資治通鑑晉紀二十 孝宗穆皇帝上之下 永和六年 二 350年

春正月 石氏滅亡と冉閔の擡頭

  • 趙の大将軍石閔は、石氏の痕跡を消そうとして、讖文に「李が趙を継ぎ、国号を衛に改める」とあると称し、自ら姓を李とし、国号を衛と改め、年号を青龍とした。
  • これに反発して、趙庶・張挙・張春・石岳・石寧・張季ら公侯卿校・龍騰兵一万人余りが襄国へ奔り、石祗に従った。石琨は冀州へ、張沈は滏口へ、張賀度は石瀆へ、段勤は黎陽へ、楊群は桑壁へ、劉国は陽城へ、段龕は陳留へ、姚弋仲は灄頭へ、蒲洪は枋頭へ拠り、それぞれ数万を擁して石閔に服さなかった。
  • 王朗・麻秋は長安から洛陽へ向かったが、麻秋は石閔の命を受けて王朗の部下の胡兵千余を殺し、王朗は襄国へ逃げた。麻秋は鄴へ帰ろうとしたものの、蒲洪の子蒲雄に捕らえられて軍師将軍とされた。
  • 石琨・張挙・王朗らは七万で鄴を攻めたが、石閔は千余騎を率いて城北で迎え撃ち、両刃の矛を振るって敵を粉砕し、三千余を斬って大勝した。
  • その後、石閔・李農は三万騎で張賀度を石瀆に攻めたが、衛主石鑑が密かに宦官へ書を持たせ、張沈らに鄴を急襲させようとしたことが露見した。石閔・李農は急いで帰還し、石鑑を廃して殺し、石虎の孫二十八人も皆殺しにして石氏を絶やした。

冉閔の即位

  • 姚弋仲の子姚益・姚若らも禁兵数千を率いて灄頭へ走り、姚弋仲は兵を率いて混橋で石閔を討った。
  • 司徒申鍾らは石閔に尊号を上ったが、石閔は李農に譲ろうとした。李農が固辞すると、石閔は自分たちはもと晋人であり、晋室もなおあるのだから、諸君と州郡を分けて牧守・公侯となり、晋天子を洛陽へ迎えたいと述べた。
  • しかし胡睦は、晋はすでに江表へ退いて天下統一の力を失い、今こそ英雄たる陛下が大位に登るべきだと説いた。石閔はこれを機を知る言として受け入れ、ついに皇帝位に即いて国号を大魏、年号を永興とした。

東晋の対応と苻洪の自立

  • 東晋朝廷は中原の大乱を聞き、再び北方進出を議した。己丑、殷浩を中軍将軍・都督揚豫徐兗青五州諸軍事とし、蒲洪を氐王・征北大将軍・都督河北諸軍事・冀州刺史・広川郡公、蒲健を右将軍・監河北征討前鋒諸軍事・襄国公に任じた。
  • 姚弋仲と蒲洪はともに関右進出の志を抱いていた。姚弋仲は子の姚襄に五万を与えて蒲洪を攻めさせたが、蒲洪はこれを破って三万余を斬獲した。
  • 蒲洪は自ら大都督・大将軍・大単于・三秦王を称し、讖文の「草付応王」や孫の苻堅の背にある字形に合わせて、姓を蒲から苻に改めた。
  • 彼は雷弱児・梁楞・魚遵・段陵・趙俱・牛夷・辛牢らを幕僚とし、毛貴を単于輔相に任じた。

二月から三月 前燕の南進

  • 二月、燕王慕容儁は慕容霸を東道、慕輿于を西道、自らを中道として三路から出兵し、盧龍塞方面より趙を攻めた。慕容恪・鮮于亮を前駆とし、慕輿泥には山道を切り開かせた。世子慕容曄は龍城に残し、劉斌・皇甫真に後事を委ねた。
  • 慕容霸が三陘に至ると、趙の征東将軍鄧恒は恐れて倉庫を焼き、楽安を捨てて逃げ、幽州刺史王午とともに薊に拠った。孫泳は急いで楽安へ入って残火を消し、穀帛を整理し、燕軍はここで北平・楽安の兵糧を得た。
  • 三月、燕軍が無終に至ると、王午は将王佗に数千を与えて薊を守らせ、自ら鄧恒とともに魯口へ退いた。乙巳、慕容儁は薊を抜き、王佗を斬った。将兵千余を坑殺しようとしたが、慕容霸が、民を救う王師の先声としては残酷すぎると諫めたため、思いとどまった。
  • 慕容儁は薊を都とし、中州の男女は続々と降った。范陽太守李産も抵抗しようとしたが、衆が従わず、八県の令長を率いて降った。慕容儁はかえって李産を太守に復し、その子李績は王午のもとにあったが、のちに燕へ帰って厚遇された。
  • 甲子、慕容儁は魯口の鄧恒を討つため進軍した。清梁で鄧恒の将鹿勃早が夜襲し、慕容霸の幕下に迫ったが、慕容霸が起きて十余人を手ずから殺し、慕輿根や李洪も援軍したため、鹿勃早は敗走した。燕軍は四十余里追撃したのち、薊へ引き返した。

冉閔の改姓復旧と苻洪の死

  • 魏主石閔は再び本姓の冉に戻り、母王氏を皇太后、妻董氏を皇后、子冉智を皇太子とし、胤・明・裕を王に封じた。李農は太宰・領太尉・録尚書事となり、斉王に封じられた。
  • 石閔は諸軍屯へ赦書を送ったが、いずれも従わなかった。
  • 麻秋は苻洪に対し、冉閔と石祗が争う今、中原の乱はすぐには収まらないから、まず関中を取って基盤を固め、その後天下を争うべきだと勧め、苻洪も深く同意した。
  • だが麻秋は宴席で苻洪を毒殺しようとし、世子苻健に捕えられて斬られた。苻洪は死に際し、自分が関中へ入らなかったのは中州平定を望んだからだが、それは汝ら兄弟の力では無理だ、自分の死後は急いで入関せよと言い残して没した。
  • 苻健は大都督・大将軍・三秦王の号を除き、晋の官爵を称し、叔父苻安を建康へ派遣して喪を告げ、朝命を請うた。

石祗の即位と諸勢力

  • 石祗は襄国で皇帝を称し、年号を永寧と改めた。石琨を相国とし、各地の六夷勢力がこれに応じた。
  • 石祗は姚弋仲を右丞相・親趙王として厚遇した。姚弋仲の子姚襄は勇武・才略があり民心も厚かったため、彼を後継に望む声が多かったが、姚弋仲は長子でないことを理由に拒んだ。とはいえ要望は日ごとに増えたため、ついに姚襄に兵を与え、石祗も驃騎将軍・豫州刺史・新昌公に任じた。
  • また石祗は苻健に都督河南諸軍事・鎮南大将軍・開府儀同三司・兗州牧・略陽郡公を授けた。

夏四月 冉閔の猜疑

  • 石祗は石琨に十万を与えて魏を攻めさせた。
  • これに先立ち、冉閔は李農とその三子、さらに王謨・王衍・厳震・趙昇らを殺していた。
  • 冉閔は使者を江辺に遣わし、逆胡はすでに中原で誅した、共に討つなら軍を送れと東晋へ告げたが、朝廷は応じなかった。

五月から六月 合肥攻略と石琨の敗走

  • 五月、廬江太守袁真が魏の合肥を攻めて落とし、住民を連れ去って帰った。
  • 六月、石琨は邯鄲に進み、劉国も繁陽から合流したが、魏の衛将軍王泰がこれを大破し、一万余が死んだ。劉国は繁陽へ退いた。

秋 段龕の広固拠点化と北方諸勢力

  • 段蘭の死後、その衆を継いだ段龕は、石氏の乱に乗じて部落を率いて南へ移り、七月には東の広固に拠って自ら斉王を称した。
  • 八月、代郡の趙榼が三百余家を率いて燕に叛き、趙へ帰した。燕王慕容儁はこれを防ぐため、広寧・上谷の民を徐無へ、代郡の民を凡城へ移した。

苻健の西進と関中掌握

  • 王朗が長安を去ったのち、その司馬杜洪が長安に拠って自ら晋征北将軍・雍州刺史を称し、張琚を司馬とした。関西の夷・夏はこぞってこれに応じた。
  • 苻健はこれを討つにあたり、杜洪に警戒されぬよう、いったん石祗から授かった官爵を受けた姿勢を示し、枋頭で宮室を修理し、民に麦を植えさせて西へ向かう意思がないように見せた。命令に従わぬ者は殺して見せしめにした。
  • しかしやがて自ら晋征西大将軍・都督関中諸軍事・雍州刺史を称し、賈玄碩・梁安・段純・辛牢・王魚・程肱・胡文らを幕僚として、全軍を挙げて西へ向かった。
  • 盟津で浮橋を架けて黄河を渡り、弟苻雄に五千を率いさせて潼関から、甥苻菁に七千を率いさせて軹関から入らせた。苻健は別れに際し、もし失敗すればお前は河北、私は河南で死に、再会はないと語った。
  • 渡河後は橋を焼き、自ら大軍を率いて進んだ。杜洪は侮辱の書を送り、張琚の弟張先に一万三千を与えて潼関北で迎え撃たせたが、大敗して長安へ逃げ帰った。
  • 杜洪の弟杜郁は苻健を迎えるよう勧めたが容れられず、自らの部衆を率いて苻健に降った。
  • 苻健はさらに苻雄を渭北に派遣した。氐酋毛受は高陵、徐磋は好畤、羌酋白犢は黄白にそれぞれ数万をもって屯していたが、みな杜洪の使者を斬り、子を苻健のもとへ送って降伏した。
  • 苻菁・魚遵の進むところ、城邑はほとんどみな降り、杜洪は長安にこもるばかりとなった。
  • 十月、苻健は長安へ長駆して入り、杜洪・張琚は司竹へ逃げた。関中掌握はほぼ成った。

冉閔の攻勢と辛謐の諫死

  • 張賀度・段勤・劉国・靳豚らは昌城に会し、鄴を攻めようとした。冉閔は自ら迎撃し、蒼亭でこれを破って二万八千を殺し、靳豚を陰安で斬り、その衆をことごとく捕えた。
  • 冉閔の軍は三十余万に達し、旗鼓は百余里にわたって連なり、石氏最盛時にも劣らぬ威勢となった。
  • その頃、隴西の名士辛謐は、劉氏・石氏の時代にも召命に応じなかったが、冉閔は礼を尽くして太常に徴した。辛謐は手紙を送り、物事は極まれば反り、至れば危うくなる、いま大勝したこの機に晋へ帰順すれば、清廉の名と長寿を得られると諫め、自らは絶食して死んだ。

九月以後 前燕の河北経略

  • 九月、慕容儁は冀州へ南下し、章武・河間を取った。
  • 勃海の賈堅は、若い頃から気節を重んじ、趙に仕えて殿中督となったが、趙滅亡後は魏主冉閔を離れて郷里に帰り、数千家を率いていた。慕容評が勃海を巡って招いたが、最後まで降らなかったため、戦って捕えた。
  • 慕容儁と慕容恪は賈堅の才能を惜しみ、その射術を試すため百歩先の牛を標的にした。賈堅は若い頃なら外せたが、今は老いて時に当ててしまうと言い、二射して一矢は背をかすめ、一矢は腹の毛だけを削り、見物人を驚かせた。
  • 慕容儁は賈堅を楽陵太守とし、高城を治めさせた。
  • 一方、苻菁は渭北で張先を破り、三輔の郡県・堡壁は次々と降った。
  • 十月、慕容儁は薊へ帰還し、さらに龍城へ戻って陵廟に拝した。

冬 冉閔の襄国攻囲と胡降人問題

  • 十一月、冉閔は歩騎十万を率いて襄国を攻め、子の冉胤を大単于・驃騎大将軍とし、降ってきた胡人千人を配属して麾下とした。
  • これに対し韋謏は、胡羯は皆仇敵であり、帰附したのも命惜しさからにすぎない、変心してからでは遅いので、降胡を誅し、単于号も廃して禍を未然に防ぐべきだと諫めた。
  • 冉閔は群胡を取り込もうとしていたため激怒し、韋謏とその子伯陽を殺した。

十一月から十二月 苻健入長安と蔡謨罷免

  • 甲午、苻健は長安に入り、関中の民心がなお晋を思っていることを利用し、杜山伯を建康へ送って戦捷を献じ、桓温にも通好した。これにより秦・雍の夷夏はこぞって帰附した。
  • 趙の凉州刺史石寧だけは上邽に拠って降らなかったが、十二月、苻雄がこれを斬った。
  • 東晋では、蔡謨が司徒に任じられてから三年たっても就任しなかった。詔書を重ね、太后も使者を送って意向を伝えたが、蔡謨はなお受けなかった。
  • ついに皇帝が臨軒し、侍中紀据・黄門郎丁纂を派遣して蔡謨を召したが、蔡謨は病を理由に主簿謝攸を通じて終日辞退し続けた。幼帝は疲れて、召した人はなぜまだ来ないのか、いつまで臨軒を続けるのかと問うたため、太后はやむなく中止を命じた。
  • 殷浩は吏部尚書江虨の免官を奏し、会稽王司馬昱も、蔡謨のように上命に傲る者があれば人主の大義が立たぬと尚書省に命じた。公卿は、蔡謨は不臣に等しい罪だとして廷尉に送るよう請うた。
  • 蔡謨は恐れて子弟を率いて宮門に詣で、叩頭して廷尉に自首した。殷浩は重刑を加えようとしたが、この時入朝していた荀羨が、蔡公の身に危険があれば、明日には桓温のような兵権者が必ず行動を起こすだろうと述べたため、殷浩は思いとどまった。
  • 詔により蔡謨は庶人に落とされた。