資治通鑑晉紀二十一 孝宗穆皇帝 永和七年 351年

正月 前秦の建国と即位

  • 正月、苻健の側近である賈玄碩らは、劉備が漢中王となった先例にならい、苻健を「都督関中諸軍事・大将軍・大単于・秦王」に推戴しようとした。苻健は表向きは怒って拒んだが、のち密かに梁安を使って再度推戴を促させた。
  • 丙辰、苻健はついに「天王・大単于」に即位し、国号を「大秦」と定め、年号を「皇始」に改めた。大赦を行い、父の苻洪を武恵皇帝と追尊し、廟号を太祖とした。
  • 妻の強氏を天王后とし、子の苻萇を太子に立てた。ほかの子にも諸公の爵を与え、苻雄を丞相・都督中外諸軍事とし、雷弱児・毛貴・姜伯周らを要職に置いた。略陽の氐族首長であった呂婆楼も重用された。

二月 段龕の帰附

  • 段龕が青州をもって東晋への内附を願い出た。朝廷はこれを受け、段龕を鎮北将軍・斉公に封じた。

襄国攻防と諸勢力の介入

  • 冉閔は前年から襄国を長く包囲していた。窮地に陥った後趙の石祗は皇帝号を捨てて趙王と称し、燕と姚弋仲に救援を求め、伝国璽の引き渡しまで約した。
  • 姚弋仲は子の姚襄に二万八千騎を授けて出兵させ、自身が石氏から受けた恩に報いるため、冉閔を討って仇を返せと厳命した。さらに燕にも使者を送り、共同出兵を促した。
  • 燕王慕容雋も悦綰に三万を与えて救援に向かわせた。

常煒の燕への使節

  • 冉閔は燕の救趙を聞くと、常煒を燕へ遣わして弁明させた。燕では封裕が、石氏に養われた冉閔が恩を仇で返して帝号を称したことを厳しく詰問した。
  • 常煒は、王朝交替は天命によるものであり、冉閔の興起もその一つだと弁じた。また、金像による占いの噂や、伝国璽の所在についても否定・反論した。
  • 燕側は張挙の証言をなお信じ、火刑で脅して実を吐かせようとしたが、常煒は少しも屈しなかった。慕容雋はその忠節を惜しみ、殺さずに龍城へ幽閉した。のちに故郷の人を通じて懐柔を試みたが、常煒は最後まで節を曲げなかった。

張平の前秦帰順

  • 趙の并州刺史張平は使者を送って前秦に降り、苻健はこれを大将軍・冀州牧に任じた。

三月 襄国救援軍と冉閔の大敗

  • 三月、姚襄と趙の汝陰王石琨がそれぞれ兵を率いて襄国救援に進んだ。冉閔は胡睦・孫威を派遣して長蘆・黄丘で迎撃させたが、いずれも敗れた。
  • 冉閔は自ら出撃しようとしたが、衛将軍王泰は、襄国はまだ落ちておらず、外から救援軍が集まる今、出れば腹背に敵を受ける危険があるとして固守を勧めた。
  • しかし道士の法饒が、天文上「胡王を滅ぼす兆し」があると説いて出戦を促し、冉閔はこれを採用した。
  • 冉閔は全軍を率いて姚襄・石琨と戦ったが、そこへちょうど悦綰の燕軍も到着した。燕軍は騎兵を散開させて塵を立て、数が多く見えるよう演出したため、魏軍は動揺した。
  • 姚襄・石琨・悦綰が三方から攻め、石祗が後方から突撃すると、冉閔軍は大崩れとなった。冉閔は十数騎で鄴へ逃げ帰った。
  • 降伏していた胡人の栗特康らは、大単于の冉胤と左僕射劉琦を捕らえて石祗へ引き渡し、石祗はこれを殺した。胡睦・石璞・徐機・盧諶らも戦死し、将兵の死者は十余万に及んだ。

鄴への帰還と法饒の処刑

  • 冉閔はひそかに鄴へ戻ったが、城中ではすでに戦死の流言が広まっていた。射声校尉張艾が、冉閔自ら郊外に出て姿を見せ、民心を鎮めるべきだと進言したため、実行すると騒ぎは収まった。
  • 冉閔は敗戦の責任を法饒父子に負わせ、これを四肢を断つ酷刑で殺した。あわせて、以前に諫言していた韋謏には大司徒を追贈した。

中原の大乱

  • 冉閔が趙の宰相であったころ、倉庫を開いて恩を売り、羌・胡と絶えず戦っていたため、後趙が各地から移住させていた青・雍・幽・荊四州の民や、氐・羌・胡・蛮の数百万が法の拘束を失って故地へ戻り始めた。
  • 道路では互いに殺し奪い合い、故郷に着けた者はわずかだった。中原は大混乱となり、飢饉と疫病が重なって人肉食まで起こり、農耕はほぼ絶えた。

劉顕の鄴攻めと冉閔の再勝

  • 石祗は将の劉顕に七万を与えて鄴を攻めさせ、明光宮に陣を張らせた。冉閔は王泰に策を問おうとしたが、王泰は先の進言を容れられなかったことに腹を立て、傷病を理由に応じなかった。
  • 冉閔は怒って出撃し、劉顕軍を大破して陽平まで追撃し、三万余の首級を挙げた。劉顕は恐れて密かに降伏を申し出、石祗を殺して功を立てたいと願ったため、冉閔はいったん軍を引いた。
  • その後、王泰が前秦へ内応しようとしていると告げる者があり、冉閔は王泰を殺して三族を誅した。

前秦の関中統治

  • 苻健は各地に使者を出して民の苦しみを問わせ、人材を求め、重税を軽減し、離宮への立ち入り制限を緩め、不要な器物や華美な服飾を廃した。後趙以来の苛政で民に不便なものは多く撤廃され、関中支配の基盤を整えた。

四月 司馬勲の進軍と賈玄碩の誅殺

  • 杜洪・張琚は梁州刺史司馬勲を招き、司馬勲は歩騎三万で関中へ入った。苻健は五丈原で迎え撃ち、司馬勲を連敗させて南鄭へ退かせた。
  • 苻健は、はじめ自分への尊号推戴に消極的だった賈玄碩を恨んでおり、司馬勲との通謀の罪を着せてその子らとともに殺した。

渤海での攻防

  • 渤海の逢約は趙の乱に乗じて数千家を率いて冉閔に附き、渤海太守となった。旧太守の劉準や土豪の封放もそれぞれ衆を集めて自立していた。
  • 冉閔は劉準を幽州刺史に任じ、逢約と渤海を分けて治めさせた。
  • 燕王慕容雋は封奕に逢約討伐、高開に劉準・封放討伐を命じた。封奕は旧郷の情誼を利用して逢約を説得し、面会の場で配下にその馬を押さえさせて生け捕った。これは功名のためでなく、逢約と民を救うためだと説明した。
  • 高開は劉準・封放を降し、慕容雋は封放を渤海太守、劉準を左司馬、逢約を参軍事とした。逢約は人に誘き寄せられて捕らえられたことから、その名を「釣」と改められた。

劉顕の石祗殺害

  • 劉顕は石祗とその一族・重臣十余人を殺し、首を鄴へ送った。石寧は柏人へ逃れた。
  • 冉閔は石祗の首を大通りで焼き、劉顕を上大将軍・大単于・冀州牧に任じた。

五~八月 各地の帰順と燕の南進

  • 五月、趙の兗州刺史劉啓が鄄城から東晋へ来奔した。
  • 七月、劉顕は再び鄴を攻めたが、冉閔に敗れ、襄国に戻って自ら帝を称した。
  • 八月、魏の徐州刺史周成・兗州刺史魏統・荊州刺史楽弘・豫州牧張遇らが、廩丘や許昌などの城をもって帰順した。高崇・呂護も鄭系を捕らえて地を献じた。
  • 燕では慕容恪が中山、慕容評が王午の拠る魯口を攻めた。中山太守侯龕は当初こもって抵抗したが、趙郡太守李邽が郡を挙げて降ったため、中山もやがて降伏した。
  • 慕容恪は中山に入ると、豪族・将帥の一部を薊へ移し、その他は現地に安堵させた。軍令は厳格で、民への掠奪はなかった。
  • 慕容評は王午の将鄭生を斬った。
  • 悦綰が襄国から戻ると、張挙の伝国璽の話が虚偽だったことが判明し、慕容雋は張挙を殺した。
  • 常煒は幽囚を解かれ、子らとの再会を許された。慕容雋は「自分が生計のために厚遇したのではなく、同郷のよしみで助けてきた」と手紙を与え、妾一人と穀三百斛を賜って凡城以北に住まわせた。
  • 孫興が中山太守となり、中山は安定した。庫傉官偉も部衆を率いて燕に降った。

冬十月 姚弋仲の東晋帰属

  • 姚弋仲は東晋に使者を送って降伏を願った。朝廷はこれを受け、姚弋仲を使持節・六夷大都督・車騎大将軍・開府儀同三司・大単于・高陵郡公とした。また子の姚襄を平北将軍・并州刺史・平郷県公に任じた。

逢釣の再叛と吐谷渾

  • 逢釣は燕から逃げ帰って渤海で旧衆を再集結させ反乱を起こしたが、楽陵太守賈堅が郷里の人々を諭して離反させたため、衆は散り、逢釣は東晋へ奔った。
  • 吐谷渾の葉延が死に、子の碎奚が立った。

桓温の独断出兵と王彪之の調停

  • 桓温は石氏政権の崩壊を見て、以前から中原経略のための出兵を請うていたが、朝廷は殷浩を桓温の牽制役として用いており、許可しなかった。桓温はこれを強く不満としつつも、他に大きな外患がなかったため、しばらく対立を引き延ばしていた。
  • その間、桓温の支配下にあった八州の兵と物資は、ほとんど国家のためには使われず、たびたび北伐を求めても却下された。
  • 十二月辛未、桓温は上表だけ提出して朝命を待たず、四、五万を率いて武昌へ進んだ。
  • 朝廷は大いに恐れ、殷浩は辞職や、騶虞の旗による出軍停止まで考えたが、王彪之はこれらが私計にすぎず、かえって社稷を危うくすると論じた。まず会稽王司馬昱から誠意ある書状を送り、理をもって諭すべきだと勧めた。
  • 高崧もこれに同調し、司馬昱に代筆して、時機そのものは失っていないが、軍事行動は兵糧・輸送の備えが先であり、軽挙すれば風聞だけで人心が崩れると説く書状を整えた。
  • 桓温はこれを受けると、ただちに謝罪して軍を返し、鎮所へ戻った。
  • この年、郊祀に際して赦免を行うか会稽王が王彪之に問うたところ、王彪之は「郊祀に赦があると思わせると、愚民が幸運を当てにして悪事を働く」として反対し、司馬昱も従った。
  • 慕容雋は龍城へ赴き、丁零の翟鼠が部衆を率いて降ると、これを帰義王に封じた。