資治通鑑晉紀八 孝惠皇帝 永興 三年 306年

春正月 張方誅殺と関中講和

  • 戊子朔、日食があった。
  • もと太弟中庶子の繆播は司空越に寵遇され、その弟の右衛率繆𦙍は太宰顒の前妃の弟でもあった。越が起兵した後、播・𦙍は長安へ行き、顒に帝を洛陽へ還し、関中と関東で版図を分け合うよう説いた。
  • 顒はもとより繆氏兄弟を信頼しており、その案に傾いたが、張方は自分が西遷の首罪として処罰されるのを恐れ、関中の形勝と富強を説いて顒を翻意させた。
  • その後、劉喬が敗れると顒は和解を望んだが、張方が従わぬのを恐れて決められなかった。
  • 顒の参軍畢垣は、張方に辱められた遺恨もあって、富豪の郅輔を利用し、繆播・繆𦙍とともに顒へ、張方を斬って関東へ謝罪すれば争わずして定まると進言した。
  • 顒は郅輔を張方のもとに書を持たせて送った。郅輔は親昵ゆえに疑われず、張方が火の下で書簡を開いたところを斬り殺した。
  • 顒は郅輔を安定太守に任じ、張方の首を越へ送って和を請うたが、越は受けなかった。

洛陽・長安方面の戦況

  • 宋胄が河橋を襲い、楼褒は西へ逃れた。平昌公模は馮嵩を前鋒督護として宋胄と合流させ、洛陽へ迫らせた。
  • 成都王穎は西へ逃れて長安へ向かったが、華陰に至って顒がすでに関東と和したと聞き、進めずとどまった。
  • 呂朗は滎陽に駐屯していたが、劉琨に張方の首を示されて降伏した。
  • 司空越は祁宏・宋胄・司馬纂に鮮卑を率いさせて西へ天子を迎えに行かせ、周馥には司隸校尉・都督諸軍として澠池に屯させた。

三月 青州での劉伯根・王彌の蜂起

  • 惤県の劉伯根が反乱を起こし、衆は一万余となって自ら惤公と号した。
  • 王彌は家僮を率いてこれに従い、長史となった。王彌の従父弟王桑も東中郎将とされた。
  • 劉伯根は臨淄を攻め、高密王略は劉暾を派遣したが敗れ、略も聊城へ逃れた。
  • 王浚が将を派遣して劉伯根を斬ると、王彌は長広山へ逃げ、群盗となった。

寧州の孤立と李秀の守城

  • 寧州では数年にわたる飢饉と疫病で死者が十万単位に及び、五苓夷が勢いを増して州兵はたびたび敗れた。多くの吏民が交州へ流れ、夷はついに州城を包囲した。
  • 李毅は病を抱えながら救援を絶たれ、賊を防げずに滅びを待つばかりだとして、もし自分が生きているうちに使者が来たなら重罰を、すでに死んでいれば屍をさらして処分してほしいと悲痛な上奏をしたが、朝廷は応じなかった。
  • 数年後、子の李釗が洛陽から見舞いに向かったが間に合わず、李毅は死去した。
  • その娘の李秀は父の気風を受け継ぎ、人々に推されて州政を取り仕切った。彼女は兵を励まし、食糧が尽きると鼠を焼き草を抜いて食べながら守り、敵が緩むたび出撃して破った。

成都の李雄と范長生

  • 范長生が成都へ赴くと、成都王李雄は門まで出て板を執って礼を尽くし、丞相として遇し、「范賢」と尊称した。

夏四月〜五月 長安陥落と天子東還

  • 己巳、司空越は温に進軍した。
  • 顒は張方が死ねば東方の兵も解けると思っていたが、逆に兵は争って関中へ進入したため後悔し、郅輔を斬って責任を取らせ、弘農太守彭随・北地太守刁黙に祁宏らを湖で防がせた。
  • 壬辰、祁宏らは彭随・刁黙を大破し、西進して関中に入り、さらに霸水で顒の将馬瞻・郭偉を破った。
  • 顒は単騎で太白山へ逃れた。
  • 祁宏らは長安に入ったが、配下の鮮卑兵が大掠奪を行い、二万余人を殺した。百官は山中へ逃げ、橡の実を拾って飢えをしのいだ。
  • 己亥、祁宏らは帝を牛車に乗せて東へ還した。太弟太保梁柳を鎮西将軍として関中を守らせた。

六月 洛陽帰還と改元

  • 丙辰朔、帝は洛陽へ到着し、羊皇后を復位させた。
  • 辛未、大赦し、元号を光熙と改めた。
  • その後、馬瞻らは長安へ入り、梁柳を殺して始平太守梁邁とともに太宰顒を南山から迎えた。
  • これに対し、弘農太守裴廙・秦国内史賈龕・安定太守賈疋らが兵を起こし、馬瞻・梁邁を斬った。賈疋は賈詡の曾孫であった。
  • 司空越は督護糜晃を派遣して顒を攻めた。顒は牽秀を馮翊に置いたが、長史楊騰が顒の命と偽って牽秀を退かせ、これを殺した。こうして関中諸勢力はおおむね越に服し、顒は長安城を保つのみとなった。

李雄の即位

  • 成都王李雄は皇帝に即位し、大赦して元号を晏平とし、国号を大成とした。
  • 父の李特を景皇帝と追尊し、廟号を始祖とした。母の王太后を皇太后とした。
  • 范長生には「天地太師」の号を与え、その部曲には租税・賦役を免除した。
  • 諸将は恩寵をたのみ、位次を争ったため、尚書令閻式が漢・晋の旧制に照らして百官制度を整えるよう上疏し、これが採用された。

秋七月〜八月 東海王越の専権

  • 七月乙酉朔、日食があった。
  • 八月、司空越は太傅・録尚書事となり、范陽王虓は司空として鄴に鎮し、平昌公模は鎮東大将軍として許昌に鎮し、王浚は驃騎大将軍・都督東夷河北諸軍事として幽州を領した。
  • 越は庾敳を軍諮祭酒、胡母輔之を従事中郎、郭象を主簿、阮脩を行参軍、謝鯤を掾とし、また光逸を招聘した。
  • しかし彼らの多くは清談と放誕を好み、現実政治に心を用いなかった。庾敳は利殖に貪欲で、郭象は品行に難があり権勢を求めたが、越は世の名声だけを見て用いた。

成都王穎の最期

  • 祁宏が関中へ入った際、成都王穎は武関から新野へ逃れた。ちょうど新城元公劉宏が死に、司馬郭勱が乱を起こして穎を迎えようとしたが、郭舒が劉璠を奉じて郭勱を斬った。
  • 詔で南中郎将劉陶が穎を捕えようとすると、穎は北へ河を渡り朝歌へ逃れ、旧兵数百を集めて公師藩に合流しようとした。
  • しかし頓丘太守馮嵩に捕えられ、鄴へ送られた。范陽王虓は殺すに忍びず幽閉した。
  • その後、公師藩は白馬から南へ渡河したが、兗州刺史茍晞に討たれて斬られた。
  • 東嬴公騰は東燕王に進封され、平昌公模は南陽王に移封された。
  • 十月、范陽王虓が死ぬと、長史劉輿は鄴の人々がなお穎を慕うことを恐れ、喪を秘して、偽の詔使を作り、夜のうちに成都王穎を毒殺し、その二子も殺した。
  • 旧臣はみな散っていたが、盧志だけは最後まで随従し、遺骸を収めて葬った。

劉輿の台頭

  • 太傅越は盧志を軍諮祭酒に召した。
  • 越は劉輿も召そうとしたが、周囲は「輿は油の垢のような男で、近づけば人を汚す」と警戒した。
  • だが劉輿は天下の兵簿・倉庫・牛馬・武器・水陸の地勢をひそかに記憶しており、会議では他の者が答えられぬところを即座に策を示した。
  • 越は深く信任し、左長史として軍国の務めを一任した。
  • 劉輿の勧めにより、弟の劉琨を并州刺史にして北面の重鎮とした。東燕王騰も車騎将軍・都督鄴城諸軍事として鄴に鎮した。

十一月 惠帝の崩御と懐帝即位

  • 己巳夜、帝は餅を食べて中毒し、庚午、顕陽殿で崩御した。四十八歳であった。毒殺は越のしわざともいわれた。
  • 羊皇后は太弟熾に対して嫂の立場であるため、自ら太后となれないことを恐れ、清河王覃を立てようとした。
  • 侍中華混は、太弟は久しく東宮にあり民望も定まっているとして反対し、板に書いた急報を太傅越へ送って太弟を呼び寄せた。
  • 羊后はすでに覃を尚書閣へ召していたが、変事を疑って病を口実に退いた。
  • 癸酉、太弟熾が即位した。大赦し、羊皇后を恵皇后として宏訓宮に住まわせ、母の王才人を皇太后と追尊し、妃梁氏を皇后に立てた。
  • 懐帝は東堂で政務を聴き、宴会でも群臣と政務や経書を論じた。黄門侍郎傅宣は、武帝の時代が戻ったようだと嘆賞した。

十二月 河間王顒の死と并州の荒廃

  • 壬午朔、日食があった。
  • 太傅越は詔書によって河間王顒を司徒に召した。顒はこれに応じたが、南陽王模が将梁臣に命じ、新安で車上の顒を扼殺し、その三子も殺した。
  • 辛丑、温羡を左光禄大夫・領司徒とし、王衍を司空とした。
  • 己酉、惠帝を太陽陵に葬った。
  • 劉琨が上党に至ると、東燕王騰は井陘を東へ下って冀州へ移っていた。并州は飢饉に苦しみ、たびたび胡賊に掠められて郡県は自保できず、州将田甄・田蘭・任祉・祁済・李惲・薄盛らと吏民一万余も騰に従って食を求めて冀州へ移った。これを「乞活」と呼んだ。
  • 并州に残った戸数は二万に満たず、寇賊が道を塞いでいた。劉琨は上党で五百人を募り、転戦しながら晋陽に至った。官府は焼かれ、都市も郊野も荒廃していたが、劉琨が流民を慰撫すると次第に人が集まった。