春正月・後趙の南征中止
- 春正月、趙王石虎が太武殿で群臣を饗応した時、白雁百余が馬道の南に集まった。射させても一羽も当たらなかった。
- そのころ、各州から集まった兵は百余万に達していたが、太史令趙攬はひそかに石虎へ、白雁が宮廷に集まるのは宮室が空になるしるしであり、南征は不吉だと告げた。
- 石虎はこれを信じ、宣武観で大閲兵だけ行って南征を中止した。
成漢・改元と冊立
- 漢主李勢は年号を太和に改め、母の閻氏を皇太后、妻の李氏を皇后とした。
前燕の宇文部討伐
- 燕王慕容皝は左司馬高詡と宇文逸豆帰討伐を謀った。高詡は、宇文は今のうちに討たねば将来の大患になるが、自分はこの出征で帰れないだろうと語りつつも、忠臣は危険を避けないとして賛成した。
- 慕容皝は自ら出征し、慕容翰を前鋒、劉佩を副将とし、さらに慕容軍・慕容恪・慕容霸・慕輿根らを三道に分けて進めた。
- 高詡は出発前に妻に会わず、人づてに家事を伝えて旅立った。
- 逸豆帰は南羅大涉夜干に精兵を与えて迎撃させた。
- 慕容皝は慕容翰に、涉夜干は勇名が高いから少し避けよと伝えたが、翰は「彼を討てば国は自壊する」と言い切って正面から戦った。
- 翰が自ら陣に突入し、慕容霸が側面から挟撃して涉夜干を斬ると、宇文軍は総崩れとなった。
- 燕軍はそのまま都城を陥れ、逸豆帰は漠北に逃れて死んだ。宇文氏はこれで離散し、慕容皝は家畜・財貨を収め、五千余落を昌黎に移し、地を千余里広げた。
- さらに涉夜干の居城を威徳城と改名し、弟の慕容彪に守らせて帰還した。
- ただし高詡と劉佩はともに流れ矢に当たって戦死した。
- 高詡は天文に通じていたが、慕容皝がその書を見せぬのは不忠ではないかと問うと、天文占候は臣が職掌として行うべきもので、君主が自ら苦労して見るものではないと答えていた。皝はこれに黙した。
後趙の救援失敗と慕容翰の死
- もともと逸豆帰は趙に対してきわめて恭順で、献上は途絶えなかった。
- 燕が宇文を攻めると、趙王石虎は白勝・王霸に甘松から救援させたが、到着時には宇文氏はすでに滅んでいた。そこで威徳城を攻めたが落とせず、帰還途中を慕容彪に追撃されて敗れた。
- 宇文氏との戦いで慕容翰は流れ矢に当たり、長く病床にあった。快方に向かって試しに馬を走らせると、病を装って密かに騎乗訓練している、変を図るのではないかと告げる者がいた。
- 慕容皝は翰の勇略を頼りながらも、心中ではなお疑っており、ついに死を賜った。
- 慕容翰は、自分はかつて罪を得て奔走し、のちに帰国を許された身だから、今の死はむしろ遅いくらいだが、羯賊が中原を支配する現状を一掃する志が遂げられないのが残念だと言い、毒を飲んで死んだ。
夏四月・代と後趙の戦い
- 代王什翼犍は長孫秩を燕へ送り、花嫁を迎えた。
- 夏四月、凉州の将張瓘は三交城で趙将王擢を破った。
後趙宮廷・王朗と王波の死
- 以前、領軍王朗は、厳冬に太子石宣が宮材を漳水まで運ばせて大勢を苦しめているから、石虎が外出のついでに中止させるべきだと進言し、石虎は従った。
- 太子宣はこれを恨み、ちょうど火星が房宿に留まっていた時、太史令趙攬に「房は天王を表し、災いを高貴な王姓の臣に当てるべきだ」と言わせた。
- 石虎は王朗を惜しんで別の者を問うたが、趙攬は答えられず、やむなく中書監王波の名を挙げた。
- 石虎は以前の楛矢事件を蒸し返して王波を腰斬し、その四子も殺して漳水へ投げ込んだ。のちに無罪だったと思い返し、司空を追贈し、孫を侯に封じた。
対燕・対漢・庾翼配下の失敗
- 趙の平北将軍尹農は燕の凡城を攻めたが、落とせずに退いた。
- 漢の太史令韓皓は、火星が心宿にあるのは宗廟祭祀が整っていないことへの譴責だと上言した。漢主李勢は群臣に諮り、董皎・王嘏らの意見に従って、李特・李雄・李驤・李寿ら近親の廟祀を改め、皆「漢」と称した。
- 征西将軍庾翼は梁州刺史桓宣に趙将李羆を丹水で撃たせたが敗れ、桓宣を建威将軍に降格した。桓宣は羞恨のうちに病み、秋八月庚辰に死んだ。
桓宣死後の人事
- 庾翼は長子の庾方之を義成太守として桓宣の軍を代領させ、司馬応誕を襄陽太守、参軍司馬勲を梁州刺史として西城を守らせた。
褚裒の転任と康帝の崩御
- 中書令褚裒は中枢を固辞し続けたため、閏月丁巳、左将軍・都督兗州・徐州琅邪諸軍事・兗州刺史として金城に鎮させた。
- 帝は重病となり、庾氷・庾翼は会稽王昱を嗣に立てたがったが、中書監何充は皇子聃を立てるべきだと主張した。
- 帝は何充の意見に従い、九月丙申、聃を皇太子に立てた。
- 戊戌、康帝は式乾殿で崩じた。年二十三。
- 己亥、何充は遺詔によって太子を即位させ、大赦を行った。
- これによって庾氷・庾翼は何充を深く恨んだ。
- 皇后褚氏が皇太后となり、まだ二歳の穆帝に代わって臨朝称制した。
何充・褚裒の政権構成
- 何充には中書監・録尚書事を加えたが、何充は「録尚書事である以上、中書監を兼ねるのは適切でない」と辞し、認められた上でさらに侍中を加えられた。
- 何充は、左将軍褚裒は太后の父であり朝政に参与すべきだと上疏して推挙し、褚裒を侍中・衛将軍・録尚書事とし、節を持って刺史を督する職務はそのままとした。
- 褚裒は外戚として譏嫌を受けるのを恐れ、藩鎮に出ることを固く願い、都督徐・兗・青三州および揚州二郡諸軍事・衛将軍・徐兗二州刺史として京口に鎮することとなった。
- また尚書は、褚裒が公の場で太后に会うときは臣礼をとり、私的に対面するときは父として遇すべきだと奏し、その通りとなった。
冬十月~十一月・庾氷の死と庾翼の持久策
- 冬十月、康帝は崇平陵に葬られた。
- 江州刺史庾氷が病み、太后はこれを召して輔政させようとしたが、庾氷は辞退した。
- 十一月庚辰、庾氷が死去した。
- 庾翼は家と国との両面を考え、喪に奔らず軍事を優先し、子の庾方之を建武将軍として襄陽を守らせ、若年を補うため参軍毛穆之を建武司馬とした。毛穆之は毛宝の子である。
- 自身は夏口に帰鎮し、詔によって再び江州を督し、さらに豫州刺史を兼ねたが、庾翼は豫州を辞した。
- また楽郷への移鎮を望んだが、詔は許さなかった。
- 庾翼はそこで軍器を修理し、大々的に屯田して穀物を蓄え、後日の挙兵に備えた。
後趙・黄河の橋梁工事失敗
- 趙王石虎は霊昌津に河橋を造ろうとし、中洲を築くために石を河中へ投入した。
- しかし石は流れに押されてすぐ流され、五千万余の労力を費やしても橋は完成しなかった。
- 石虎は怒って工匠を斬り、工事を中止した。