資治通鑑晉紀二十二 孝宗穆皇帝 永和 十二年 356年
燕、淄水で段龕を破る
- 春正月、燕の太原王慕容恪が黄河を渡り、広固に迫った。段龕は三万を率いて迎え撃ったが、丙申、淄水で大敗した。
- 段龕の弟・段欽は捕らえられ、右長史袁範らは斬られた。斉王友の辟閭蔚は負傷し、慕容恪はその賢を惜しんで捜したが、すでに死んでいた。
- 段龕は広固に逃げ戻って籠城し、慕容恪はこれを包囲した。
前秦で王墮・杜郁ら殺される
- 前秦では司空王墮が佞臣董榮と强国を激しく嫌っていた。ある者が董榮に対して少しは柔らかく接するよう勧めたが、王墮は「董龍ごときと国士が話せるか」と突っぱねた。
- 天変を口実に董榮・强国が苻生へ「高官を犠牲にして災いを祓うべきだ」と進言すると、苻生は王墮を殺した。
- 処刑の場で董榮が嘲ると、王墮は怒りの目で叱り返した。
- 洛州刺史杜郁も趙韶に憎まれ、東晋と内通していると讒言されて殺された。
苻生、酒宴の席で辛牢を射殺
- 壬戌、苻生は太極殿で群臣を宴に招き、尚書令辛牢に酒監を命じた。
- 酒が回ると、「どうして酒を強いられてなお座っている者がいるのか」と怒り、弓で辛牢を射殺した。群臣は恐れて皆酔い倒れ、冠を失って伏したので、苻生はそれを見て喜んだ。
代と匈奴劉閼頭
- 匈奴の大人劉務桓が死ぬと、弟の閼頭が立ったが、代に背こうとする気配を見せた。
- 二月、代王拓跋什翼犍が西巡して黄河に臨むと、閼頭は恐れて降伏した。
段龕配下の離反
- 燕の慕容恪は、段龕の支配下にある諸城に降伏を勧めた。
- 己丑、段龕が置いた徐州刺史・陽都公王騰が配下を率いて降伏したので、慕容恪はそのまま元の職で陽都へ戻して駐屯させた。
前秦、涼に服属を迫る
- 前秦の晋王苻柳は参軍の閻負・梁殊を涼に遣わし、涼王張玄靚に服属を説かせた。
- 張瓘は「自分は晋の臣であり、境外の交わりは持たない」と拒んだが、二人は、晋はすでに天命を失い、張氏もかつて前趙・後趙に称藩したではないかと論じた。
- さらに、前秦は信義に厚く、関中の強者も皆これに屈した、江南は後回しで河右は恩義で懐柔する方針なのだと説いた。
- 張瓘は自国の山河と兵力に自信を示したが、二人は前秦が百万の軍を動かせば涼は抗しがたいと脅した。
- 閻負・梁殊は、張玄靚はまだ幼く、張瓘が伊尹・霍光のような立場にある以上、その一挙が国の安危を決めると迫った。張瓘は恐れ、ついに張玄靚の名で前秦に称藩した。
- 前秦は張玄靚がすでに称していた官爵をそのまま認めた。
関中周辺の軍事行動
- 劉度が盧氏で前秦の青州刺史王朗を攻めた。
- 燕の将軍慕輿長卿は軹関から入り、前秦の幽州刺史强哲が守る裴氏堡を攻めた。
- 前秦の苻生は、新興王苻飛に劉度を防がせ、鄧羌に慕輿長卿を防がせた。劉度は苻飛が着く前に退き、鄧羌は慕輿長卿を大破してこれを捕らえた。
桓温の北伐と洛陽回復
- 桓温は都を洛陽へ移し、歴代帝陵を修復すべきだと十数度上表したが、許されなかった。
- そこで征討大都督として司・冀二州諸軍を督し、姚襄討伐に向かった。
- 姚襄は周成を洛陽で攻め続けたが落とせなかった。長史王亮が、名声・兵力を損ねるだけで危険だと諫めたが、姚襄は従わなかった。
- 桓温は江陵から北上し、高武を魯陽、戴施を河上に進め、自ら大軍を率いて続いた。楼船上から中原を望み、「中華を陸沈させた責任は王衍らにある」と嘆いた。記室袁宏が「時運の盛衰であり、必ずしも彼らの罪ばかりではない」と言うと、桓温は無用の大牛のたとえで切り返した。
- 八月己亥、桓温が伊水に至ると、姚襄は洛陽包囲を解いてこれに当たった。姚襄は林中に精鋭を伏せ、帰順するふりをして晋軍を誘ったが、桓温は応じず交戦した。
- 桓温は自ら甲冑を着て督戦し、姚襄軍を大破した。姚襄は数千騎を率いて洛陽北山へ逃れ、その夜さらに住民五千余がこれに従った。姚襄が敗れても人心をつかんでいたことがうかがえる。
- 桓温軍に捕らえられた許・洛の住民たちは皆北を望んで泣いた。
- 姚襄は西へ走り、桓温は追いつけなかった。楊亮が姚襄のもとから降り、姚襄の人物を孫策級、しかも武勇はそれ以上と評した。
- 周成は降伏した。桓温はまず旧太極殿前に屯し、のち金墉城へ移った。
- 己丑、桓温は諸陵を拝し、破損したものを修理して陵令を置いた。
- 謝尚を都督司州諸軍事・洛陽鎮守に推したが、まだ赴任しないうちは潁川太守毛穆之・督護陳午・河南太守戴施に二千人を率いさせて山陵を守らせた。
- 降民三千余家を江漢の間へ移し、周成を捕えて帰った。
姚襄、平陽へ転じ張平と和す
- 姚襄は平陽へ逃れ、前秦の并州刺史尹赤も再び姚襄に降った。姚襄は襄陵に拠った。
- 前秦の大将軍張平が攻めると、姚襄は敗れたが、張平と兄弟の約を結んで停戦した。
段龕救援失敗と荀羨の慎重
- 段龕は段蘊を東晋へ送り救援を求めた。朝廷は徐州刺史荀羨に段蘊とともに出兵させたが、荀羨は燕軍の強さを恐れて琅邪から進めなかった。
- 王騰が鄄城を侵したため、荀羨は陽都を攻めた。長雨で城が壊れ、王騰を捕えて斬った。
日食と広固包囲
- 冬十月癸巳朔、日食があった。
- 前秦の苻生は、朝に体調不良となり太医令程延を呼んだ。程延が「棗を食べ過ぎただけです」と言うと、苻生は怒って「なぜ聖人でもないのに分かる」と言い、これを斬った。
- 燕の慕容恪は広固の段龕包囲を続けた。諸将が急攻を求めても、彼は兵法を引き、相手が孤立し外援がなく、自軍が優勢なら、急がず持久すべきだと説いた。
- 兵を惜しんで高い塁と深い塹を築き、これを囲んだので、兵士は皆その仁を感じた。
- 斉の人々は争って燕軍へ糧を運んだ。広固では薪も食糧も尽き、人肉を食うほどになった。
- 段龕は総力で出撃したが、慕容恪は諸門に騎兵を分置しており、段龕はかろうじて城内へ逃げ込んだだけで、他の兵は皆失われた。これで城中の士気は決定的に落ちた。
- 十一月丙子、段龕は自ら縄で身を縛って降伏し、朱禿もともに薊へ送られた。
- 慕容恪は新たに得た民を安撫し、斉地を平定したうえで、鮮卑・胡・羯三千余戸を薊へ移した。慕容儁は朱禿に五刑を加え、段龕には伏順将軍の官を与えた。
- 慕容恪は慕容塵を広固に残し、鞠殷を東莱太守、鮮于亮を斉郡太守として帰還した。
- 鞠殷の父・鞠彭は、かつての王弥・曹嶷の遺族を探し出して厚遇せよと手紙で戒めた。鞠殷は王弥の従子や曹嶷の孫を山中から探して交誼を結び、地域の民心をよく安定させた。
東晋の山東防衛と洛陽の追悼
- 荀羨は段龕滅亡を知ると下邳へ退き、諸葛攸に琅邪を、戴遁らに泰山を守らせた。
- 燕将慕容蘭が汴城に屯すると、荀羨はこれを撃って斬った。
- 東晋朝廷は車灌らを兼司空・散騎常侍として洛陽へ派遣し、五陵を修復させた。
- 十二月庚戌、皇帝と群臣は太極殿で三日間、細布の喪服を着て追慕の礼を行った。
- 謝尚は病のため司州都督として赴任できず、丹陽尹王胡之が代わった。
仇池の再政変
- この年、仇池公楊國は従父の楊俊に殺され、楊俊が自立した。楊國の子・楊安は前秦へ逃れた。