資治通鑑晉紀十六 顯宗成皇帝 咸和 四年 329年
春正月:苑城の帰順と宮中の惨事
- 春正月、陸曄と弟の陸玩は匡術を説得し、苑城を西軍に帰順させた。百官はみなそこへ赴き、陸曄が宮城軍事を統督することになった。陶侃は毛宝に南城、鄧岳に西城を守らせた。
- 劉超・鍾雅は建康令管斾らとともに、帝をひそかに宮外へ出して西軍へ迎えようと謀ったが、計画が漏れた。蘇逸は任讓を遣わして宮中へ入り、劉超・鍾雅を捕えた。成帝は二人を抱えて泣き、返してくれと求めたが、任讓は引き離して殺した。
- 任讓は若いころ品行が悪く、華恒が郷里の人事でこれを低く評価していたため怨みを持っていた。蘇逸は華恒も殺そうとしたが、任讓が力を尽くして守ったため、華恒だけは助かった。
祖約の最期
- 冠軍将軍趙胤は部将甘苗を派して歴陽の祖約を攻めた。
- 戊辰、祖約は夜に側近数百を率いて後趙へ逃亡した。将の牽騰は部衆を率いて降伏した。
石頭総攻撃
- 蘇逸・蘇碩・韓晃は力を合わせて台城を攻め、太極東堂と秘閣に火を放った。
- 毛宝は城上から射て数十人を殺した。韓晃が、勇名あるのになぜ出て戦わぬのかと挑発すると、毛宝は、そちらこそ名将ならなぜ城内へ攻め入らぬのかと返し、韓晃は笑って退いた。
関中の混乱
- 前趙太子劉熙は、父劉曜が捕えられたと聞いて大いに恐れ、南陽王劉胤と相談して西の秦州へ退こうとした。
- 尚書胡勲は、まだ国土は保たれ将士も離反していないのだから、まず抗戦すべきで、逃げるのはその後でも遅くないと諫めたが、劉胤は士気をくじくとして胡勲を斬った。
- こうして劉熙・劉胤は百官を率いて上邽へ逃れ、諸征鎮もまた任地を捨てて従ったため、関中は大いに乱れた。
- 蒋英・辛恕は数十万を擁して長安を保ち、後趙に降り、石生が洛陽の軍を率いてこれに向かった。
二月:石頭陥落と成帝の帰還
- 二月丙戌、諸軍は石頭を総攻撃した。滕含が蘇逸を破り、蘇碩は精鋭数百を率いて秦淮を渡って戦ったが、温嶠がこれを斬った。
- 韓晃らは恐れて張健のもとへ合流しようとしたが、曲阿門は狭く、互いに踏みつけ合って死者が万を数えた。
- 西軍は蘇逸を捕え、これを斬った。滕含配下の曹拠が成帝を抱えて温嶠の船へ移し、群臣は帝に拝伏して泣き、罪を請うた。
- 西陽王羕、その二子播・充、孫の崧、および彭城王雄が殺された。いずれも蘇峻に協力した者たちであった。
- 任讓については陶侃が旧交を理由に助命を願ったが、帝は劉超・鍾雅を殺した者であり赦せないとして処刑した。
- 王導が石頭に入って、かつての節を取って来るよう命じると、陶侃は蘇武の節とは違うようだと笑い、王導は顔を赤らめた。
- 丁亥、大赦が行われた。
張健の敗走と蘇峻の乱の終結
- 張健は弘徽らが自分を裏切るのではないかと疑い、皆殺しにしたうえで、水軍を率いて延陵から呉興へ入ろうとした。
- 乙未、揚烈将軍王允之がこれを破り、男女一万余を捕えた。
- 張健は韓晃・馬雄らとともに西へ故鄣へ逃れたが、郗鑒の参軍李閎が平陵山で追いつき、ことごとく斬った。
- これにより蘇峻の乱はほぼ完全に平定された。
遷都論争
- 戦火で宮闕は灰燼となり、建平園を仮宮とした。
- 温嶠は豫章への遷都を望み、三呉の豪族たちは会稽への遷都を請い、議論は紛糾した。
- 司徒王導は、孫権も劉備も建康を帝王の宅地と見たのであり、帝王の都は豊かさ貧しさで軽々に移すべきでない、本を務めて倹約すればよく、農事を修めねば楽土も荒墟になるだけだと論じた。さらに、北の敵が隙を狙う中で南方へ逃げ込めば見かけも実質もともに失うとして、都を鎮めて人心を安んずるべきだと主張した。
- これが採用され、遷都は取りやめとなった。
禇翜の京城再建
- 禇翜が丹陽尹となった。戦乱直後で人民も財物も疲弊していたが、禇翜は離散した人々を集めて京邑の再建に努め、都はしだいに安定した。
湘州の廃合と論功行賞
- 壬寅、湘州は荊州に併合された。
- 三月壬子、蘇峻平定の功を論じ、陶侃は侍中・太尉・長沙郡公となり、交州・広州・寧州諸軍事の都督を加えられた。郗鑒は侍中・司空・南昌県公、温嶠は驃騎将軍・開府儀同三司・散騎常侍・始安郡公となった。
- 陸曄は江陵公に進み、そのほか侯・伯・子・男の爵を賜る者が多かった。
- 卞壼父子、桓彛、劉超、鍾雅、羊曼、陶瞻らには追贈と諡号が与えられた。
- 路永・匡術・賈寧も蘇峻に離反して帰順したため、王導は賞を与えようとしたが、温嶠は、彼らはもともと反乱の中核であり、たとえ後に改心しても前罪を贖えぬ、首を保てたことだけでも幸いだと論じ、王導は取りやめた。
陶侃・温嶠・庾亮の処遇
- 陶侃は江陵が建康から遠く偏しているとして、鎮所を巴陵へ移した。
- 朝議では温嶠を都に留めて政務を補佐させようとしたが、温嶠は王導こそ先帝の任じた宰相だとして固辞し、武昌へ帰った。その際、荒廃した都に資財や器用を残してから去った。
- 成帝が石頭から出た際、庾亮は帝を前にして地に額づき、涙をのみ込んだ。帝は大臣とともに御座へ上るよう命じたが、翌日庾亮は再び泥首して罪を謝し、官を辞して隠棲したいと願った。
- 帝は手詔で慰諭し、これは国家の難であって舅の責任だけではないとした。
- それでも庾亮は、自分が祖約・蘇峻の凶逆を招いたものであり、八つ裂きでもなお足りぬ罪だと上疏して、棄て置かれることで天下に戒めを示したいと述べたが、許されなかった。
- 庾亮はさらに海辺へ逃れようとして暨陽から東へ出ようとしたが、有司が舟を押収したため果たせず、外鎮を願って、都督豫州・揚州江西・宣城諸軍事、豫州刺史・宣城内史として蕪湖に鎮した。
卞敦をめぐる議論
- 蘇峻討伐の際、湘州刺史卞敦は兵を擁して参戦せず、軍糧も十分には供給せず、数百の督護を大軍に添えたのみで、朝野はこれを怪しみ嘆いた。
- 平定後、陶侃は卞敦が軍を沮喪させ国難を傍観したとして、檻車で召して廷尉に付すよう求めた。
- 王導は喪乱後の寛宥を優先し、卞敦を安南将軍・広州刺史へ転じ、病により赴任しないまま光禄大夫・少府を領させた。卞敦は憂愧のうちに死に、なお本官追贈・散騎常侍加贈・諡号まで与えられた。
夏四月:温嶠の死
- 夏四月乙未、始安忠武公温嶠が死去し、豫章に葬られた。
- 朝廷は元帝・明帝陵の北に大きな墓を造ろうとしたが、陶侃は、温嶠がもし知るならこのような労費を喜ばないはずだとしてやめさせ、詔もこれに従った。
- 平南軍司の劉胤が江州刺史に任じられたが、陶侃・郗鑒はいずれも、劉胤は一州を任せる器ではないと反対した。それでも王導はこれを押し切った。
- ある者が王導の子王悦に、江州は流民が多く、国の南方防衛の要であるのに、劉胤は奢侈に流れた性格だから必ず内外に患いを生むと告げると、王悦はこれは温嶠の遺志だと答えた。
秋八月〜九月:前趙滅亡
- 秋八月、前趙の南陽王劉胤が数万を率いて上邽から長安へ向かうと、隴東・武都・安定・新平・北地・扶風・始平などの戎・漢の諸郡がこれに応じた。
- 劉胤は仲橋に軍を置き、石生は長安に籠もった。後趙の石虎は騎兵二万で救援し、九月、義渠で前趙軍を大破した。劉胤は上邽へ逃げ、石虎は勝ちに乗じて千里にわたり屍を積ませた。
- 上邽は陥ち、石虎は前趙太子劉熙、南陽王劉胤、王公卿校以下三千余人を捕えて皆殺しにした。これにより劉淵から三世二十七年続いた前趙は滅亡した。
- 後趙は前趙の台省・文武官人、関東流民、秦・雍の豪族九千余人を襄国へ移し、また五郡の屠各五千余人を洛陽で坑殺した。
- さらに河西の集木且羌を破り、秦・隴はことごとく平定された。
- 氐王蒲洪、羌酋姚弋仲は石虎に降り、それぞれ六夷軍事の監督・左都督に任じられ、氐羌十五万落が司州・冀州へ移された。
西北の諸部と江州の不安
- 隴西鮮卑の乞伏氏は、述延以来勢力を広げていたが、前趙滅亡後に麦田へ移り、その後継承が続いた。
- 江州刺史劉胤はますます奢り、商売で財を殖やして百万円に達し、酒色にふけって政務を顧みなかった。
冬十二月:郭黙の乱
- 冬十二月、詔により後将軍郭黙が右軍将軍に徴された。郭黙は辺将であることを好み、宿衛は望まず、その気持ちを劉胤に訴えたが、劉胤は自分の関与することではないとして相手にしなかった。
- 郭黙が上京の資金援助を求めても、劉胤は与えなかったため、郭黙は怨みを深めた。劉胤の長史張満らも日ごろ郭黙を侮っており、郭黙はこれに歯ぎしりしていた。
- 臘日、劉胤が豚酒を贈ると、郭黙は使者の前でそれを水に投げ捨てた。
- そのころ有司が、朝廷財政が窮乏しているのに江州の運漕を私的商売で妨げているとして、劉胤の罷免を奏上した。文書が下っても劉胤はすぐには罪を認めず、自弁しようとした。
- さらに、僑人の蓋肫が略奪した女を妻としていた件で、張満が返還を命じたところ、蓋肫は従わず、郭黙に対して、劉胤は免官命令を受け入れず反乱の相談をしており、ただ郭侯だけを恐れているから先に除こうとしていると吹き込んだ。
- 郭黙はこれを信じ、夜明けに門が開くのを待って配下を率いて襲撃した。将吏が防ごうとすると、自分は詔を奉じて討伐に来たのだと怒鳴り、動けば三族を滅ぼすと脅した。
- そのまま内寝へ入り、劉胤を引きずり出して斬り、張満ら僚佐にも大逆の罪を着せて皆殺しにした。
- 郭黙は劉胤の首を京師へ送り、偽詔を作って内外に示し、女や妾、金宝を奪って船に積んだ。いったん下都を称したが、結局は劉胤の旧府に留まり、譙国内史桓宣を誘った。しかし桓宣は固く守って応じなかった。
周辺諸国の動き
- この年、賀蘭部などが拓跋翳槐を代王に立て、前代王紇那は宇文部へ逃れた。翳槐は弟の什翼犍を後趙へ人質に出して講和を求めた。
- 河南王吐延は勇猛であったが猜疑心が強く、羌酋姜聡に刺された。吐延は剣を抜かぬまま将に子を託し、白蘭へ保たせて死んだ。
- その子葉延は孝にして学を好み、祖父の字を氏とする礼に則って、自国を吐谷渾と号した。