資治通鑑晉紀十九 孝宗穆皇帝上之上 永和 三年 347年
春二月三月・桓温の成漢攻略
- 春二月、桓温の軍は青衣に到達した。
- 漢主李勢は大軍を発し、叔父の右衛将軍李福、従兄の鎮南将軍李権、前将軍昝堅らに命じて、山陽から合水方面へ向かわせた。
- 諸将は江南に伏兵を置いて晋軍を待つべきだと主張したが、昝堅は従わず、江北の鴛鴦碕から渡って犍為へ向かった。
- 三月、桓温が彭模に着くと、二道分進して敵を分散させる案が出たが、袁喬は反対した。
- 袁喬は、万里の外に深入りする以上、勝てば大功・敗れれば全滅であり、兵力を分ければ心が離れて一方が敗れた時に全体が崩れると説いた。
- そこで桓温は全軍をまとめ、釜や甑を捨て、三日分の食糧だけを持って退路を断つ姿勢を示した。
- 桓温は参軍の孫盛・周楚に弱兵を与えて輜重を守らせ、自ら歩兵主力を率いて成都へ直進した。李福は彭模を攻めたが、孫盛らに撃退された。
- 桓温は前進して李権と遭遇し、三戦三勝すると、漢兵は散って成都へ逃げた。鎮軍将軍李位・都迎らは桓温に降った。
- 昝堅は犍為に着いてはじめて味方主力と別道だったことを知り、沙頭津から渡り直したが、到着した時には桓温はすでに成都近郊十里陌に進んでいた。昝堅軍は自壊した。
- 李勢は全軍を率いて成都の笮橋で決戦した。晋軍の前鋒は不利で、参軍龔護が戦死し、矢は桓温の馬の頭にも及んだ。
- 兵は恐れて退こうとしたが、鼓吏が誤って進軍の鼓を鳴らしたため、袁喬が剣を抜いて督戦し、将士も力戦してついに漢軍を大破した。
- 桓温は勝勢に乗じて成都へ迫り、城門を焼いた。漢側は恐慌して戦意を失った。
- 李勢は夜のうちに東門から逃れ、葭萌に至って散騎常侍王幼に降書を持たせた。自らは略陽李勢と名乗って死罪を請い、まもなく棺を載せて面縛し軍門に出頭した。
- 桓温は縛を解き、棺を焼き、李勢と宗室十余人を建康へ送った。
- 桓温は漢の司空譙献之らを参佐に引き立て、賢者を挙げ善人を顕彰したため、蜀人は悦服した。
日南の乱
- 日南太守夏侯覧は貪欲で苛斂し、胡商を侵害し、さらに遠征名目で船材を科調したため、諸国は憤った。
- 林邑王文は日南を攻め落とし、将士五、六千を殺し、夏侯覧を斬ってその死体で天を祭り、交州刺史朱蕃に対して郡北の横山を境界にしたいと檄を送った。
- 文が去ると、朱蕃は督護劉雄を日南守備に当てた。
蜀平定後の反乱
- 漢の旧臣、王誓・鄧定・王潤・隗文らはそれぞれ一万余を率いて反した。
- 桓温は自ら鄧定を撃ち、袁喬には隗文を討たせ、いずれも破った。
- 桓温は益州刺史周撫を彭模に鎮させ、王誓・王潤を斬り、自らは成都に三十日とどまって軍容を整えたのち、江陵へ帰還した。
- 李勢は建康に到ると帰義侯に封じられた。
四月・蜀で再度の擾乱
- 夏四月丁巳、鄧定・隗文らは再び成都を占拠した。
- 征虜将軍楊謙は涪城を棄てて徳陽に退保した。
前凉と後趙の大戦
- 趙の麻秋は枹罕を攻めた。晋昌太守郎坦は外城は守り難いとして棄てようとしたが、武成太守張悛は、外城放棄は人心を動揺させて大事を失うとして反対した。
- 寧戎校尉張璩は張悛の意見を取り、大城に拠って固守した。
- 麻秋は八万で幾重にも壕をめぐらし、雲梯・地道など百の攻城法を尽くしたが、城中はよく防ぎ、趙軍の死傷は数万に達した。
- 石虎はさらに劉渾ら二万余を後続として送った。
- 郎坦は自説が退けられたことを恨み、軍士李嘉にひそかに趙兵千余を城上へ導き入れさせたが、張璩は諸将を督戦して二百余を斬り、敵を撃退し、攻具を焼いた。
- 麻秋は大夏に退いた。
謝艾の連勝
- 石虎は中書監石寧を征西将軍として并・司州兵二万余を率いさせ、麻秋の後援とした。
- 一方、張重華配下の宋秦らは戸二万を率いて趙に降った。
- 張重華は謝艾を使持節・軍師将軍とし、歩騎三万を率いて臨河に進ませた。
- 謝艾は軽い軺車に乗り、白い幍を戴き、鼓を鳴らして進んだ。麻秋はこれを見て、若い書生がこのような服装で自分を侮るのかと怒り、黒矟龍驤三千を急襲させた。
- 謝艾の左右は大いに動揺し、馬に乗るよう勧めたが、謝艾は応じず、車を降りて胡床に腰かけ、冷静に指揮した。
- 趙軍は伏兵があると疑って進めず、そのすきに別将張瑁が間道から趙軍の背後を断ったため、謝艾はこれに乗じて攻撃し、大破した。
- 趙の将杜勲・汲魚を斬り、首虜一万三千級を挙げ、麻秋は単騎で大夏へ逃げ帰った。
- 五月、麻秋と石寧は再び十二万を率いて河南に駐屯し、劉寧・王擢は晋興・広武・武街を攻略して曲柳に至った。
- 張重華は牛旋にこれを防がせたが、退いて枹罕を守らせたため、姑臧は大いに震えた。
- 張重華は自ら出陣しようとしたが、謝艾が強く諫め、索遐も「君主は国の鎮であり、軽々しく動いてはならない」と述べた。
- そこで謝艾を使持節・都督征討諸軍事・行衛将軍、索遐を軍正将軍とし、歩騎二万を率いて出撃させた。
- 別将楊康は沙阜で劉寧を破り、劉寧は金城へ退いた。
- 六月辛酉、大赦が行われた。
林邑再侵・成都の擁立劇
- 秋七月、林邑は再び日南を陥れ、督護劉雄を殺した。
- 隗文・鄧定らは、かつて李雄に重んじられた国師范長生の子范賁を立てて帝とし、妖異を用いて人心を惑わせたため、蜀人の多くが帰順した。
八月・謝艾の決戦勝利
- 趙王石虎はまた征西将軍孫伏都・将軍劉渾に歩騎二万を率いさせて麻秋軍に合流させ、黄河を渡って長最に城を築かせた。
- 謝艾は軍門に旗を立てて誓師したところ、風が吹いて旌旗が東南、すなわち敵の方角を指した。索遐は、風は号令であり、旗が敵を指すのは天の助けだと解した。
- 謝艾は神鳥に陣し、王擢が前鋒戦で敗れて河南へ退くと、八月戊午、麻秋を攻めて大破した。
- 麻秋は金城へ逃げ、石虎はこれを聞いて、「自分はかつて偏師で九州を定めたのに、今は九州の力をもっても枹罕に苦しんでいる。あちらには人がいる。まだ図るべきではない」と嘆いた。
- 謝艾は帰途、叛いた斯骨真ら一万余落を討って平定した。
後趙の末期的土木と凶政
- 石虎は十州の地を保ち、金帛や外国の珍宝を限りなく蓄えてなお足りず、前代の陵墓まで暴いて金宝を取り出した。
- 沙門呉進が、胡の運は衰え、晋が再興するから、晋人を苦役に使ってその気を厭勝すべきだと説くと、石虎は近郡の男女十六万、車十万乗を徴して、鄴北の華林苑と長城を築かせた。
- 申鍾石璞・趙攬らが天文の異変と民の疲弊を上疏して止めようとしたが、石虎は怒って「苑と牆が朝に完成し、夕に自分が死んでも悔いはない」と言い、夜も松明をともして工事を急がせた。
- 暴風雨で死者は数万に上った。
- さらに各地から献上された蒼麟十六、白鹿七、虎を集め、司虞張曷柱に調教させ、芝蓋車を牽かせた。大朝会ではこれを殿庭に列した。
九月・石宣・石韜兄弟の遊猟
- 九月、石虎は太子石宣に山川で祈福させ、そのまま遊猟させた。
- 石宣は大輅に乗り、天子の旌旗を建て、十六軍・戎卒十八万を率いて金明門から出た。石虎は後宮とともに陵霄観に上ってこれを眺め、「我が家の父子はこの有様だ。天崩地陥でもないかぎり何を憂えることがあろう。あとは孫を抱いて楽しむだけだ」と笑った。
- 石宣の宿営ごとに百里四方の大囲いを作って獣を追い込み、夜には文武の官に跪いて火囲いを守らせ、火は昼のように明るく照らした。百余騎の精鋭に獣を射させ、石宣は姫妾とともに輦から観覧した。
- 獣を逃がした者は爵位を奪われ、歩かされ、爵位のない者は鞭打ち百で罰せられた。士卒の飢え凍え死ぬ者は一万余にのぼり、三州十五郡を通過する間、備蓄は何一つ残らなかった。
- 石虎はさらに石韜にも并州から秦・雍に至る遊猟を同様に行わせた。石宣は石韜が自分と同等に扱われることにいよいよ憤り、宦官趙生がひそかに煽ったため、ついに石韜を殺す計画を抱くようになった。
前凉・後趙との攻防継続
- 趙の麻秋は再び張重華の将張瑁を襲い、これを破って三千余級を斬った。
- 枹罕護軍李逵が七千を率いて趙に降り、黄河以南の氐・羌もみな趙に附いた。
十月・張重華への晋の正式任命
- 冬十月乙丑、朝廷は侍御史俞帰を凉州に派遣し、張重華を侍中・大都督・督隴右関中諸軍事・大将軍・凉州刺史・西平公に任じた。
- 俞帰が姑臧に着くと、張重華は凉王を称したいと望み、ただちには詔を受けようとしなかった。
- 側近の沈猛は俞帰に、「主公は代々晋の忠臣なのに、なぜ鮮卑の慕容皝より下なのか。あなたは河右に移文して凉王推戴を勧めるべきだ。使者は社稷に利があれば専断してよい」と語った。
- 俞帰はこれを厳しく退け、古来、上公より尊い爵はなく、呉楚のような王号僭称は諸侯が異民族扱いして問題にしなかっただけだと述べた。
- また韓信・彭越の王封も権宜にすぎず、厚遇の証ではないとし、張重華は今やっと父の地位を継いだばかりで、まだ晋に対する新たな功績もない以上、王号を求めるのは筋違いであると論じた。
- もし河右の兵を率いて胡羯を平らげ、陵廟を修復し、天子を洛陽へ迎える功を立てたなら、その時はさらに加賞のしようもあるだろうと言い、張重華は思いとどまった。
武都氐と蜀の再乱
- 武都の氐王楊初は使者を送って藩属を称し、朝廷はこれを使持節・征南将軍・雍州刺史・仇池公に任じた。
- 十二月、振威護軍蕭敬文は征虜将軍楊謙を殺し、涪城を攻め落として自ら益州牧を称し、巴西を奪って漢中と通じた。