資治通鑑晉紀十八 顯宗成皇帝 咸康 四年 338年

春正月 後趙の段遼討伐と燕の動き

  • 燕王慕容皝は都尉の趙槃を後趙に送り、出兵の時機を打ち合わせさせた。
  • 後趙の石虎は段遼を討つため、勇士三万人を募って特別の軍号を与えたうえで、桃豹・王華・支雄・姚弋仲らに大軍を率いさせ、海陸から進軍させた。王華は漂榆津から舟師を出し、支雄らは歩騎七万を先鋒とした。

三月 燕が段蘭を破る

  • 趙槃が棘城へ戻ると、慕容皝は自ら兵を率いて令支以北の諸城を攻め、掠奪した。
  • 段遼のもとでは慕容翰が「南の後趙を防ぐのが先だ」と諫めたが、段蘭は聞き入れず燕軍を追撃した。
  • 慕容皝は伏兵を置いて段蘭軍を大破し、多数を討ち取って人民・家畜を奪い、帰還した。

後趙軍の北進と段遼政権の崩壊

  • 石虎は金臺に進み、支雄は薊へ長駆した。段遼が任命していた漁陽・上谷・代の守相らは次々と降伏し、後趙は四十余城を取った。北平相の陽裕だけは民数千家を率いて燕山に拠って持ちこたえた。
  • 段遼は弟の敗北を受けて戦いを避け、妻子・宗族・豪族千余家を連れて令支を捨て、密雲山へ逃れた。出発に際し、慕容翰の手を取って、自分が彼の進言を用いなかったことを悔やんだ。慕容翰は北へ走って宇文氏に身を寄せた。
  • 段遼の側近である劉羣・盧諶・崔悦らは府庫を封じて降伏した。
  • 後趙の郭太・麻秋が軽騎二万で追撃し、密雲山で段遼の母妻を捕え、三千級を斬った。段遼自身は単騎で険地へ逃れ、子の乞特真を遣わして謝表と名馬を献じたので、石虎はこれを受け入れた。
  • 石虎は令支宮に入り、功臣をそれぞれ賞し、段国の民二万余戸を司・雍・兗・豫の四州へ移した。また才行ある士大夫を登用した。
  • 陽裕が軍門に来降すると、石虎はかつての経歴を責めたが、陽裕は王浚にも段氏にも報いることができなかったことを率直に認めたため、石虎は喜んで北平太守に任じた。

四月 東晋の慕容皝任官

  • 東晋は慕容皝を征北大将軍・幽州牧・平州刺史に任じた。

成漢で李寿が李期を廃して帝位に就く

  • 成漢の李期は驕慢で苛酷になり、誅殺と財産没収を重ねたため、大臣たちは不安を強めた。
  • 漢王李寿はもとから声望が高く、李期や建寧王李越らに警戒されていた。李寿は身の危険を感じ、巴西の処士龔壮に策を問うた。龔壮は、成都を取って晋に称藩すれば名声と長久の福が得られると説いた。
  • 李寿は羅恒・解思明らと密かに成都襲撃を図った。李期はこれを疑い、許涪を差し向けて監視し、さらに李寿の養弟李攸を毒殺した。
  • 李寿は偽書を用いて「李期が自分を除こうとしている」と軍中に信じ込ませ、歩騎一万余で涪城から成都を急襲した。世子李勢が内応して城門を開き、成都は陥落した。
  • 李寿は李越・景騫・田褒・姚華・許涪・李遐・李西らを乱政の罪で捕えて殺し、兵に数日間の大掠奪を許した。
  • 李寿は太后任氏の命と偽って李期を邛都県公に落とし、別宮に幽閉した。さらに李班を追諡して哀皇帝とした。
  • 羅恒・解思明・李奕らは、李寿に成都王として晋へ称藩するよう勧めたが、任調や蔡興・李艶らは帝位即位を勧めた。占筮で「数年は天子になれる」と出ると、李寿はついに帝位に就いた。
  • 国号を漢と改め、年号を漢興とした。龔壮を太師に徴したが、龔壮は仕官せず、贈り物も受けなかった。
  • 李寿は父李驤を献皇帝、母昝氏を皇太后に追尊し、妃閻氏を皇后、世子李勢を皇太子とした。旧来の李特・李雄の廟は大成廟と改称し、制度も大きく改めた。
  • 董皎・羅恒・解思明・任調・李奕・李権らを重用し、公卿や州郡の長官を自分の僚佐で置き換えたため、成氏以来の旧臣や近親、六郡の士人は疎外された。
  • 五月、廃された李期は「天下の主が小県公にされたのでは生きる意味がない」と嘆き、自縊して死んだ。李寿は幽公と諡し、王礼で葬った。

後趙、燕を疑う

  • 石虎は、慕容皝が後趙軍と協同せず独自に段氏の利益を奪ったことを怒り、燕を討とうと考えた。
  • だが太史令趙攬は天文を引いて遠征の不利を諫め、石虎の怒りを買って鞭打たれた。
  • 慕容皝はこれを聞くと防備を厳重にし、前年に設けた六卿・納言・常伯・冗騎常侍の官を廃して備戦体制を整えた。

後趙の燕侵攻と棘城攻防

  • 後趙は諸方面に使者を送り、燕の民や夷人を誘って離反を図った。その結果、崔燾・游泓・常霸・封抽・宋晃らが応じ、三十六城が後趙に降った。冀陽では流寓の士が宋燭を殺して降伏し、営丘内史鮮于屈も後趙に降ろうとしたが、武寧令孫興がこれを捕えて殺し、抗戦した。朝鮮令孫泳も王請らの内応を断ち、楽浪太守鞠彭は郷里の壮士を率いて棘城へ帰還した。
  • 戊子、後趙軍が棘城へ迫ると、慕容皝は一時は逃亡を考えたが、慕輿根や劉佩が強く諫めた。劉佩は敢死騎数百を率いて出撃し、一度の戦いで敵を押し返して士気を奮い立たせた。
  • 封奕もまた、石虎は残虐で民心を失っているから、籠城して敵の疲弊を待つべきだと説いた。慕容皝はこれに従い、降伏を勧める声も退けた。
  • 後趙軍は十余日にわたり城に取りついて攻めたが落とせず、壬辰に退却した。慕容皝は子の慕容恪に二千騎を与えて追撃させ、大破して三万余級を斬獲した。
  • 後趙軍では游撃将軍石閔の部隊だけが秩序を保って退いた。石閔は本姓冉で、石勒が父を捕えた後に石虎の養子とした人物で、勇猛と才略で知られていた。

戦後処理と燕の勢力回復

  • 石虎は鄴へ帰ると、劉羣を中書令、盧諶を中書侍郎に任じ、蒲洪には大功として都督六夷諸軍事・冠軍大将軍・西平郡公を授けた。
  • ただし石閔は、蒲洪父子は才も兵力も大きく近畿に近いので密かに除くべきだと進言したが、石虎は当面は呉・蜀攻略に利用するとして退けた。
  • 慕容皝は分兵して離反諸城を平定し、版図を凡城まで広げた。崔燾・常霸は鄴へ逃れ、封抽・宋晃・游泓は高句麗へ逃れた。
  • 皝は鞠彭・慕輿根らを賞した一方、反叛者への処罰は厳しく、多数を誅滅した。功曹劉翔が弁護に努めたため、救われた者も多かった。
  • かつて棘城の敗北を予想して弟李普に避難を勧められた李洪は、慕容氏への恩義を理由に城に残って忠節を尽くした。このことでその名声はいっそう高まった。李普は後趙に降ったが、帰路の混乱で死んだ。

後趙の再度の対燕準備とその他

  • 石虎は曹伏に青州兵を率いさせて海島を守らせ、穀物を大量に送って補給した。また高句麗にも穀物を運ばせ、王典に海辺で屯田させ、さらに青州で千艘の船を造らせて再び燕を討つ準備を進めた。
  • 太子石宣は朔方の鮮卑斛摩頭を討ち、四万余級を斬った。
  • 冀州八郡に大蝗害が起こると、司隷は郡県長官を罪に問おうとしたが、石虎は自らの失政によるものとして拒み、司隷を白衣のまま職務だけ続けさせた。
  • 石虎は一族の涉帰・日帰を長安に駐屯させたが、二人が石広の私恩樹立と不軌を告発したため、石広は鄴へ召し返されて殺された。

東晋の人事と庾亮の対王導計画

  • 乙未、東晋は王導を太傅・都督中外諸軍事、郗鑒を太尉、庾亮を司空とした。
  • 六月には王導を丞相にし、司徒府を廃して丞相府に統合した。
  • 王導は寛厚で、部下の趙胤・賈寧らの違法を十分に取り締まらず、大臣たちはこれを憂えた。
  • 庾亮は郗鑒に書を送り、成帝が幼少以来、宮人や武官に囲まれて君子に接してこなかったこと、王導が無頼の徒を養っていることを挙げ、挙兵して王導を廃そうと図った。
  • 郗鑒はこれに同意せず、陶侃の子陶称がひそかに王導へ知らせた。周囲は備えを勧めたが、王導は庾亮と利害を共にしているとして構えず、むしろ庾亮を大切にすべきだと陶称に書き送った。
  • 孫盛もまた庾亮に、王導は俗事に走る人物ではなく、これは内外を離間しようとする者の策だと諫めたため、庾亮は計画を中止した。

李充の学箴

  • 王導は江夏の李充を丞相掾に用いた。
  • 李充は当時の清談偏重を戒めるため『学箴』を著し、仁義そのものを捨てるのではなく、名目だけを追って本を失う弊害を除くべきだと説いた。

秋七月 成漢内部の不安

  • 広漢太守李乾が、大臣たちの廃立の謀りごとを告発した。
  • 李寿は子の李広に前殿で大臣と盟わせ、李乾を漢嘉太守へ移した。また李恭の子李閎を荆州刺史として巴郡に鎮させた。

八月 成漢で龔壮が封事を上る

  • 蜀では長雨のため、民衆に飢えと疫病が広がった。李寿は群臣に得失を率直に言わせた。
  • 龔壮は密封の上奏で、李寿が起兵当初に天地へ誓って晋に称藩すると約したことを持ち出し、いまこそ建康を奉じるべきだと説いた。皇帝号を捨てても子孫に長い福が残るとし、梁益二州の人々が不利益を被るという反論にも、昔の蜀の事例を挙げて反駁した。
  • また、自分を法正になぞらえる論にも応え、名利を求めて進言しているのではなく、漢でも晋でも仕えない覚悟だと述べた。李寿は内心恥じたが、この上書は公表しなかった。

九月 成漢の粛清

  • 任太后の弟である僕射任顔が反乱を企てて誅された。
  • 李寿はこの機会に、成主李雄の諸子をことごとく殺した。任顔の乱が、外戚と李雄の子孫を結びつける恐れがあると見たためであった。

冬十月 顔含の退隠

  • 光禄勲顔含は老齢を理由に官を辞した。
  • そのころ、王導ほどの地位の者には百官が特別の降礼を取るべきだという議論があったが、顔含は、臣下として君父以外に偏った敬礼をするのは筋に合わないと退けた。
  • のちに顔含は、こうした問いを自分に向けること自体が誤りであり、占筮に頼るよりも性命と守道を尽くすべきだと語った。退職後二十余年を経て、九十三歳で死んだ。

代で什翼犍が立つ

  • 代王拓跋翳槐の弟什翼犍は後趙に人質としていたが、翳槐は病床で諸大人に彼を立てるよう命じた。
  • 翳槐が死ぬと、諸大人は当面の混乱を恐れ、ひとまず翳槐の弟たちを検討したが、屈は剛猛で狡猾として退けられ、さらに殺された。仁厚な弟の孤が推されたが、自ら位に就かず、鄴へ赴いて什翼犍を迎え、自身は人質に残ることを願い出た。
  • 石虎はその義を認め、二人とも帰国を許した。
  • 十一月、什翼犍は繁畤北で代王に即位し、建国と改元した。国の半分を孤に分け与えた。
  • 代は猗盧没後に内紛で衰えていたが、什翼犍は勇略に富み、祖業を再建して国人の帰服を得た。燕鳳を長史、許謙を郎中令とし、百官を整え、反逆・殺人・姦盗の法を明確にして政治を簡潔にした。百姓はこれを安んじ、東は濊貊、西は破落那、南は陰山、北は沙漠に至るまで多くが服属した。

十二月 段遼をめぐる燕・後趙の争奪

  • 段遼は密雲山からまず後趙に迎えを求めたが、すぐ考え直して燕にも使者を送った。
  • 石虎は麻秋に三万を与えて迎えに行かせ、降伏者にも敵と同様に慎重に当たれと命じた。段遼の旧臣陽裕も司馬として同行させた。
  • 慕容皝もまた自ら出兵し、密かに段遼と結んで後趙軍を襲わせた。慕容恪は密雲山に精兵七千を伏せ、三蔵口で麻秋を大破した。死者は六、七割に及び、麻秋は徒歩で辛うじて逃れた。
  • 陽裕は燕に捕えられた。
  • 後趙の鮮于亮は馬を失って山中で立ち止まり、捕兵に囲まれても屈せず、威厳ある言動で燕兵をひるませた。慕容皝は彼を見て喜び、左常侍に任じ、崔毖の娘を娶らせた。
  • 慕容皝は段遼の配下をほぼ手に入れ、段遼自身も上客として遇した。陽裕は郎中令に任じられた。
  • 石虎は麻秋の敗北を怒り、官爵を削った。