資治通鑑晉紀十九 孝宗穆皇帝上之上 永和 二年 346年

春正月・大赦と何充の死

  • 春正月丙寅、大赦が行われた。
  • 己卯、都郷文穆公何充が死去した。
  • 何充は度量を備え、朝廷では正色を保ち、社稷を自らの責務と考えた。人材選抜も功効を基準とし、親旧に私しなかった。

前燕・夫余征服

  • もともと夫余は鹿山に居たが、百済の侵攻を受けて部落が衰え、西方へ移って燕に近づいていた。しかし備えは乏しかった。
  • 燕王慕容皝は世子慕容儁に慕容軍・慕容恪・慕輿根ら一万七千騎を率いさせて奇襲した。
  • 儁は中央で指揮を執りつつ、実際の軍事は慕容恪に委ねた。
  • 燕軍は夫余を攻略し、その王玄と部落五万余口を捕えて帰った。
  • 慕容皝は玄を鎮軍将軍とし、自らの娘を妻わせた。

二月三月・蔡謨・顧和・殷浩の起用

  • 二月癸丑、左光禄大夫蔡謨を司徒として会稽王昱とともに輔政に当たらせた。
  • 褚裒は前光禄大夫顧和と前司徒左長史殷浩を推挙した。
  • 三月丙子、顧和を尚書令、殷浩を建武将軍・揚州刺史とした。
  • 顧和は母の喪中であるとして固辞し、「喪服を脱いで王事に従うのは、それだけの才幹があってこそ許される。自分のような者がそうすれば孝道と風俗を損なうだけだ」と語り、識者はこれを称えた。
  • 殷浩も固辞したが、会稽王昱は「今は国家が危機にあり、あなたの沈着な識見と長い蓄積こそ経世済民に必要だ。退身を貫けば天下の事はここで尽きる」と書き送り、殷浩はついに就任した。

夏四月五月・日食と張駿の死

  • 夏四月己酉朔、日食があった。
  • 五月丙戌、西平忠成公張駿が死去した。
  • 部属たちは世子張重華を使持節・大都督・太尉・護羌校尉・凉州牧・西平公・假凉王に推戴し、境内に赦を布いた。
  • 張重華は嫡母の厳氏を太王太后、生母の馬氏を王太后とした。

後趙・蒲洪の諫言

  • 趙の中黄門厳生は尚書朱軌を憎んでいた。長雨にかこつけて、朱軌が道路を修理せず、しかも朝政をそしったと讒言した。
  • 石虎が朱軌を囚えると、蒲洪が諫めた。彼は、石虎が襄国・鄴・長安・洛陽に宮殿を築き、狩猟車千乗を造り、十余万の人妻女子を後宮に入れていることを挙げ、これが聖帝明王のすることかと厳しく批判した。
  • また、大雨七十日がようやく晴れて二日しか経っていないのに道路がぬかるむのは当然であり、それを理由に尚書を殺そうとするのは政刑の誤りだと論じ、工事停止・苑囿廃止・宮女放出・朱軌赦免を求めた。
  • 石虎は不快に思いつつも蒲洪を罪にせず、長安・洛陽の工事を止めたが、結局朱軌は処刑した。
  • さらに私論朝政を禁じ、吏が上官を、奴が主人を告発できる法を立てたため、公卿以下は朝見でも目を合わせるばかりで、互いに往来し談語することすら恐れた。

前凉と後趙の戦争開始

  • 趙の将王擢は張重華を撃ち、武街を奇襲して護軍曹権・胡宣を捕らえ、七千余戸を雍州へ移した。
  • 凉州刺史麻秋と将軍孫伏都は金城を攻め、太守張冲は降伏を請うたため、凉州の諸地は大いに震えた。
  • 張重華は国内の兵を総動員し、征南将軍裴恒にこれを統率させて趙軍を防がせた。裴恒は広武に陣したが、久しく戦わなかった。

謝艾の登用と初勝利

  • 凉州司馬張耽は張重華に、「国の存亡は兵にあり、兵の勝敗は将にある。今の議者は古参ばかりを推しているが、韓信も旧徳ではなかった。人材の才に応じて大任を授けるべきだ」と説き、主簿謝艾を推挙した。
  • 張重華が謝艾に方略を問うと、謝艾は兵七千あれば必ず趙を破ると答えた。
  • 張重華は謝艾を中堅将軍に任じ、歩騎五千を授けて麻秋に当たらせた。
  • 謝艾は振武から出兵した夜、軍営の中で二羽の梟が鳴いたので、博戯で梟の目が勝ち札であることになぞらえ、勝利の兆しだとした。
  • そのまま趙軍と戦って大破し、五千級を斬り、張重華は謝艾を福禄伯に封じた。

麻秋の攻勢と涼州の義士

  • 麻秋は金城を破った後、大夏を攻めた。護軍梁式は太守宋晏を捕えて城を挙げて麻秋に応じた。
  • 麻秋は宋晏に書を持たせ、宛戍都尉の敦煌宋矩を誘わせたが、宋矩は「臣として功を立てられなかった以上、節を全うして死ぬのみ」と言い、まず妻子を殺し、自らも自刎した。
  • 麻秋はこれを義士として、収葬した。

冬・成漢の反乱と李勢の失政

  • 冬、漢の太保李奕が晋寿で挙兵して反し、蜀人の多くがこれに従って数万となった。
  • 李勢は城に登って防戦したが、李奕は単騎で門に突入し、門番に射殺されたため、その軍は潰散した。
  • 李勢は境内に大赦し、年号を嘉寧に改めた。
  • しかし李勢は驕淫で国政を省みず、深く禁中にこもって公卿との接触を避け、旧臣を疎んじ、側近の讒諂ばかりを信じた。刑罰も苛酷で濫用され、中外は離反していった。
  • 蜀にはもともと獠が少なかったが、このころから山中を出て、巴西から犍為・梓潼に至るまで山谷に十余万落が満ち、制御できず、民害となった。さらに飢饉も重なって国内はいっそう疲弊した。

桓温の蜀伐決断

  • 安西将軍桓温は成漢討伐を企てたが、将佐の多くは反対した。
  • 江夏相袁喬は、天下の大患は胡と蜀の二つであり、蜀は険阻ながら胡より弱いのだから、討つなら先に容易な方を取るべきだと勧めた。
  • 李勢は無道で民心を失っており、遠隔の地ゆえ油断もある。精兵一万に軽装で急進すれば、敵が気づくころには険所を抜けていて、一戦で擒にできると説いた。
  • また蜀は富饒で戸口も多く、諸葛亮がこれを用いて中夏に対抗したように、国家にとって大きな利となると論じた。
  • さらに、晋軍が遠征すれば胡が隙を窺うという反対論についても、むしろ晋が内に重備を置いていると見て軽挙しないだろうと反駁した。
  • 桓温はこれに従い、袁喬を前鋒とした。

十一月・桓温の出兵

  • 十一月辛未、桓温は益州刺史周撫・南郡太守譙王無忌らを率いて成漢を討った。
  • 上表するとすぐ出発し、安西長史范汪に留守を委ねた。
  • 周撫には梁州四郡諸軍事を都督させ、袁喬には二千人を率いさせて前鋒とした。
  • 朝廷は蜀道の険しさと兵数の少なさのため深く憂えたが、劉惔だけは必勝を断言した。
  • 理由を問われると、劉惔は「桓温は博奕に巧みで、勝てぬ勝負はそもそも打たない。ただし蜀を平らげた後、朝廷を専制することが心配だ」と答えた。