

六月・七月 前燕内部の変事と洛陽方面の停滞

  • 六月、前燕の征東参軍劉抜が、信都で征東将軍・冀州刺史の范陽王慕容友を刺殺した。
  • 七月、呂護は小平津へ退いて流れ矢に当たり死んだ。前燕の段崇は軍を収めて北へ渡り、野王に駐屯した。
  • 鄧遐は新城に進駐した。

八月〜冬 兵糧輸送と代・前燕の婚姻

  • 袁真は汝南に進み、米五万斛を洛陽へ送った。
  • 十一月、代王什翼犍は娘を前燕に入れ、前燕も娘を代へ嫁がせた。
  • 十二月、日食があった。
  • その後、庾希は下邳から山陽へ、袁真は汝南から寿陽へ退いた。洛陽方面の戦局が好転しなかったためである。