資治通鑑晉紀八 孝懷皇帝上 永嘉 元年 307年

春正月 改元と周穆事件

  • 癸丑、大赦して永嘉と改元した。
  • 吏部郎周穆は太傅越の姑の子で、妹婿の御史中丞諸葛玫とともに、今の皇帝が皇太弟となったのは張方の意向によるもので、本来は清河王こそ旧太子であるから立てるべきだと越に進言した。
  • 越は許さず、なおもしつこく言い募ると、怒って周穆らを斬った。

二月 王彌の侵攻

  • 王彌は青州・徐州へ侵入し、征東大将軍を自称して郡守・太守級の長官を殺した。
  • 太傅越は東萊の鞠羡を本郡太守として討たせたが、王彌はこれを撃ち殺した。

江東での陳敏討滅

  • 陳敏の刑政は乱れ、子弟も凶暴で、英俊たちは心服していなかった。顧栄・周玘らも将来を憂えていた。
  • 廬江内史華譚は、陳敏は朝露のように危うい賊であり、呉の孫氏の事業を継げる器ではないのに、名士がその朝に辱められているのは恥だと、顧栄らへ書を送った。
  • 顧栄らはこれに深く恥じ、ひそかに征東大将軍劉準へ使者を送り、江を臨んで出兵してくれれば内応すると伝え、髪を切って誓信とした。
  • 劉準は揚州刺史劉機らを歴陽へ出兵させた。陳敏は弟の陳昶を烏江に、歴陽太守宏を牛渚に置いた。
  • 周玘は陳昶の司馬銭広を説得してこれを殺させ、州都ではすでに陳敏を誅したと触れ回らせた。
  • 顧栄・周玘・甘卓・紀瞻らは朱雀橋南で兵を集め、陳敏に反旗を翻した。甘卓は病を装って娘を迎えると称し、橋を断ち船を南岸へ収めて拠った。
  • 顧栄は甘卓に、もし事が成らねば逆賊として首を箱に入れられて洛陽へ送られる辱めを受けると言って決起を促した。
  • 陳敏は自ら一万余を率いて討ちに出たが、軍中に「我らが陳公に力を尽くしたのは顧丹陽・周安豊がいたからだ。今や彼らも反した」と呼びかけられ、兵は疑って散った。
  • 顧栄が白羽扇を振ると、陳敏軍は完全に潰走した。陳敏は単騎で北へ逃げたが江乗で捕えられ、建業で斬られて三族誅滅となった。
  • これにより会稽など諸郡でも陳敏の弟たちが皆殺された。
  • この頃、平東将軍周馥が劉準に代わって寿春に鎮した。
  • 三月己未朔、周馥は陳敏の首を京師へ送った。詔で顧栄は侍中、紀瞻は尚書郎となり、周玘は太傅越の参軍となった。陸玩も掾に任じられた。
  • ただし顧栄らは徐州まで来て北方の乱の深刻さを知ると進まず、越が軍礼をもって発遣せよと命じたため、恐れて江東へ逃げ帰った。

三月 西陽夷と朱伺

  • 西陽の夷が江夏を侵した。太守楊珉が諸将に方策を問うと、皆が口先で策を競う中、騎督朱伺だけは何も言わなかった。
  • 理由を問われると、「他の人々は舌で賊を討つが、自分は力で討つだけだ」と答えた。
  • さらに常勝の理由を問われると、「両軍が向き合えば、ただ耐えることだ。敵は耐えられず、自分は耐えられる。だから勝つ」と答えた。楊珉はその言を高く評価した。

三月 楊太后追復・皇太子冊立

  • 朝廷は楊太后の尊号を回復し、丁卯に改葬して武悼の諡を贈った。
  • 庚午、清河王覃の弟である豫章王詮を皇太子に立てた。
  • 辛未、大赦した。

懐帝と太傅越の不和

  • 懐帝は大政に心を留めて諸務を見ようとしたが、太傅越はこれを快く思わず、しきりに外鎮を願った。
  • 庚辰、越は許昌へ出鎮した。
  • 高密王略は征南大将軍・都督荊州諸軍事として襄陽へ、南陽王模は征西大将軍・都督秦雍梁益諸軍事として長安へ、新蔡王騰は都督司冀二州諸軍事として鄴へと、それぞれ任じられた。

汲桑・石勒の再起

  • 公師藩が死んだ後、汲桑は苑中へ逃げ帰り、再び衆を集めて郡県を掠め、大将軍を称し、成都王穎の仇討ちを名目とした。
  • 石勒を前駆とし、攻める先でことごとく勝利したため、石勒を討虜将軍とした。
  • 鄴を攻めた時、城中の府庫は尽きていたが、新蔡王騰は蓄えを持ちながら極めて吝嗇で、兵には米数升、布一丈ほどしか与えなかったため、人心を失った。
  • 夏五月、汲桑は魏郡太守馮嵩を大破し、そのまま鄴に突入した。騰は軽騎で逃げたが、汲桑の将李豊に殺された。
  • 汲桑は成都王穎の棺を車に載せ、ことごとにその前で報告してから行動したうえ、鄴宮を焼き払った。火は十日余り消えず、士民一万余が殺され、大掠奪ののち去った。

梁州・漢中の戦い

  • 秦州からの流民の鄧定・訇氐らは成固を拠点にして漢中を掠めた。梁州刺史張殷は巴西太守張燕を派遣した。
  • 鄧定らは飢窮すると張燕に偽降し、賄賂を贈って進軍を緩めさせた。
  • 鄧定はひそかに訇氐を成都へ走らせて救援を求め、成の主李雄は太尉李離・司徒李雲・司空李璜に二万を与えて救援に向かわせた。
  • 両軍が戦うと張燕は大敗し、張殷と漢中太守杜孟治は城を捨てて逃げた。
  • 十余日後、成軍が撤退すると、漢中の句方・白落らが吏民を率いて戻り、南鄭を守った。

茍晞と石勒の攻防

  • 石勒は平原・陽平の間で茍晞らと数か月戦い、小戦大戦あわせて三十余戦に及び、双方に勝敗があった。

七月 越の官渡駐屯と琅邪王睿の江南赴任

  • 己酉朔、太傅越は官渡に屯して茍晞を後援した。
  • 己未、琅邪王睿を安東将軍・都督揚州江南諸軍事・仮節として建業に鎮させた。

八月 汲桑敗走

  • 己卯朔、茍晞は東武陽で汲桑を大破した。汲桑は清淵へ退いて守った。
  • この年、荊州・江州の八郡を分けて湘州を置いた。

九月 琅邪王睿の建業入城と江東経営

  • 戊申、琅邪王睿は建業に到着した。王導を安東司馬として腹心の謀主とし、ことごとに相談した。
  • 睿はもともと名望が呉人に軽く見られており、到着後もしばらく士大夫は寄りつかなかった。
  • 王導はこの状況を憂え、禊の見物に出る睿に輿や威儀を整えさせ、自ら諸名士を従えて随行した。紀瞻・顧栄らは驚き、道の左に並んで拝した。
  • 王導は、顧栄と賀循こそ当地の人望であるから、これを引き寄せれば人心は定まると説いた。睿は王導にみずから二人を訪ねさせ、二人は応じた。
  • 賀循を呉国内史、顧栄を軍司・散騎常侍、紀瞻を軍祭酒、卞壼を従事中郎、周玘を倉曹属、劉超を舎人、張闓・孔衍を参軍とし、軍府の政事は顧栄らと議した。
  • 王導は、謙譲で士に接し、節用し、清静をもって新来者と旧来の江東人をともに安んじるよう睿に勧めた。睿もよく従ったので、江東はしだいに帰心した。
  • 睿は当初やや酒に溺れて政務を怠ることがあったが、王導が諫めると杯を覆して以後酒を断った。

茍晞の名声と厳法

  • 茍晞は汲桑を追撃して八つの営塁を破り、一万余を殺した。汲桑と石勒は残党を集めて漢へ走ろうとしたが、冀州刺史丁紹に赤橋で再び破られ、汲桑は馬牧へ、石勒は楽平へ逃れた。
  • 太傅越は許昌へ戻り、茍晞を撫軍将軍・都督青兗諸軍事とし、丁紹を寧北将軍・監冀州諸軍事とし、いずれも仮節を与えた。
  • 茍晞は強敵をたびたび破って威名を上げたが、政治も軍も厳しく、法を曲げなかった。
  • 従母が身を寄せ、その子を将にしてほしいと求めると、晞は法を私することはできぬと断った。なお強く求められたため督護に任じたが、後に法を犯すと節を執って斬り、従母が泣いて救っても容れなかった。
  • その後、素服でその死を悼み、「これを殺したのは兗州刺史、これを哭したのは茍道将だ」と言った。

石勒の漢帰附

  • 胡部大張㔨督・馮莫突らは数千を率いて上党に壁を築いていた。石勒はそこへ行き、劉淵が晋を討っているのに部族長が従わないで独立できるのかと説き、他部がすでに単于の恩賞を受けていることも示した。
  • 㔨督らはこれを受け入れ、十月、石勒とともに単騎で漢へ帰附した。
  • 劉淵は㔨督を親漢王、莫突を都督部大とし、石勒を輔漢将軍・平晋王として統率させた。
  • 烏桓の張伏利度は二千を率いて楽平に拠り、劉淵の招きにも応じなかった。
  • 石勒は、劉淵に罪を得たと偽って張伏利度に身を寄せ、兄弟の契りを結ぶと、その兵を率いて掠奪に出て威信を得た。
  • ついに宴会の席で張伏利度を捕え、諸胡に首領を自分と伏利度のどちらにするか問うたところ、皆が石勒を推した。
  • 石勒は張伏利度を解放し、その兵衆も率いて漢へ帰り、劉淵から山東征討諸軍事を加えられた。

十一月 王衍の布石

  • 戊申朔、日食があった。
  • 甲寅、和郁を征北将軍として鄴に鎮させた。
  • 乙亥、王衍を司徒とした。王衍は太傅越に、朝廷危急の今こそ文武兼備の方伯を置くべきだと説き、弟の王澄を荊州都督、族弟の王敦を青州刺史に推した。
  • 王衍は二人に向かって、荊州には江漢の堅固さがあり、青州には海を背負う地利がある、自分は中央にいて三つの穴を備えるようなものだと言った。
  • だが王澄は鎮所に着くと、郭舒を別駕として府事を任せ、自分は日夜酒に耽り、寇乱が迫っても顧みなかった。郭舒が民を愛し兵を養って州境を保全すべきだと諫めても従わなかった。

十二月 汲桑の死と清河王覃の廃

  • 戊寅、乞活の田甄・田蘭・薄盛らは、新蔡王騰の仇討ちを名目として兵を起こし、楽陵で汲桑を斬った。
  • ただし成都王穎の棺は古井戸へ投げ棄てられ、のちに旧臣が収葬した。
  • 甲午、前太傅劉寔を太尉としたが、老を理由に固辞しても許されなかった。
  • 庚子、呂雍・陳顔らが清河王覃を太子に立てようと図ったことが発覚し、太傅越は詔を偽って覃を金墉城に幽閉した。
  • もと越と茍晞は親しく、昇堂して兄弟の契りを結ぶほどであったが、司馬潘滔は、兗州は覇業の地であり、茍晞は大志を抱くから久しく置けば心腹の患いになる、青州へ移して名号を厚くし、越自身が兗州を経営すべきだと説いた。
  • 越はこれに従い、癸卯、自ら丞相・兗州牧・都督兗豫司冀幽并諸軍事となり、茍晞を征東大将軍・開府儀同三司・侍中・都督青州諸軍事・青州刺史・東平郡公とした。
  • これにより越と茍晞の間には隙が生まれた。
  • 茍晞は青州へ赴くとさらに厳刑をもって威を立て、州人は彼を「屠伯」と呼んだ。無塩に屯して魏植ら流民勢力を討ち、弟の茍純を残したが、その刑殺は兄以上であった。

王彌・劉霊の漢降伏

  • 陽平の劉霊はもと貧賤で、奔牛や奔馬を追うほどの剛力で知られていた。乱世を待ち望み、公師藩の挙兵に乗じて将軍を称して趙・魏を荒らした。
  • のち王彌が茍純に、劉霊が王讚に敗れると、二人はともに使者を送り漢へ降伏した。
  • 劉淵は王彌を鎮東大将軍・青徐二州牧・都督縁海諸軍事・東萊公とし、劉霊を平北将軍とした。

年末の南方・西方

  • 李釗がようやく寧州に到着し、州人はこれを奉じて州事を任せた。治中毛孟は京師へ赴き、たびたび刺史派遣を求めて奏上したが省みられなかったため、自刎しようとするほど訴え、ようやく朝廷は魏興太守王遜を寧州刺史に任じた。さらに交州刺史吾彦に命じ、子の吾咨に兵を率いさせて救援させた。
  • 慕容廆は鮮卑大単于を称した。拓跋禄官が死ぬと、弟の猗盧が三部を総摂し、慕容廆と通好した。