資治通鑑晉紀五 孝惠皇帝 永康 元年 300年

春正月 改元と太子廃位への反対論

  • 癸亥朔、天下に大赦を行い、永康と改元した。
  • 西戎校尉司馬の閻纘は棺を載せて宮門に至り、太子遹の処分は重すぎると上書した。かれは、漢の戾太子でさえ擁護の声があったのに、今回の太子はそれより軽い過失しかないとして、師傅を選び直して厳しく教え、それでも改めなければその時に廃すればよいと述べた。
  • しかし上書は顧みられなかった。

太子を許昌へ移す

  • 賈后は、黄門に自首させて太子とともに謀反を企てたと証言させ、その供述を公卿に示した。
  • 東武公澹に千の兵を付け、太子を許昌宮に幽閉させ、治書御史の劉振に節を持たせて監守させた。東宮の官属には見送りも禁じられた。
  • それでも洗馬江統、潘滔、舍人王敦・杜蕤・魯瑶らは禁を冒して伊水まで行き、太子に拝別して泣いた。司隸校尉の満奮は彼らを捕らえたが、河南尹の楽広は自分の管内の者を釈放した。
  • 都官従事の孫琰は賈謐に対し、太子のために涙を流す宮臣を重罪にすれば、かえって太子の徳を世に明らかにするだけだと説いた。賈謐は洛陽令曹攄に命じて釈放させた。楽広も罪に問われなかった。

太子の冤訴と皇孫虨の死

  • 太子は許昌から王妃へ手紙を送り、自分は陥れられたのだと訴えた。しかし妃の父王衍は、それを朝廷へ取り次ぐ勇気がなかった。
  • 丙子、皇孫虨が死んだ。

三月 異変と不穏

  • 尉氏で血の雨が降り、南方には妖星が現れ、太白は昼に見え、中台星は離れて見えた。いずれも不吉な徴とみなされた。
  • 張華の末子韙は、父に引退を勧めたが、張華は天道は深遠であり、静かに待つほかないと言って従わなかった。

太子復位計画と孫秀の策謀

  • 太子が廃されると、人々の憤りは大きかった。右衛督の司馬雅、常従督の許超、殿中中郎の士猗ら、東宮に関係の深かった者たちは、賈后を廃して太子を復位させようと図った。
  • しかし張華や裴頠は保身的で頼れないと見て、兵権を持つ趙王倫を利用しようと考え、孫秀に相談した。倫もこれを受け入れた。
  • ところが孫秀は、太子は聡明で剛毅だから、復位すれば自分たちは制御できず、かえって賈后に味方していた旧怨で誅されるおそれがあると倫に説いた。
  • そのため、しばらく手をこまねいて賈后に太子を殺させ、その後に賈后を倒して太子の仇討ちを掲げればよいと進言した。倫はこれに従った。
  • 孫秀はさらに、殿中の人々が皇后を廃して太子を立てようとしているという噂を流し、賈后を恐れさせた。賈后は密偵からも同様の話を聞いて怯え、太子の早期除去へ傾いた。

癸未 太子遹の毒殺

  • 賈后は太医令程據に毒薬を調合させ、黄門の孫慮に偽詔を持たせて許昌へ送った。
  • 太子は以前から毒殺を恐れて自分で煮炊きしていたので、孫慮は劉振に告げた。劉振は太子を小坊へ移して食を断ち、孫慮は薬を飲ませようとした。
  • 太子が拒むと、孫慮は薬杵で太子を打ち殺した。
  • 有司は庶人の礼で葬るよう請うたが、賈后は表を上げて広陵王の礼で葬るよう求めた。

夏四月 趙王倫、賈后を討つ

  • 辛卯朔、日食があった。
  • 趙王倫と孫秀は賈后討伐を決意し、右衛佽飛督の閭和を味方につけ、癸巳の丙夜に太鼓を合図として挙兵することにした。
  • 司馬雅は張華に協力を求めたが、張華は拒絶した。
  • 夜になると倫は偽詔を出し、中宮が賈謐らとともに太子を殺したので、車騎将軍として入って中宮を廃すると兵に命じた。従えば関中侯に封じ、従わなければ三族を誅すると脅したため、兵はこれに従った。
  • 宮門を開かせ、道南に兵を並べ、翊軍校尉の齊王冏に百人を率いさせて閤に突入させた。華林令の駱休が内応した。
  • 皇帝は東堂へ移され、賈謐は殿前に呼び出されて斬られた。賈謐は鐘の下へ逃げ込み、賈后に助けを求めたが間に合わなかった。
  • 賈后は齊王冏を見て驚き、何の詔で来たのかと問い、さらに帝に向かって、自分という妻を人に廃させるなら、それは帝自身を廃するのと同じだと叫んだ。
  • この時、梁王肜も計画に加わっていた。賈后は、狗をつなぐなら首を押さえるべきなのに尾を押さえたからこうなったのだと言い、梁王・趙王を先に除かなかったことを悔いた。
  • 賈后は庶人に落とされて建始殿に幽閉され、趙粲・賈午らも暴室に送られて取り調べの末に処断された。

張華・裴頠らの誅殺

  • 尚書が賈氏の一党を捕らえようとすると、詔が偽物ではないかと疑う者もいた。尚書郎の師景は皇帝の手詔を求める露板奏を出したが、倫らは師景を斬って見せしめにした。
  • 趙王倫と孫秀は、簒奪の前に朝廷の名望家を除き、かつ私怨も晴らそうと考え、張華・裴頠・解系・解結らを殿前で捕らえた。
  • 張華は、自分は式乾殿で太子廃位に反対した記録があると弁明したが、詔に従わないならなぜ官を辞さなかったのかと詰められ、答えられなかった。
  • こうして張華らはみな斬られ、三族まで滅ぼされた。解結の娘は翌日裴氏へ嫁ぐはずであったが、一家がこうなった以上生きる理由はないとして死を受け入れた。朝廷ではこれをきっかけに、女は父家の罪に連座して死なせない旧制改正が議された。

賈后の最期と趙王倫の専横

  • 甲午、趙王倫は端門に坐し、和郁を使者として賈庶人を金墉城へ送らせた。劉振・董猛・孫慮・程據らも誅された。
  • 張華・裴頠の親党として多くの内外官が黜免された。閻纘は張華の遺体に取りすがって泣き、かつて辞職を勧めたのに聞かなかったため、ついにこうなったのだと嘆いた。
  • 倫は詔を称して天下に大赦し、自ら使持節・都督中外諸軍事・相國・侍中となり、宣帝・文帝が魏を輔けた故事に倣うと称した。
  • 相国府に兵一万人を置き、世子荂に冗従僕射、子の馥・䖍・詡にも王侯・侍郎などの官爵を与え、孫秀らにも大郡と兵権を与えた。侯に封じられた文武官は数千人に及んだ。
  • 実権は孫秀が握り、天下の人々は趙王倫ではなく孫秀に取り入れるようになった。

太子の名誉回復と人事

  • 朝廷は故太子遹の位号を回復し、和郁に東宮官属を率いさせて許昌から柩を迎えさせた。
  • 遹の子虨は南陽王に追封され、臧は臨淮王、尚は襄陽王に封じられた。
  • 尚書令王衍は、太子が無実を訴えたとき大臣の位にありながら自己保身に終始したとして、終身禁錮を命じられた。
  • 趙王倫は人望を集めるため、李重・荀組を左右長史、東平王堪・劉謨を左右司馬、束晳を記室、荀崧・陸機を参軍に選んだ。
  • しかし李重は倫に異志があると察して辞し、無理に受命したのち数日で憂憤のため死んだ。

四月丁酉以後 官職の移動

  • 梁王肜は太宰、何劭は司徒、劉寔は司空となった。
  • もと太子の廃位後には淮南王允を皇太弟に立てる案もあったが意見がまとまらず、賈后が廃されると、允は驃騎将軍・開府儀同三司・領中護軍とされた。
  • 己亥、相国倫は偽詔で尚書劉宏に金屑酒を持たせ、賈后を金墉城で死なせた。
  • 五月己巳、臨海王臧を皇太孫に立て、王氏をその母として宮中に戻した。太子の官属はそのまま太孫官属となり、相国倫は太孫太傅を兼ねた。
  • 己卯、故太子に「愍懷」の諡を贈った。
  • 六月壬寅、顯平陵に葬った。
  • 清河康王遐が死去した。

淮南王允の挙兵と敗死

  • 中護軍の淮南王允は沈着で決断力があり、宿衛の兵もよく服していた。かれは趙王倫と孫秀の異志を察知し、ひそかに死士を養って討伐を図っていたため、倫と秀は深く恐れた。
  • 秋八月、允は太尉に転じられた。表向きは栄転だが、実際には兵権を奪う措置であった。允は病と称して拝命しなかった。
  • 孫秀は御史の劉機を遣わして允に官属を収めさせ、詔に従わない大逆不敬で弾劾した。允が見ると、それは孫秀の自筆であった。
  • 允は激怒して御史を斬ろうとし、逃げられると令史二人を斬ったうえで、趙王が自分の家を滅ぼそうとしているとして、国兵と帳下の兵七百人を率いて直ちに出撃し、「趙王は反逆した、これを討つ」と叫んだ。左袒して従う者は多かった。
  • 允は宮中へ入ろうとしたが、尚書左丞の王輿が掖門を閉じたため入れず、やむなく相国府を包囲した。
  • その兵は精鋭で、倫軍はしばしば敗れ、死者は千人余りに及んだ。太子左率の陳徽は東宮兵を鼓噪させて内応し、允は承華門前に陣して矢を雨のように射かけた。倫の官属は木陰に隠れたが、木ごとに数百本の矢が当たった。
  • 辰から未まで戦いが続くと、中書令陳淮は皇帝に、白虎幡を出して争いを解かせるべきだと進言した。そこで司馬督護の伏胤が騎兵四百で幡を持って宮中から出た。
  • 侍中の汝陰王䖍は伏胤とひそかに結び、富貴を分け合おうと誓った。伏胤は空の板を懐に入れて出て、詔があると偽って、皇帝が淮南王を助けるのだと称した。
  • 允はこれを信じて陣を開き、車を降りて詔を受けようとしたところ、伏胤に殺された。允の子、秦王郁・漢王迪も殺され、この件で数千人が連座して族滅となった。洛陽に限って赦が行われた。

石崇・潘岳・欧陽建の誅殺

  • 孫秀は若いころ潘岳の下で小吏をしたことがあり、たびたび鞭打たれていた。
  • 衛尉石崇の甥の欧陽建も、以前から趙王倫と仲が悪かった。石崇には緑珠という愛妾がおり、孫秀はこれを求めたが、石崇は与えなかった。
  • 淮南王允の敗死後、孫秀は石崇・潘岳・欧陽建が允を助けて乱を図ったと称して捕らえた。
  • 石崇は、召し捕りに来た者に対して、連中が欲しいのは自分の財産なのだろうと嘆いた。早く散財しておけばよかったではないかと言われたが、答えられなかった。
  • 緑珠は、石崇が自分のために罪を得たと語るのを聞くと、楼上から身を投げて死んだ。
  • 潘岳は、母がかねて欲深さを戒めていたことを思い出し、敗れた時には母に面目がないと謝したという。
  • 三人はいずれも族誅され、石崇家の財産も没収された。

呉王晏の減死、齊王冏の外転

  • 相国倫は淮南王允の同母弟である呉王晏をも殺そうとしたが、光禄大夫傅祗が朝堂で強く争い、群臣も諫めたため、死一等を減じて賓徒県王に落とした。
  • 齊王冏は賈后討伐の功で游撃将軍に進んだが、恩賞が軽いとして不満そうな顔を見せた。孫秀はこれに気づき、内に置くのを恐れて、平東将軍として許昌へ出した。
  • 陳準は太尉・録尚書事となったが、ほどなく死去した。

九錫と相国府の膨張

  • 孫秀は相国倫への九錫加授を議し、百官はだれも異議を唱えなかった。
  • ただ吏部尚書の劉頌だけは、漢が魏に、魏が晋に九錫を授けたのは禅譲という非常時の措置で、恒常の典礼ではない、周勃や霍光の大功にもそのような命はなかったと反対した。
  • 張林はこれを張華の党とみなして劉頌を殺そうとしたが、孫秀は張華・裴頠を殺しただけで世の評判を傷つけたのだから、さらに劉頌まで殺してはならないと止めた。結局、劉頌は光禄大夫へ移された。
  • それでも詔は下され、倫に九錫が加えられた。さらにその子荂は撫軍将軍、䖍は中軍将軍、詡は侍中となり、孫秀にも侍中・輔国将軍・相国司馬・右率が加えられた。
  • 張林らも顕職につき、相国府の兵は二万人に増やされ、宿衛兵や隠匿兵まで合わせると三万人を超えた。

倫・秀政権の実情

  • 九月、司徒の名を丞相に改め、梁王肜をこれに充てようとしたが、肜は固辞して受けなかった。
  • 倫とその諸子は愚かで見識がなく、孫秀は狡猾で貪欲、これに与する者もみな邪佞の徒で、利を争うばかりで遠大な計略はなかった。互いに志が合わず、憎み合っていた。
  • 孫秀の子会は射声校尉となったが、容貌は貧相で、下僕よりも劣るほどだった。それでも秀は帝女の河東公主を娶らせようとした。

冬十一月 羊后の冊立

  • 甲子、羊氏を皇后に立て、天下に大赦した。
  • 羊后は尚書郎の羊玄之の娘で、外祖父の孫旂が孫秀と親しかったために立后された。羊玄之には光禄大夫・特進・散騎常侍が加えられ、興晉侯に封ぜられた。

益州 趙廞の反乱

  • 朝廷は益州刺史趙廞を召して大長秋に任じ、成都内史の耿滕を後任の益州刺史とした。
  • 趙廞は賈后の姻戚であり、召還されれば賈氏の一党として罪に問われるのを恐れた。また晋室の衰乱を見て、ひそかに蜀に拠る志を抱いた。
  • かれは倉を開いて流民を救済し、人心を集めた。とくに巴西同郡である李特兄弟を厚遇し、その党類がみな巴西出身であることから手足として用いた。李特らは趙廞の勢いを頼み、多くの者を集めて掠奪を行い、蜀人を苦しめた。
  • 耿滕はたびたび密表し、流民は剛悍で蜀人は柔弱だから、主が客を制しきれず、必ず乱の種になる、本郷へ帰すべきであり、そうしなければ関中の禍が梁州・益州へ移るだけだと警告した。趙廞はこれを聞いて耿滕を憎んだ。

耿滕・陳摠の敗死

  • 州は詔書を受けて文武千余人を送り、耿滕を迎えた。当時、成都には益州の治所である太城と、成都郡の治所である少城があった。趙廞はまだ太城にいて去っていなかった。
  • 耿滕が州城へ入ろうとすると、功曹の陳恂は、今や州と郡の怨みは深く、入城すれば大禍になる、少城にとどまって変を見守り、諸県に檄を飛ばして村々に自衛させ、西夷校尉の陳摠の到着を待つべきだ、場合によっては犍為へ退いて江を防ぎ非常に備えるべきだと諫めた。
  • しかし耿滕は従わず、その日のうちに入州しようとして、西門で趙廞の兵と戦い敗死した。
  • 郡吏はみな逃げたが、陳恂だけは自ら縄をかけて趙廞のもとに出て、耿滕の遺体の引き渡しを願った。趙廞はその義を感じて許した。
  • 趙廞はさらに兵を出して西夷校尉の陳摠を迎え撃った。陳摠が江陽に至ると、主簿の趙模は、州と郡の不和は大変につながる、今こそ兵の要地たる西夷府が順を助け逆を討つべきだ、財を散じて兵を募り戦えば州を得られるし、敗れても流れに乗って退けば害は少ないと説いた。
  • しかし陳摠は、趙廞が耿滕を憎んで殺しただけで、自分とは関係がないとして応じなかった。趙模は、戦わなくとも必ず殺されると涙ながらに訴えたが、なお聞き入れられなかった。
  • ついに兵は自潰し、陳摠は草むらに逃げ込んだ。趙模は陳摠の服を着て奮戦し、趙廞の兵に殺された。兵が誤りに気づいて探し出すと、陳摠もまた殺された。

趙廞の自立と李庠らの帰附

  • 趙廞は自ら大都督・大将軍・益州牧を称し、僚属を任命し、守令を入れ替えた。朝廷から任命された官人も、召されれば行かざるをえなかった。
  • 李庠は妹婿の李含、天水の任回、上官晶、扶風の李攀、始平の費他、氐の苻成・隗伯ら四千騎を率いて趙廞のもとに来た。
  • 趙廞は李庠を威寇将軍とし、陽泉亭侯に封じて腹心とし、六郡の流民のうち壮勇な者を一万人余り集めさせ、蜀へ入る北道を断たせた。