資治通鑑晉紀二十 孝宗穆皇帝上之下 永和五年 一 349年
春正月 後趙の石虎が皇帝を称す
- 正月辛未朔、後趙で大赦が行われ、石虎は正式に皇帝位についた。年号を太寧と改め、諸子もみな王爵に進められた。
流刑兵梁犢の乱
- かつて石宣の東宮に属した高力ら一万人余りが辺境へ流され、雍城に到着した。赦免の対象外であるうえ、雍州刺史張茂が彼らの馬を取り上げて徒歩で鹿車を押させ、兵糧を運ばせたため、怨みが鬱積した。
- そこで督将の梁犢が衆の不満を利用して叛乱を企て、皆は大いに喜んだ。梁犢は自ら「晋征東大将軍」と称し、下辨を攻略した。
- 安西将軍劉寧は安定から討ったが敗れた。高力たちは強弓をよくし、兵甲がなくても民間の斧などを奪って戦い、破竹の勢いで郡県を陥し、長官を殺した。
- 彼らは長安に至るころには十万に膨れ上がり、楽平王石苞の精兵も敗った。さらに潼関を出て洛陽へ向かい、李農・張賀度ら十万の討伐軍を新安・洛陽で破り、成皋まで追い返し、滎陽・陳留を荒らした。
姚弋仲の出陣と梁犢の平定
- 石虎は大いに恐れ、燕王石斌を大都督とし、姚弋仲・蒲洪らに討伐を命じた。姚弋仲は八千余を率いて鄴に来たが、病中の石虎が面会しないことに怒り、ただ御膳を賜るだけでは出陣できぬ、主君の生死もわからぬではないかと強く迫った。
- 石虎がようやく出ると、姚弋仲は、子が死んだからといってなぜ病むのか、幼少の時に善人を付けて教育しなかった結果であり、反逆して殺されたならそれまでだ、それより幼い後継者を立てた以上、天下の乱を憂うべきだと遠慮なく言い放った。
- 姚弋仲は、自分が一挙に賊を平らげようと言ってその場で甲冑をまとい、馬に乗って庭を駆け抜け、挨拶もそこそこに出陣した。
- その後、石斌らとともに滎陽で梁犢を大破し、梁犢を斬って残党も滅ぼした。石虎は姚弋仲に剣履上殿・入朝不趨を許し、西平郡公に進封した。蒲洪もまた車騎大将軍・開府儀同三司・都督雍秦州諸軍事・雍州刺史となり、略陽郡公に進んだ。
- 始平の馬朂も兵を挙げて将軍を称したが、楽平王石苞に討たれ、三千余家が誅せられた。
夏四月 益州平定と燕冊封
- 益州刺史周撫と龍驤将軍朱燾は范賁を討ち、その首を斬った。これにより益州は平定された。
- 東晋は陳沈を前燕へ派遣し、慕容儁を使持節・侍中・大都督・幽平二州牧・大将軍・大単于・燕王に任じた。
林邑遠征の失敗
- 桓温は督護滕畯に交州・広州の兵を率いさせ、林邑王文を盧容で討たせたが敗れ、九真へ退いた。
石虎末期の政変
- 乙卯、石虎は病が重くなり、彭城王石遵を大将軍として関右に、燕王石斌を丞相・録尚書事に、張犲を鎮衛大将軍・領軍将軍・吏部尚書に任じ、遺詔で輔政を託した。張犲に文武の権が集中した形である。
- 劉皇后は石斌が太子石世に不利になるのを恐れ、張犲と組んで石斌を除こうとした。石斌は襄国にいたが、病がやや癒えたので狩猟は少し待てと偽書を送り、酒好きで狩り好きの石斌を足止めした。
- そのうえで石斌に忠孝の心がないとして官を免じ、邸に帰らせ、張犲の弟張雄に龍騰兵五百で監視させた。
- 乙丑、石遵が幽州から鄴に到着すると、石虎は禁兵三万を配して送り出した。石遵は涙を流して去った。
- 同日、石虎は石遵がまだいるかと尋ね、すでに去ったと聞いて会えなかったことを悔やんだ。西閤で龍騰兵二百余が拝伏し、燕王を呼び寄せて宿衛・兵馬を統べさせるべきだ、あるいは太子にすべきだと訴えると、石虎も石斌を呼んで璽綬を授けると言ったが、左右は劉氏側で誰も実行しなかった。石虎はそのまま意識を失った。
- 張犲は偽詔で石斌を殺させた。戊辰にはさらに劉氏が偽詔を下して張犲を霍光になぞらえる大権の地位に就けた。侍中徐統は乱の兆しを嘆き、これに関わるまいとして毒を飲んで死んだ。
- 己巳、石虎は死去し、太子石世が即位した。劉氏は皇太后となって臨朝称制し、張犲を丞相にしようとしたが、彼は辞退して石遵・石鑑を左右丞相に立て、両者の心をなだめるよう進言した。
李農の離反と石遵擁立の動き
- 張犲は張挙と李農誅殺を謀ったが、張挙は李農と親しかったため密かに知らせた。李農は広宗へ逃げ、乞活の数万家を率いて上白に拠った。
- 劉氏は張挙に宿衛諸軍を率いさせてこれを包囲させ、張犲は張離を鎮軍大将軍・監中外諸軍事として自らの副えとした。
- 一方、石遵は河内で石虎の死を聞いた。ちょうど梁犢討伐から帰る姚弋仲・蒲洪・劉寧・石閔・王鸞らが李城で石遵に会い、先帝は本来あなたを継がせる意向もあったのに、晩年に張犲に惑わされたのだ、今は女主臨朝・奸臣専権で、上白軍も持ちこたえていて京師は手薄だ、張犲の罪を掲げて進めば皆が迎えるだろうと説いた。石遵はこれに従い、軍を返して鄴へ向かった。
- 洛州刺史劉国も洛陽の兵を率いてこれに合流した。檄文が鄴に届くと張犲は恐れ、上白の軍を呼び戻した。
石遵の即位
- 丙戌、石遵の軍は蕩陰に着いた。九万の兵のうち、老将や羯族の兵士たちは、彭城王が喪に赴くのだから迎えるべきで、張犲のために城を守る気はないとして城を越えて出奔した。張犲は斬っても止められなかった。
- 張離も龍騰兵二千を率いて城門を開き、石遵を迎え入れた。劉太后は張犲を呼んで哭し、先帝の柩もまだ葬られぬのに禍が来た、幼主を託した将軍はどうするのか、石遵に重位を与えれば防げるかと問うたが、張犲は恐れてうろたえるばかりだった。
- そこで詔を下し、石遵を丞相・領大司馬・大都督・録尚書事・黄鉞九錫としたが、間に合わなかった。
- 己丑、石遵が安陽亭に至ると、張犲は出迎えたが、その場で捕らえられた。庚寅、石遵は甲冑姿で鳳陽門から入り、太武前殿で哀礼を尽くしたのち、東閤に退き、張犲を平楽市で斬って三族を誅した。
- さらに劉氏の名で詔を出し、嗣子石世は幼く、先帝の私恩で立てられたにすぎず、皇業を担う力はないとして、自ら即位した。
- 大赦を行い、上白包囲を解いた。辛卯、石世を譙王に封じ、劉氏を太妃に落としたのち、まもなく両者とも殺した。
- 李農を呼び戻して罪を赦し、官位を回復させた。母鄭氏を皇太后とし、妃張氏を皇后とした。燕王石斌の子石衍を皇太子とし、石鑑・石沖・石苞・石琨らを重職に任じ、石閔には都督中外諸軍事・輔国大将軍を授けた。これにより石閔が兵権を握ることになった。
暴風と沛王石沖の敗死
- 甲午、鄴では暴風が木を抜き、雷電と大雹が降り、太武殿・暉華殿や諸門楼閣が焼失し、帝王の服御も大半が焼けた。火は一か月余り消えなかった。
- 薊を守っていた沛王石沖は、石遵が石世を殺して即位したことを聞くと、これは先帝の命を受けた者を殺した大罪だとして、自ら討とうとした。寧北将軍沭堅を幽州に残し、五万を率いて南下すると、燕・趙の各地から兵が集まり、常山に至るころには十余万となった。
- 石遵の赦書が届くと、石沖は皆自分の弟であり、死者は取り返せぬのだから相争うべきではないとして一度は帰還を考えた。だが部将陳暹が、石遵は簒弑の大罪人であり、京師を平定してから大駕を迎えるべきだと主張したため、進軍を続けた。
- 石遵は石閔・李農に精兵十万を授けて平棘でこれを討ち、石沖を元氏で捕え、死を賜った。兵卒三万余も坑殺した。
蒲洪の離反と燕の南進計画
- 石閔は石遵に対し、蒲洪は人傑であり、関中を預けたままでは秦・雍は国家の地ではなくなると述べた。石遵はこれに従って蒲洪の都督職を解いたため、蒲洪は怒って枋頭へ帰り、東晋へ降った。
- 前燕では慕容霸と北平太守孫興が、石氏が大乱している今こそ中原進出の好機だと上表した。慕容儁は新たな喪中であることを理由にためらった。
- 慕容霸は龍城に急行し、時は得がたく失いやすい、石氏が再起するか、あるいは別の英雄がその資産を奪えば、利益を失うばかりでなく後患になると説いた。
- 慕容儁は、鄧恒が楽安を守り兵糧もあること、盧龍道は険阻で要地を断たれるおそれがあることを心配した。
- これに対し慕容霸は、大軍が迫れば敵将士は家を思って瓦解し、自分が前鋒となって徒河・令支方面から奇襲すれば、敵は閉門自守するか逃散するだけで防げないと述べた。
- 封奕・黄泓・慕輿根らも、石虎の暴政と没後の争乱の下で中国の民が救済を望んでおり、天文もまた燕の受命を示しているとして進軍を勧めた。
- 慕容儁はついにこれを容れ、慕容恪・慕容評・陽騖を「三輔」として任じ、慕容霸を前鋒都督・建鋒将軍とし、精兵二十余万を選んで進取の備えを整えた。
夏六月以後 北方情勢と東晋の北伐失敗
- 六月、石虎は顕原陵に葬られ、廟号を太祖とした。
- 桓温は趙の内乱を聞いて安陸に進み、諸将を派遣して北方経略に当たらせた。趙の揚州刺史王浹は寿春を挙げて降り、西中郎将陳逵がこれに入った。
- 褚裒も北伐を請い、王頤之らを彭城へ、麋嶷を下邳へ進めたのち、自ら三万を率いて彭城へ向かった。北方の士民は日ごとに多数が帰附し、朝野は中原回復を目前と見た。
- しかし蔡謨は、胡族の滅亡自体は慶賀すべきでも、時の人物には順天応時して群生を救う力量が足りず、無理に経営すれば兵站と防備で民を疲弊させ、かえって朝廷の憂いになると見ていた。
- その後、魯郡の民五百余家が起兵して晋に附き、褚裒は王龕・李邁に三千の精兵で迎えさせたが、李農が二万騎で代陂に迎撃して大破し、両将とも没した。
- 八月、褚裒は広陵に退き、陳逵も寿春の積糧を焼いて城を壊し、撤退した。褚裒は自らの降格を願ったが許されず、京口へ戻って征討都督を解かれた。
- この頃、河北大乱を避けて二十余万口の民が黄河を渡り晋へ帰附しようとしたが、褚裒がすでに撤兵して威勢が及ばず、多くが途中で死滅した。
関中・凉州の動き
- 楽平王石苞は関右の兵を率いて鄴を攻めようとしたが、雍州の豪傑たちはその無能を見抜き、かえって晋の梁州刺史司馬勲に通じた。司馬勲は軍を率いて進み、楊初も趙の西城を襲って破った。
- 九月、凉州では官属が張重華を丞相・凉王・雍秦凉三州牧に推戴した。
- 張重華は左右の寵臣に金帛をたびたび与え、博奕を好んで政務を怠りがちであった。徵事索振は、先王が府庫を蓄えたのは国恥を雪ぐためであり、いま蓄積は減り、仇敵も健在なのに功なき者へ散財してはならない、章奏が滞って冤罪が獄中に沈んでいるのは明主のすることではないと強く諫めた。張重華はこれを謝して受け入れた。
- 司馬勲は駱谷を出て長城戍を破り、懸鉤に陣し、治中劉煥に長安攻撃を命じた。京兆太守劉秀離を斬り、賀城も攻略すると、三輔の豪傑がこぞって守令を殺して呼応し、三十余壁、五万人に達した。
- 石苞は鄴攻撃計画をやめ、麻秋・姚国らに司馬勲を防がせた。石遵は王朗に二万騎を与えて司馬勲討伐を名目に送りつつ、実際には石苞を脅して鄴へ送らせた。兵少の司馬勲は王朗を恐れて進めず、十月には懸鉤を解き、宛城を抜いて南陽太守袁景を殺したのち、梁州へ帰った。
冬 石閔の台頭
- もともと石遵は李城で石閔に、事が成れば太子にすると約束していた。だが即位後は石斌の子石衍を立てたため、武功を誇る石閔は朝政を専断しようとし、石遵はこれを抑えた。
- 石閔は驍勇でたびたび戦功を立て、夷・夏の宿将も皆おそれていた。彼は都督として内外兵権を握ると、殿中将士を懐柔し、一斉に官爵を与えるよう奏上させた。石遵は疑わず、かえってその名簿に善悪を書き入れて抑えようとしたため、将士は皆怨んだ。
- 孟準・王鸞らは石遵に石閔の兵権を奪うよう勧め、やがて誅殺を決するに至った。
- 十一月、石遵は石鑑・石苞・石琨・石昭らを鄭太后の前に集めて石閔誅殺を議した。鄭太后は、李城から兵を返した石閔がいなければ今の位はないのだから、多少驕っても寛容にせよとして反対した。
- しかし石鑑は宦官楊環に急報させた。石閔は李農・王基と密謀し、蘇彦・周成に甲士三千を率いさせて南台で石遵を捕えた。石遵は婦人と弾碁をしていたが、反者は誰かと問われると石鑑が立つのかと知り、自分でもこの有様なのだから石鑑がどれほど保てようかと言い残して殺された。
- 石遵は位について百十三日で没した。石閔らは鄭太后・張皇后・太子石衍・孟準・王鸞・張裴らも殺し、石鑑を即位させた。
- 石鑑は大赦を行い、石閔を大将軍・武徳王、李農を大司馬・録尚書事、郎闓を司空、劉羣を尚書左僕射、盧諶を中書監とした。
- この頃、かつて趙に移された秦・雍の流民たちは、国内動乱に乗じて相率いて西へ帰り、枋頭を経る者たちはみな蒲洪を主として推戴し、十余万に達した。
- 蒲洪の子蒲健も鄴から脱出して枋頭に奔り、石鑑は蒲洪を関中方面の都督・征西大将軍・雍州牧・領秦州刺史として送り出そうとした。だが、主簿程朴が趙と列国のように和を結んで分地統治すべきだと言うと、蒲洪は自分に天子の器がないと言うのかと怒ってこれを斬った。
- 十二月己酉、褚裒は京口で死者の家族の哭声を聞いて恥憤のあまり病を発し、そのまま死去した。荀羨が徐州刺史に任じられたが、二十八歳での方伯任官は中興以来きわめて異例であった。
- 石鑑はまた石閔・李農を襲わせたが失敗し、李松・張才・石苞を殺して責任を転嫁した。襄国では新興王石祗が姚弋仲・蒲洪らと結んで討閔の檄を飛ばした。
- さらに孫伏都・劉銖ら羯兵三千も禁中で石閔・李農を殺そうとしたが、石閔・李農が逆にこれを討って胡人を大量に誅し、城中から羯・胡を追い払った。
- 石閔は趙人に命じて胡人の首を鳳陽門に送れば、文官は三等進め、武官はすべて牙門に任じるとし、一日で数万の首が斬られた。自らも趙人を率いて胡羯を殺し、男女老少を問わず二十余万が死んだ。容貌が胡に似た者まで誤殺された。
- 前燕は凉州の張重華に使者を送り、共同で趙を撃つことを約した。高句麗王釗は、以前に燕から逃れていた宋晃を送り返し、慕容儁はこれを赦して名を「活」と改め、中尉に任じた。