資治通鑑晉紀十九 孝宗穆皇帝上之上 永和 元年 345年
正月・穆帝の即位と垂簾
- 正月甲戌朔、皇太后は太極殿に白紗の帷を設け、幼帝を抱いて臨軒した。
後趙・関中経営と狩猟の暴政
- 趙の義陽公石鑒が関中を治めていたが、賦役が重く、文武の官人で髪の長い者がいれば冠の紐にするために髪を抜き、残りも宮人用に取った。長史がこのことを石虎に告げたため、石鑒は召還され、楽平公石苞が長安鎮守を代わった。
- 石虎は雍・洛・秦・并州から十六万人を徴して長安未央宮を修繕した。
- 晩年の石虎は肥満して馬に乗れなくなり、狩猟用の車千乗を造らせた。霊昌津から滎陽を経て東は陽都に至るまでを狩場と定め、御史に監察させ、その区域で獣に害を加えた者は重罪にした。
- さらに美しい女や良い牛馬を御史が探し求め、得られなければ獣を犯したと誣告して死に至らしめる者が百余人に及んだ。
- 諸州から二十六万人を徴して洛陽宮を修理し、民の牛二万頭を朔州の牧官に配した。
- 女官の等級を増やし、東宮・公侯諸国にも細かな序列を設けて、大量の民女を徴発した。正規の三万余に加え、太子や諸公が私的に集めた者も一万人近く、人妻を奪って夫を殺したり、夫が自殺した例まで三千余人にのぼった。
- 荊楚・揚徐の住民はほとんど流亡し尽くし、守令も治めきれない責任で五十余人が獄死した。
- 金紫光禄大夫の逯明が侍坐の機会に直諫すると、石虎は激怒し、龍騰に命じてこれを殴り殺させた。
前燕・封裕の民政諫言
- 燕王慕容皝は官牛を貧民に貸して苑中を耕させ、官牛利用者からは収穫の十分の八、自前の牛をもつ者からは十分の七を税として取っていた。
- 記室参軍の封裕は上書し、古の十分の一税や魏晋以来の旧法に比べてもこれは重税に過ぎると諫めた。
- また永嘉以来の乱後、武宣王慕容廆が徳で民を集めたことで戸口は旧時の十倍に増え、無田者も多いのだから、苑囿をすべて廃して新たな民に田を与え、貧者には官牛を貸すべきで、さらに重税を課すべきではないと論じた。
- ほかにも、溝渠修治、冗官整理、商工業者の定員化、学生の淘汰、諫言した王憲・劉明らの赦免、諫士を軽々しく弾劾する宋該らの非を挙げた。
- 慕容皝はこの意見を評価し、苑囿を民に開放し、貧民には官牛を与え、溝渠を修めることなどを命じた。軍功ある者が多いため官をすぐには減らせないが、中原平定後に改めて論ずるとし、商工・学生の整理も行う方針を示した。
- 王憲・劉明についても、本官に復し諫司に戻し、封裕に銭五万を賜って内外に「身分を問わず自分の過失を遠慮なく言え」と布告した。
- 慕容皝はもともと文事を好み、自ら学校に臨んで講義や試験をしており、学徒は千人を超えたが、そこに濫吹もあったため封裕の批判が及んだのである。
褚裒の辞退と会稽王昱の輔政
- 朝廷は衛将軍褚裒を召して揚州刺史・録尚書事としようとした。
- しかし吏部尚書劉遐と長史王胡之は、会稽王昱こそ徳望高く周公に比すべき人物だから、大政は彼に委ねるべきだと褚裒に勧めた。
- 褚裒は固辞して藩鎮に帰ることを望み、壬戌、会稽王昱が撫軍大将軍・録尚書六条事となった。
- 昱は清虚寡欲で、玄学談論に優れ、劉惔・王濛・韓伯らを談客として常に交わらせた。
- また郗超を撫軍掾、謝万を従事中郎に辟召した。郗超は郗鑒の孫で、少壮から才気卓抜で拘束を受けない人物だった。父の郗愔は財をため込んだが、郗超はその蔵を開かせて一日で親旧に施し尽くした。
- 謝万は謝安の弟で、清遠で秀抜な名声があった。
前燕・龍山の瑞兆
- 燕で黒龍と白龍が龍山に現れ、首を交えて遊び、角を解いて去った。
- 慕容皝は自ら太牢を供えて祭り、境内に赦令を出し、新宮を和龍と名づけた。
庾翼の死と荊州政権交替
- 都亭粛侯庾翼は背中に癰を発し、子の庾爰之を輔国将軍・荊州刺史とするよう上表して後事を託した。
- 司馬の義陽朱燾を南蛮校尉とし、千人で巴陵を守らせた。
- 秋七月庚子、庾翼は死去した。
- すると部将の于瓚らが乱を起こし、冠軍将軍曹拠を殺した。
- 朱燾は安西長史江虨、建武司馬毛穆之、将軍袁真らとともに于瓚を討って誅した。江虨は江統の子である。
八月・路永の叛降と桓温の荊州着任
- 八月、豫州刺史の路永が叛いて趙に奔り、趙王石虎はこれを寿春に置いた。
- 庾翼死後、朝廷では庾氏が代々西方の守りを担って人心も安んじているから、その願いどおり庾爰之に継がせるべきだという意見が多かった。
- しかし何充は、荊楚は国家西方の門戸であり、北に強胡、西に強蜀を控える要地だから、白面の少年に任せるべきではなく、桓温に勝る者はいないと主張した。
- これに対し、庾爰之が桓温に地位を譲るだろうかと危ぶむ声もあったが、何充は桓温なら制御できると断言した。
- 丹陽尹劉惔は桓温の才能を高く評価しつつも、臣下の節を越える志があると見抜き、会稽王昱に「形勝の地に置くべきでない」とたびたび勧めた。
- 自ら上流へ赴いて軍司になりたいと願い出たが、昱は許さなかった。
- 庚辰、桓温を安西将軍・持節・都督荊司雍益梁寧六州諸軍事・護南蛮校尉・荊州刺史とした。これはのちの桓温専権の伏線となる。
- 庾爰之はついに争えず、劉惔は沔中諸軍事を監し義成太守となって庾方之に代わり、庾方之と庾爰之はともに豫章へ移された。
桓温と劉惔
- かつて桓温が雪中の狩りに出る前、まず劉惔を訪ねたことがあった。
- 厳重な装束を見た劉惔が「老賊、こんな格好で何をするつもりか」と言うと、桓温は笑って「私がこうしなければ、君が座して高談できるわけもあるまい」と答えた。
成漢内部の粛清
- 漢主李勢の弟で大将軍の李広は、李勢に子がないことを理由に皇太弟になりたいと求めたが、李勢は許さなかった。
- 馬当・解思明が兄弟が少ない以上これを許すべきだと諫めたところ、李勢は両者が李広と結んでいると疑って捕え、斬り、その三族を滅ぼした。
- さらに太保李奕を遣わして涪城の李広を襲わせ、李広を臨邛侯に落として自殺に追い込んだ。
- 逮捕された解思明は、「この国がまだ亡びないのは自分たち数人がいるからだ。今や危うい」と言い、笑って死んだ。
- 解思明には知略と諫諍の気概があり、馬当も民心を得ていたので、その死を蜀の士民は惜しんだ。
冬十月~十二月・前燕・前凉
- 冬十月、燕王慕容皝は慕容恪に高句麗を攻めさせ、南蘇を抜き、守兵を置いて帰還した。
- 十二月、張駿は焉耆を討って降した。
- この年、張駿は武威など十一郡を分けて凉州とし、世子張重華を刺史とした。さらに興晋など八郡を河州とし張瓘を刺史に、敦煌など三郡と西域都護三営を沙州とし楊宣を刺史に任じた。
- 張駿自身は大都督・大将軍・假凉王を称し、三州を督攝し、祭酒・郎中・大夫・舎人・謁者などの官を置き、その制度や車服・旌旗はおおむね王者に准じ、名だけを少し変えた。
後趙・姚弋仲
- 趙王石虎は冠軍将軍姚弋仲を持節・十郡六夷大都督・冠軍大将軍とした。
- 弋仲は質素で剛直、威儀にこだわらず、発言に一切の恐れがなかったため、石虎は大いに重んじ、朝廷の大議には必ず参与させた。公卿たちはみな彼を憚り、席次を下げて敬った。
- あるとき武城左尉である石虎の寵姫の弟が弋仲の営に入り、その部衆を乱暴した。弋仲はこれを捕えて、「禁暴を職とする尉が自ら民を脅している。大臣として見逃せない」と数え上げ、左右に命じて斬ろうとした。
- 左尉は叩頭流血して命乞いし、左右も強く諫めたため、ようやく許した。
前燕・独自年号
- 燕王慕容皝は、古の諸侯は即位ごとに元年を称したとして、この年から晋の年号を用いず、自ら十二年と称した。
対燕戦備
- 趙王石虎は征東将軍鄧恒に数万を率いさせて楽安に駐屯させ、攻城具を整えて燕攻略を図った。
- 燕王慕容皝は慕容霸を平狄将軍として徒河に戍らせたため、鄧恒はこれを恐れて侵攻しなかった。