春二月・高句麗の服属
- 春二月、高句麗王釗は弟を燕へ入朝させ、臣従を表明し、珍宝を数多く献じた。
- 燕王慕容皝はこれを受けて、持ち帰っていた釗の父の遺体を返したが、その母はなお人質として留めた。
宇文部への奇襲
- 宇文逸豆帰は相の莫浅渾に兵を授けて燕を攻めさせた。燕の諸将は迎撃を望んだが、慕容皝はあえて許さなかった。
- 莫浅渾は、皝が恐れていると思い込み、酒宴や狩りにふけって備えを怠った。
- そこで皝は慕容翰に出撃を命じ、大破してその軍をほとんど捕虜にした。
庾翼と桓温
- 庾翼は気概が強く、功名心に富んでいた。
- 琅邪内史の桓温は桓彛の子で、南康公主を妻とし、豪放で風格もあった。庾翼は彼と親しく、天下平定をともに期していた。
- 庾翼はかつて成帝に対し、桓温は英雄の才をもつから、単なる皇族の婿としてではなく方面の重任に当てるべきだと薦めていた。
- 当時、杜乂・殷浩はともに天下第一の才名といわれたが、庾翼は彼らを高く評価せず、「天下が平定してから任用を考えればよい人物」と見ていた。
- 殷浩は墓所近くに退居して十年近く徴命を辞し、人々は管仲・諸葛亮になぞらえた。
- 謝尚・王濛らは、殷浩が出仕するかどうかを江東興亡のしるしのように見ていた。面会ののち、なお固く退隠の志を守るのを知り、「深源が起たなければ、天下の民はどうなるのか」と語り合った。
- 庾翼は殷浩を司馬に請い、侍中・安西軍司に任じる詔が出たが、殷浩は応じなかった。庾翼は王衍の空論を引き合いに出し、時務に当たるべきだと説いたが、殷浩はなお出なかった。
殷羡をめぐる庾翼の政治批判
- 殷羡が長沙相として貪虐であったため、庾氷は庾翼に書いて配慮を求めた。
- 庾翼は返書で、殷羡の驕慢さは優れた子の殷浩がいるために人々が甘やかしているからだと皮肉った。
- さらに江東の政治は、豪強をいたわって弱者にだけ法を厳しく適用するのが弊害だと述べた。
- 例として、石頭倉の米一百万斛窃盗では豪将らが真犯人なのに倉督監だけを処刑して責任を塞いだこと、余姚長の山遐が豪族の匿していた二千戸を摘発すると、豪強の圧迫で安んじて職に就けなかったことを挙げた。
- こうした前代の失政こそ江東政治を悪くした原因であり、自分たち兄弟もその中に巻き込まれている以上、目を開いて正さなければならないと述べた。
- そして、荊州二十余郡のうち長沙がとくに悪いのに、殷羡を罷めないのは盗倉事件で豪将を見逃したのと同じだと論じた。
庾翼の北伐構想
- 庾翼は胡族の討滅と蜀攻略を自らの使命と考え、東では燕王慕容皝、西では張駿と連携して大挙する計画を立てた。
- 朝廷では難しいと見る者が多かったが、庾氷、桓温、譙王無忌らは賛同した。無忌は譙王司馬承の子である。
秋七月・北伐議と諸州動員
- 秋七月、趙の汝南太守戴開が数千人を率いて庾翼に降った。
- 丁巳、朝廷は中原経略を議した。
- 庾翼は全軍を率いて北伐する意向を示し、桓宣を都督司・雍・梁三州および荊州四郡諸軍事・梁州刺史として丹水方面に進めるよう上表した。
- また桓温を前鋒の小督・仮節として臨淮に兵を入れさせた。
- あわせて所統六州の奴隷、車・牛・驢馬まで徴発したため、百姓は大いに嘆いた。
前燕と代の婚姻問題
- 代王什翼犍は再び燕に婚姻を求めた。
- 燕王慕容皝は馬千匹を礼として納めるよう命じたが、什翼犍はこれを出さず、しかも婿としての礼を欠いた。
- 八月、皝は世子慕容儁に慕容評らを従えて代を攻めさせた。
- 什翼犍は兵を率いて避け、燕軍は何も得られずに引き返した。
成漢の代替わり
- 漢主李寿が死去し、諡を昭文、廟号を中宗とした。太子李勢が即位し、大赦を行った。
後趙の軍事と宇文部
- 趙の太子石宣は鮮卑の斛穀提を大破し、三万の首級を挙げた。
- 宇文逸豆帰は、段遼の弟の段蘭を捕えて趙へ送り、あわせて名馬一万匹を献上した。
- 趙王石虎は段蘭にその配下の鮮卑五千を率いさせ、令支に駐屯させた。
庾翼の襄陽移鎮強行
- 庾翼は襄陽への移鎮を望んだが、朝廷が許さぬのを恐れ、最初は安陸に移ると奏上した。
- 帝と朝士は使者を送って思いとどまらせようとしたが、庾翼は詔に背いて北上し、夏口に至ってから改めて襄陽鎮守を願い出た。
- この時、庾翼の兵は四万に達しており、朝廷はついに庾翼を都督征討諸軍事に加えた。
庾氷・何充・桓温・褚裒の配置転換
- それ以前から車騎将軍・揚州刺史の庾氷はたびたび外任を求めていた。
- 辛巳、庾氷を都督荊・江・寧・益・梁・交・広七州および豫州四郡諸軍事・江州刺史・仮節として武昌に鎮させ、庾翼の後援にあてた。
- 何充を召して都督揚・豫・徐州琅邪諸軍事・揚州刺史・録尚書事とし、政務を補佐させた。
- 琅邪内史の桓温を都督青・徐・兗三州諸軍事・徐州刺史とし、褚裒を衛将軍・中書令とした。
- 冬十一月己巳、大赦が行われた。