資治通鑑晉紀十八 顯宗成皇帝 咸康 五年 339年

春正月

  • 辛丑、大赦が行われた。

三月 東晋の南西方面経略

  • 乙丑、広州刺史鄧岳が兵を率いて成漢の寧州を攻めた。成漢の建寧太守孟彦は、自州刺史霍彪を捕えて晋に降った。
  • 征西将軍庾亮は中原回復を目指し、桓宣を都督沔北前鋒諸軍事・司州刺史として襄陽に、弟の庾懌を梁州刺史として魏興に、庾翼を南蛮校尉・南郡太守として江陵に置くよう上表し、いずれも仮節を与えさせた。
  • また豫州を毛宝に与え、樊峻とともに精兵一万で邾城を守らせた。陶称を南中郎将・江夏相として沔中へ入らせた。

陶称の処刑

  • 陶称が二百人を率いて庾亮に謁したが、庾亮はもともと陶侃を怨んでおり、また陶称の軽薄さを嫌って、その前後の罪を数え上げて捕え、斬った。

梁州方面の再編と成漢への攻勢

  • 後に庾亮は、魏興は険遠で統治しにくいとして庾懌を半洲へ移し、代わって陳嚻を梁州刺史として漢中へ向かわせた。
  • 参軍李松は成漢の巴郡・江陽を攻め、夏四月には成漢の荆州刺史李閎と巴郡太守黄植を捕えて建康へ送った。

庾亮の大規模北伐構想と反対論

  • 庾亮は、蜀は弱く胡はなお強いとして、自ら十万の大軍を率いて石城へ移鎮し、江・沔に諸軍を配置して後趙討伐の態勢を取りたいと上奏した。
  • 成帝は群臣に議論させた。王導は賛成したが、郗鑒は兵糧などの準備不足を理由に反対した。
  • 蔡謨はさらに詳しく反対し、石虎は石勒以来の百戦百勝の将であり、金墉・石生・石聡・郭権の平定実績を挙げて、その力量を軽んじてはならないと論じた。
  • また、襄陽一城を守った程度の経験で天下の勝負を測ってはならず、もし中原で決戦すれば石虎は全国の兵を挙げて来るとし、石生・金墉・大江・蘇峻らとの比較から見ても庾亮の計画は危ういと説いた。
  • さらに、沔水上流は水勢が急で舟列が長く延びるため、敵が未布陣のうちに襲えば大敗しかねないとも指摘した。朝議の多くは蔡謨に同意し、庾亮の移鎮は許されなかった。

燕と後趙の小競り合い、段遼の最期

  • 燕では慕容評・慕容軍・慕輿根・慕輿埿が後趙の遼西を襲い、千余家を捕えて帰った。
  • 後趙の石成・呼延晃・張支らが追撃したが、慕容評らがこれを撃ち、呼延晃と張支の首を斬った。
  • 段遼は燕で反乱を企てたため、燕は段遼とその党数十人を殺し、首を後趙へ送った。

五月 代の都城論と燕との婚姻

  • 什翼犍は参合陂で諸大人と会し、灅源川に都を築くことを議した。
  • だが母の王氏は、代はもともと移動を常とする国であり、城郭に固定すれば敵襲の際に逃げ場がないと反対し、この計画は中止された。
  • 代では他国から帰附した民を総称して烏桓と呼んでおり、什翼犍はこれを南北二部に分け、弟の孤と子の寔君に監督させた。
  • また燕に婚姻を求め、慕容皝は妹を什翼犍に嫁がせた。

秋七月 後趙で太子宣の権限拡大

  • 石虎は太子石宣を大単于とし、天子と同格の旌旗を立てさせた。

王導の死

  • 庚申、始興文献公王導が死んだ。葬礼は霍光や司馬孚の旧例にならい、天子礼に近いほどの厚遇で行われた。
  • 王導は簡素で欲が少なく、日々の小利より長期の安定を重んじ、元帝・明帝・成帝の三代を補佐した。倉に多くを蓄えず、衣も重ねて豪奢にしなかった。
  • 生前、王導は何充を自分の後任として内朝に入れるよう勧めていた。そこでその死後、庾亮が丞相・揚州刺史・録尚書事に召されたが、固辞した。
  • 辛酉、何充が護軍将軍となり、庾亮の弟庾冰が中書監・揚州刺史・参録尚書事となった。

庾冰の施政

  • 庾冰は重任に就くと昼夜を問わず政務に励み、賓客として朝賢を礼遇し、後進を抜擢したため、朝野は賢相だと称えた。
  • ただし、王導が寛恕を旨としていたのに対し、庾冰は刑威を多く用いた。殷融がこれを諫めると、庾冰は「前の宰相ですら寛大すぎて支えきれなかった」と答えた。
  • 范汪が天文の変異に対して災いを防ぐ方策を尽くせと言うと、庾冰は「天象は自分の測るところではない。人事を尽くすだけだ」と応じた。
  • また、戸籍に実在しない名目の人員一万余を洗い出して軍に充てたが、後には逆に寛縦に傾き、法令運用が疎密まちまちになったと評された。

八月 丞相を再び司徒に戻す

  • 壬午、丞相の官名を再び司徒に改めた。

郗鑒の死と蔡謨の起用

  • 郗鑒は病が重くなると、所管軍府の事務を長史劉遐に委ね、上疏して致仕を願った。
  • あわせて、配下には北方からの移住民が多く、彼らは故郷へ帰る思いを抱いているため、自分の死をきっかけに不用意な北遷の議が起これば、敵に付け込まれると訴えた。
  • 後任には平易で正しい蔡謨がふさわしいと推し、朝廷は蔡謨を太尉軍司・侍中とし、辛酉に郗鑒が死ぬと、征北将軍・都督徐兗青三州諸軍事・徐州刺史に任じた。

陳光の寿陽攻撃案

  • 左衛将軍陳光が後趙領の寿陽攻撃を願い出たが、蔡謨は強く反対した。
  • 寿陽は小城でも堅く、周囲の城壁も相互に援助しうるうえ、晋軍の進発は事前に露見しやすい。もし城下に長く留まれば、河北の騎兵が駆けつける余地を与えると見た。
  • さらに、白起・韓信・項羽ですら極端な決戦態勢を取ったのに、今回は舟を水辺に置いたまま堅城の前に兵を進めるような形であり、敗走の危険が大きいと論じた。詔はこの意見を容れ、攻撃は取りやめになった。

邾城失陥

  • かつて陶侃は、邾城は江北に孤立し、かえって胡軍侵入の足がかりになるとして守備を置くことに反対していた。
  • しかし庾亮は毛宝・樊峻をそこに置いたため、石虎はこれを憎み、夔安を大都督として石鑒・石閔・李農・張貉・李菟ら五将軍と五万の兵、さらに二万騎を率いさせて荆揚北辺を侵させた。
  • 毛宝は庾亮に救援を求めたが、庾亮は城が堅いとしてすぐには兵を出さなかった。
  • 九月、石閔は沔陰で晋軍を破って蔡懐を殺し、夔安・李農は沔南を攻略した。朱保は白石で晋軍を破って鄭豹らを殺した。張貉は邾城を陥し、六千人が死んだ。毛宝・樊峻は囲みを破って逃げたが、江に落ちて溺死した。
  • 夔安は胡亭に進み、江夏・義陽方面を侵した。黄冲・鄭進は後趙に降った。
  • 夔安と李農は石城を包囲したが、竟陵太守李陽がよく防いでこれを破り、五千余級を斬ったため、夔安は退いた。だが漢東で七千余戸を掠め取り、幽・冀へ移住させた。
  • 庾亮はなお石城移鎮を願う上表をしていたが、邾城陥落を聞いて中止し、自ら三等を貶して安西将軍行を求めた。詔はこれを認めず、元の位に復した。
  • そののち庾懌を豫州刺史として蕪湖に鎮させた。

後趙で御史中丞李拒を重用

  • 石虎は貴戚や豪族の横暴を憂え、殿中御史李拒を御史中丞に抜擢し、特に信任した。中外は粛然とし、石虎は「良臣は猛虎のように歩み、豺狼を避けさせる」と称えた。

後趙の遼西経営と成漢の李寿の病

  • 石虎は李農を使持節・監遼西北平諸軍事・征東将軍・営州牧とし、令支に鎮させた。李農は三万を率いて張挙とともに凡城を攻めた。
  • 燕では大悦綰が凡城を守り、将吏が逃亡を議する中で断固として籠城し、自ら矢石を冒して戦い、十日ほど守り通した。張挙らは落とせず退いた。
  • 石虎は遼西が燕に近すぎて攻撃を受けやすいとして、その民をことごとく冀州南部へ移した。
  • 成漢では李寿が病み、羅恒・解思明が再び晋への帰順を議したが、李寿は従わなかった。李演がさらに上書すると、李寿は怒ってこれを殺した。
  • 李寿は漢武帝や魏明帝を慕い、父兄時代の政治を論じることを嫌った。杜襲が応璩に仮託した詩で諷諫すると、「今人の作なら賢者の言葉だが、古人の作なら死んだ鬼の常套句にすぎない」と答えた。

燕の献捷使と高句麗・宇文への軍事行動

  • 慕容皝は、自ら王を称しながらなお晋の正式任命を受けていないことを気にして、冬に長史劉翔・参軍鞠運を建康へ送り、対後趙勝利を報告し、王号は便宜上の仮称であると説明したうえ、大挙北伐を共にしたいと申し出た。
  • また高句麗の新城方面を攻めると、高句麗王釗は和盟を乞い、慕容皝は帰還した。
  • さらに子の慕容恪・慕容霸を宇文氏の別部攻撃に向かわせた。慕容霸はまだ十三歳であったが、勇気は三軍に冠絶していた。

涼州の動き

  • 張駿は辟雍と明堂を建て、礼制を整えた。
  • 十一月、世子張重華に涼州の政務を代行させた。

十二月

  • 丁丑、後趙の太保桃豹が死んだ。
  • 丙戌、東晋は驃騎将軍琅邪王司馬岳を侍中・司徒に任じた。
  • 成漢の李奕が巴東を侵し、守将の労楊が敗死した。