春 成漢の南中平定と後趙との国交拒絶
- 春正月、成の大将軍李寿は朱提を陥し、董炳・霍彪はともに降伏した。李寿の威勢は南中を震わせた。
- 丙子、後趙の主・石勒は使者を送って晋との修好を求めたが、晋朝はその贈物を焼き捨てた。
- 三月、寧州刺史尹奉も成に降り、成はついに南中の地を完全に領有した。大赦を行い、李寿に寧州を領させた。
慕容廆の死と慕容皝の継承
- 夏五月甲寅、遼東の慕容廆が死去した。
- 六月、世子の慕容皝は平北将軍として平州刺史の職務を行い、領内を統轄した。囚人を赦し、裴開を軍諮祭酒、高詡を玄菟太守とした。
- 慕容皝は帯方太守王誕を左長史にしようとしたが、王誕は遼東太守陽騖の才能を推して譲った。皝はこれを受け入れて陽騖を左長史、王誕を右長史とした。
- こうした推賢譲能の振る舞いは、国が興るしるしとして受け取られた。
石勒の病と石虎の専横
- 石勒が病に伏すと、中山王石虎は禁中に入り、詔を偽って群臣や親族の出入りを禁じ、病状の変化を外に知らせなかった。
- さらに偽詔で秦王石宏・彭城王石堪を襄国へ呼び戻した。石勒は病がやや癒えると石宏を見て驚き、自分は非常時に備えて藩鎮に置いたのに、誰が呼んだのかと問いただし、呼び寄せた者があれば誅すべきだと言った。
- 石虎はごまかして切り抜けたが、密かに子の石邃に三千騎を率いさせ、広阿の蝗害地へ出て、いざという時の外援となるよう備えた。
七月 石勒の死と石虎の実権掌握
- 秋七月、石勒は危篤となり、太子石弘とその兄弟は互いに善く保ち合え、司馬氏の兄弟相残が前車の覆轍だと遺言した。また石虎には、周公・霍光のように幼主を補佐し、後世に悪評を残すなと戒めた。
- 戊辰、石勒は死去した。石虎は太子石弘を脅して臨軒させ、程遐と徐光を捕えて廷尉に下し、さらに石邃を召して宿衛に兵を入れさせたので、文武百官は逃散した。
- 石弘はおびえ、自分は非才だから石虎に位を譲りたいと願ったが、石虎は太子即位が礼の常だとして、石弘を即位させた。
- そののち大赦を行ったが、程遐と徐光は殺された。
- 石勒の遺体は夜のうちにひそかに山谷へ埋められ、場所は知られなかった。己卯、表向きには高平陵へ正式の葬儀をした。
- 諡は明帝、廟号は高祖とされた。
後趙の政変余波
- 後趙の将石聡と譙郡太守彭彪は、それぞれ使者を送って晋に降ろうとした。朝廷は督護喬球に兵を率いさせて救援させたが、到着前に石聡らは石虎に殺された。
- 慕容皝も長史の王済らを派遣して慕容廆の喪を告げた。
- 八月、趙王石弘は石虎を丞相・魏王・大単于とし、九錫を加え、魏郡など十三郡をその国とし、万機を総覧させた。
- 石虎はその領内で赦令を出し、妻鄭氏を魏王后、子石邃を魏太子とした。石宣・石韜・石遵・石鑑・石苞らにも大将軍や王号を与え、石斌は章武王に移封した。
- 石勒の旧臣は閑職に回され、石虎の府僚と親族が中央の要職を占めた。秦王宮は崇訓宮と改名され、劉太后らもそこへ移され、宮中の美女・車馬・器玩も石虎の丞相府へ送られた。
宇文部・南中の動き
- 宇文乞得は国へ帰ったが、東部大人の逸豆帰に追われて外地で死んだ。
- 慕容皝は兵を率いて逸豆帰を討ち、広安に軍を進めた。逸豆帰は恐れて和を請い、慕容皝は榆陰・安晋の二城を築いて帰還した。
- 成では建寧・牂柯二郡が帰服したが、李寿が再び攻めてこれを回復した。
九月 劉太后・石堪の反石虎計画
- 趙の劉太后は彭城王石堪に対し、先帝の死後まもなく石虎がこのように専横している以上、趙の帝業は長くないだろう、どうすべきかと問うた。
- 石堪は、旧臣は疎外され、兵権は石虎の子らに握られ、宮中にも与する者がいないので、自分が兗州へ走って南陽王石恢を盟主に擁し、太后の詔を牧守・征鎮に伝えて挙兵させ、暴逆を誅するしかないと答えた。
- 劉太后は急ぐよう求めたが、石堪は微服で兗州を襲って失敗し、譙城へ南奔した。石虎の将郭太に城父で捕えられ、襄国へ送られて焼き殺された。
- 石虎は石恢を襄国へ呼び戻し、劉太后も計画発覚によって廃して殺し、石弘の母程氏を皇太后に立てた。
冬十月 石生・石朗の挙兵と石虎の関中経略
- 河東王石生は関中に、石朗は洛陽にあって、ともに石虎討伐の兵を挙げた。石生は秦州刺史を自称し、晋にも使者を送って降伏を願った。
- 氐の帥蒲洪も雍州刺史を自称し、西では張駿に属した。
- 石虎は石邃を襄国に残し、自ら歩騎七万を率いて金墉の石朗を攻め、城を破って石朗を捕え、足を切って斬った。
- ついで長安へ向かうと、石生は郭権に鮮卑の渉璝ら二万を率いさせて潼関で迎撃させた。梁王石挺は大敗し、劉隗も戦死した。
- 石虎は澠池まで退き、戦場には三百里余りにわたって屍が折り重なった。
- しかし鮮卑が密かに石虎と通じて石生を裏切ったため、石生は長安へ単騎で逃げ、郭権は残兵を集めて渭水のほとりに退いた。石生は長安を捨てて鶏頭山に隠れた。
- 長安を守った蔣英も石虎に殺され、石生は部下に斬られて降伏し、郭権は隴右へ逃れた。石虎は諸将を汧・隴に配置した。
蒲洪・姚弋仲の取り込み
- 石虎は麻秋を派遣して蒲洪を討たせたが、蒲洪は二万戸を率いて降伏した。石虎は彼を光烈将軍・護氐校尉に任じた。
- 蒲洪は長安に着くと、関中の豪傑や氐・羌を東方へ移して根拠地を空にし、自分が家の部曲として統率して従わせるべきだと勧めた。
- 石虎はこれを採用し、秦・雍の民と氐羌十余万戸を関東へ移住させた。蒲洪には龍驤将軍・流民都督を授け、枋頭に住まわせた。
- また羌の帥姚弋仲には奮武将軍・西羌大都督を授け、その数万の衆を清河の灄頭へ移住させた。
- 石虎は襄国に還り、大赦を行った。石弘は石虎のために魏台を建て、曹操が漢を補佐したときと同様の体制を整えようとした。
慕容皝の継承不安と慕容仁の挙兵
- 慕容皝は即位当初、法を厳しくしたため、国人は不安を覚えた。主簿皇甫真が強く諫めたが、皝は従わなかった。
- 庶兄の慕容翰、同母弟の慕容仁、末弟の慕容昭はいずれも才能・武略があり、先主慕容廆に愛されていたため、慕容皝は彼らを忌んだ。
- 慕容翰は、戦功があることでかえって才を疑われ禍を待つだけになると悟り、子とともに段氏へ亡命した。段遼はその才を以前から聞いており、厚遇した。
- 慕容仁は平郭から喪に赴く途中で慕容昭と相談し、昭は自分が内応するから慕容仁は兵を挙げよ、失敗したら死ぬまでだと促した。
- 閏月、慕容仁は挙兵して西へ進んだ。最初、皝はその真偽を疑ったが、兵が黄水に至ったことで事実を知った。慕容仁は発覚を悟って使者を殺し、平郭に拠った。
- 慕容皝は昭に死を賜り、封奕を遼東へ慰撫に向かわせ、高詡・慕容幼・慕容稚・慕容軍・佟寿らに討伐軍を率いさせたが、汶城北の戦いで大敗し、慕容幼・慕容軍は捕えられ、佟寿は仁に降った。
- 孫機らは遼東城を挙げて仁に応じ、封奕は入城できず、封抽・乙逸・韓矯らも逃れ、慕容仁はついに遼東一帯を掌握した。段遼や鮮卑諸部も遥かにこれを支援した。
- 慕容皝はここでようやく皇甫真の忠言を思い出し、彼を平州別駕に取り立てた。
張駿の通晋と張淳の使節
- 十二月、郭権は上邽に拠って晋へ降ると申し出て、京兆・新平・扶風・馮翊・北地も呼応した。
- 以前、張駿は成に道を借りて建康へ表を通そうとしたが、成の主李雄は許さなかった。そこで張駿は治中従事張淳を成へ送り、藩属を称して通行を求めた。
- 李雄は表向きこれを許したが、密かに東峡で盗賊に襲わせて殺そうとした。蜀人の橋贊がひそかに張淳へ知らせた。
- 張淳は李雄に対し、自分を殺すなら都市で斬って「涼州は旧恩を忘れず琅邪へ通使した」と天下に示すべきで、江中で盗殺しても威刑も義声も立たないと堂々と言い放った。
- 李雄は驚き、そんなつもりはないと弁明した。景騫が張淳を留めようとしたが、張淳は、皇室が流離し梓宮も帰らぬ今、重要な使命を下吏に任せることはできず、炎熱も苦としないと答えた。
- 李雄が、張駿ほどの英主ならなぜ自ら帝を称して一方に楽しまずにいるのかと問うと、張淳は、代々忠貞を守り、国恥が雪がれない以上、楽しむどころではないと述べた。
- 李雄は恥じ入り、自分の祖先ももとは晋臣であり、もし琅邪王が中国で晋を中興できるなら自分も兵を率いて助けたいと語り、厚遇して張淳を送り出した。張淳はついに建康で使命を果たした。
耿訪・賈陵の涼州連絡
- 長安が陥落した際、敦煌の上計吏耿訪は漢中経由で江東へ入り、たびたび朝廷に上書して涼州慰撫の使者派遣を請うた。
- 朝廷は耿訪を守持書御史とし、張駿を鎮西大将軍に任じる詔書を持たせた。隴西の賈陵ら十二人を同行させたが、梁州で道が通じなかったため、耿訪は詔書を賈陵に託し、賈客を装わせて涼州へ向かわせた。
- この年、賈陵はようやく涼州に到着し、張駿は部曲督王豊らを派遣して謝恩した。