資治通鑑晉紀八 孝懷皇帝上 永嘉 二年 308年

春正月〜二月 日食・劉淵の大攻勢・清河王覃の死

  • 丙午朔、日食があった。
  • 丁未、大赦した。
  • 漢王劉淵は撫軍将軍劉聡ら十将を南へ太行に出し、石勒ら十将を東の趙・魏へ下した。
  • 二月辛卯、太傅越は清河王覃を殺した。
  • 庚子、石勒が常山を侵したが、王浚がこれを撃破した。

張軌病と涼州内乱

  • 涼州刺史張軌は中風で言葉が不自由になり、子の張茂に州事を代行させた。
  • 隴西内史張越は涼州の豪族で、兄の酒泉太守張鎮、西平太守曹祛とともに張軌を追い落として代わろうとし、長安の南陽王模へ使者を送って、張軌は病廃しているから秦州刺史賈龕を代任にと願い出た。
  • 賈龕は一度は受けようとしたが、兄に諫められて思いとどまった。
  • 張鎮らはなお上疏し、返答を待たずに檄文を回して張軌を廃し、軍司杜耽に州事を摂らせ、張越を刺史に推した。
  • 張軌は宜陽に引退しようとしたが、長史王融と参軍孟暢が檄文を踏み折って閤に押し入り、今こそ西夏を鎮撫する明公が去るべきではないと叱咤した。
  • ちょうど長子張寔が京師から帰ってきたため、中督護として兵を授けて張鎮討伐に向かわせた。
  • 張鎮の甥である令狐亜がまず説得に赴くと、張鎮は涙を流して「人に誤られた」と言い、張寔に罪を謝した。
  • 張寔は南へ向かって曹祛を撃ち、これを敗走させた。
  • 朝廷は張鎮・曹祛らの上疏を受け、袁瑜を涼州刺史としたが、治中楊澹が長安へ急行して自ら耳を切り、張軌が誣告された無実を訴えた。武威太守張琠も張軌留任を上表した。
  • 南陽王模もこれに同調したため、朝廷は袁瑜の派遣を止め、曹祛誅殺を命じた。張軌は張寔に歩騎三万を与えて曹祛を討たせ、これを斬った。張越は鄴へ逃れ、涼州は平定された。

三月〜五月 王彌の再興と洛陽襲撃

  • 三月、太傅越は許昌から鄄城へ移った。
  • 王彌は離散していた兵を再集結させ、再び大いに勢いづき、青・徐・兗・豫の四州へ将を分けて攻掠し、郡県を落として守令を多く殺した。兵は数万となり、茍晞も連戦したが抑えきれなかった。
  • 四月丁亥、王彌は許昌に入り、越は司馬王斌に甲士五千を率いさせて京師を守らせた。張軌も督護北宮純を派遣して京師防衛を助けた。
  • 五月、王彌は轘轅道から入り、伊水北で官軍を破り、京師は震え上がって宮城の門が昼でも閉ざされた。
  • 壬戌、王彌は洛陽に到着して津陽門に屯した。朝廷は王衍を都督征討諸軍事とした。
  • 北宮純は百余の勇士を募って敵陣に突入し、王彌軍を大破した。乙丑、王彌は建春門を焼いて東へ退き、王衍は左衛将軍王秉に追撃させ、七里澗でもこれを破った。
  • 王彌は黄河を渡って王桑と合流し、軹関を経て平陽へ向かった。
  • 劉淵は侍中兼御史大夫を郊外まで迎えにやり、自ら館へ赴いて王彌を厚遇し、司隷校尉・侍中・特進とし、王桑を散騎侍郎とした。
  • 北宮純らは河東で漢の劉聡とも戦い、これを破った。
  • 張軌には西平郡公が贈られたが、固辞して受けなかった。各地の州郡が使者も貢献も絶つ中、張軌だけは年ごとの貢献をやめなかった。

七月〜九月 漢の遷都・石勒の侵攻

  • 七月甲辰、劉淵は平陽を攻め、平陽太守宋抽は郡を棄てて逃げ、河東太守路述は戦死した。
  • 劉淵は都を蒲子へ移した。
  • 上郡の鮮卑陸逐延と氐の酋長単徴も漢に降った。
  • 八月丁亥、太傅越は鄄城から濮陽へ、まもなくさらに滎陽へと移った。
  • 九月、漢の王彌・石勒が鄴を侵し、和郁は城を捨てて逃げた。
  • 朝廷は豫州刺史裴憲を白馬に、車騎将軍王堪を東燕に、平北将軍曹武を大陽にそれぞれ配置し、王彌・石勒・蒲子方面に備えさせた。

十月〜十一月 劉淵の即位と石勒の席巻

  • 十月甲戌、劉淵は皇帝を称し、大赦して永鳳と改元した。
  • 子の劉和を大将軍・梁王、劉聡を車騎大将軍、族子劉曜を龍驤大将軍とした。
  • 十一月壬寅、并州刺史劉琨は上党太守劉惇に鮮卑兵を率いさせ、壺関を攻めさせた。漢の鎮東将軍綦母達は敗れて逃げ帰った。
  • 丙午、漢の都督中外諸軍事・領丞相・右賢王宣が死んだ。
  • 石勒・劉霊は三万を率い、魏郡・汲郡・頓丘を侵した。風聞だけで帰附する砦が五十余に及び、それぞれの砦主に将軍・都尉の印綬を与えた。
  • そのうえで壮丁五万を選んで兵とし、老弱はそのまま居住させた。
  • 己酉、石勒は魏郡太守王粹を三台で捕え、殺した。

十二月 漢の封建と成漢・梁州・荊州の動き

  • 辛未朔、大赦があった。
  • 乙亥、漢主劉淵は大将軍劉和を大司馬・梁王、尚書令歓楽を大司徒・陳留王、后の父の御史大夫呼延翼を大司空・雁門郡公とした。宗室は親疎に応じて郡王・県王に、異姓功臣は郡公・県侯に封じられた。
  • 成の尚書令楊褒が死んだ。楊褒は直言を好み、李雄が財物を献じた者に官を売ろうとした時には、官爵は天下の英豪を網羅するためのもので金で買うものではないと諫め、李雄に謝らせた。
  • また李雄が酔って中書令を押し、太官令を杖で打ったときには、天子が酗酒で乱暴を働くことなどあるものかと諫め、李雄は恥じてやめた。
  • 成の平寇将軍李鳳は晋寿に屯してたびたび漢中を侵し、漢中の民は荊州・沔水方面へ逃れた。
  • 朝廷は張光を梁州刺史とした。
  • 荊州では寇盗を抑えられなかったため、詔で劉璠を起用して順陽内史とした。江漢の人々はその父劉宏の徳を慕って、一斉にこれに帰服した。