春正月 氐の乱の平定
- 孟觀が中亭で氐の軍を大破し、反乱の首領である齊萬年を捕えた。これにより関中を悩ませていた氐・羌の大乱は大きく鎮圧された。
江統の「徙戎論」
- 太子洗馬の江統は、異民族を内地に雑居させたことが将来の大患になると考え、朝廷に上書して、関中の羌・氐や并州の胡を本来の居地へ移すべきだと論じた。
- その主張は、おおむね次の通りであった。古来、夷狄は境外に置いて備えを怠らず、強くても深追いせず、弱くても油断しないのが原則である。ところが後漢以来、羌や氐を関中に移住させたため、繁殖して内地の民と怨みを深め、ひとたび機会があれば大乱を起こすようになった。
- 江統は、馮翊・北地・新平・安定の羌は西方の旧地へ、扶風・始平・京兆の氐は隴右へ戻し、道中の食糧を支給して元の部族に付けるべきだと提案した。そうすれば華夏と戎狄を分け、将来の禍を遠ざけられると説いた。
- さらに并州の匈奴系諸部も、人数が増えて強盛になっており、いずれ大きな脅威となると警告した。また滎陽に移された句驪系住民も、数世代後には同様の患いになりうると論じた。
- しかし朝廷はこの意見を採用しなかった。
賈謐と諸王の配置換え
- 散騎常侍の賈謐は、東宮で太子に講義する立場にありながら傲慢な態度をとった。成都王穎がこれを叱責すると、賈謐は怒って賈后に訴えた。
- その結果、成都王穎は平北将軍として鄴に出鎮させられた。梁王肜は大将軍・録尚書事に任じられ、河間王顒は鎮西将軍として関中へ出された。
夏六月 高密王泰の死
賈后の放縦と、廃后をめぐる議論
- 賈后は淫乱と残虐さを募らせ、太医令の程據らと私通し、若い男を箱に隠して宮中へ運び入れ、秘密が漏れるのを恐れてしばしば殺した。
- 賈模は自分にも禍が及ぶのを恐れ、裴頠とともに張華に相談し、賈后を廃して謝淑妃を立てる案を議した。
- しかし張華と賈模は、皇帝本人に廃黜の意思がなく、諸王もそれぞれ勢力を持っている以上、軽挙すれば国を危うくするだけだとして、実行に踏み切らなかった。
- 裴頠は賈后の近親にあたる広城君に繰り返し働きかけ、太子を厚遇するよう賈后を諫めさせたが、賈后は聞き入れず、かえって賈模を疎んじた。賈模は失意のうちに死んだ。
- 秋八月、裴頠は尚書僕射となり、さらに門下の事を専ら任されるよう命じられたが、外戚偏重のしるしであり朝廷のためにならぬとして固辞した。だが許されなかった。
皇帝の昏愚と政事の乱れ
- 恵帝は愚鈍で、華林園で蛙の鳴き声を聞いて、それが官のために鳴いているのか私のために鳴いているのかと問うほどであった。
- 天下に飢饉が起き、民が餓死していると聞いても、なぜ肉粥を食べないのかと言ったと伝えられる。
- そのため権力は群臣や外戚の手に分散し、推薦や賄賂が横行し、賈氏・郭氏の一族は横暴をほしいままにした。
- 魯褒は「錢神論」を著し、金銭があらゆることを左右する世相を皮肉った。
刑法運用への裴頠・劉頌の批判
- 当時の朝廷では、役人たちが苛察をもって有能さを競い、法の解釈もばらばらで、軽微なことでも重罰に処する傾向があった。
- 裴頠は上表し、最近の裁断は軽重の均衡を失っており、姦吏がこれに乗じて恣意的な運用をするようになると警告した。
- その後も曲解はやまず、三公尚書の劉頌もまた、法令があまりに煩雑で統一がなく、下の者は何を守ればよいかわからず、上の者も統制できないと論じた。
- 劉頌は、法の適用は原則として律令に従うべきであり、主務官・大臣・君主がそれぞれの権限を越えて勝手な判断をしてはならないと説いた。朝廷は、法の外から異議を出す場合は逐一上聞させることにしたが、抜本的な改善には至らなかった。
劉頌の官制改革案と、韋忠・索靖の見通し
- 劉頌は吏部尚書に移り、九班の制度を立てて、官吏の在職年限を長くし、考課と賞罰を明確にしようとした。しかし賈氏・郭氏の専横のもと、出世を急ぐ者ばかりで、制度は実施されなかった。
- 裴頠は平陽の韋忠を張華に推薦したが、韋忠は、張華は華美だが実がなく、裴頠は欲が深いとして仕官を拒んだ。
- 敦煌の索靖は、天下の乱を予見し、洛陽宮門の銅駝を指して、やがておまえが荊棘の中に立つのを見ることになるだろうと嘆いた。
冬十一月 賈后、太子排除を決意
- 広城君郭槐は、生前より賈后に太子を慈しむよう勧めていた。また賈謐が太子に無礼を働くたび厳しく叱っていた。
- 臨終の際には、賈后の手を取って、太子に尽くすよう強く言い残し、さらに趙粲と賈午が必ず賈氏一門を乱すから、死後は深く宮中に入れぬよう戒めた。
- だが賈后はこの遺言に従わず、趙粲・賈午とともに太子排除を謀った。
太子の堕落
- 太子は幼いころは評判がよかったが、成長すると学問を好まず、側近と遊興にふけるようになった。
- 賈后は宦官らに命じて、太子を奢侈・暴虐へと誘わせたため、その評判はいよいよ落ちた。
- 太子は宮中に市場を作って売買を楽しみ、屠殺や酒売りの計量まで自ら行った。月々の俸給では足りず、西園で野菜や染料植物、鶏や麺などを売らせて利を取った。
- また陰陽・禁忌の小さな術数に凝り、取るに足らぬ縁起を気にした。洗馬江統は、病をおしてでも朝見に努めること、師傅に学ぶこと、造作や装飾を減らすこと、西園の商売をやめること、禁忌にとらわれすぎないこと、という五か条を上書したが、太子は従わなかった。
- 中舎人の杜錫はたびたび忠諫したが、太子はこれを疎み、座の敷物に針を仕込んで傷つけるほどであった。
賈謐と東宮の対立
- 太子は、賈謐が中宮の権勢を頼んで驕っているのを嫌い、取り立てて厚遇しなかった。賈謐が東宮に来ると、後庭に宿して遊ばせることまであった。
- 詹事の裴權は、賈謐は賈后に近い人物だから、一朝かれが讒言すれば危険だと諫めたが、太子は聞かなかった。
- 賈謐は、太子が私財を蓄えて小人と結んでいるのは賈氏を討つためであり、もし皇帝が死ねば、楊氏の先例のように賈后を廃し、自分たちを誅すると讒言した。賈后はこれを信じ、太子の短所を広く言いふらし、さらに妊娠を装って妹夫の韓壽の子を養い、太子に代える準備まで進めた。
太子擁立の密議と張華の消極姿勢
- 中護軍の趙俊は、太子に賈后廃位を勧めたが、太子は応じなかった。
- 左衛率の劉卞は、賈后が太子を害そうとしていると見て、張華に対し、東宮には俊才が多く兵もある、張華が支えれば太子に録尚書事を行わせ、賈后を金墉城へ幽閉できると説いた。
- 張華は、天子が健在である以上、子が母を廃する形になり、不孝を天下に示すことになるし、成功も確実ではないとして応じなかった。
- 賈后は外で密偵を放っており、この話を聞きつけると、劉卞を雍州刺史に左遷した。劉卞は言が漏れたと知って毒を飲んで死んだ。
十二月 太子廃立の陰謀
- 太子の長子虨が重病となり、太子は王爵を求めたが許されなかった。さらに病が重くなると、太子は祈祷を行って回復を願った。
- 賈后はこれを口実に、皇帝が病気だと偽って太子を呼び出し、別室に置いて強く酒を飲ませた。太子が大いに酔うと、黄門侍郎の潘岳に命じて謀反の文面を起草させ、小婢の承福に紙筆を持たせて太子に書かせた。
- その内容は、皇帝と中宮を自ら処断し、謝妃と内外で呼応して事を起こし、虨を王とし、その母蔣氏を内主に立てる、という荒唐無稽なものであった。賈后は、太子の酔って乱れた字を補筆して整えた。
太子廃位
- 壬戌、皇帝は式乾殿に出て、公卿に太子の書を示し、死を賜うべきだと述べた。
- 諸王・公卿はだれも強く反対しなかった。張華は、正嫡の廃黜は古来国家の大乱につながると慎重論を述べ、裴頠は伝書者の取り調べや筆跡照合を求めた。
- しかし賈后は、これまでの太子の書付をいくつも出して比べさせ、さらに長広公主の言として、詔に従わない者は軍法に処すべきだと皇帝に吹き込んだため、群臣は押し切られた。
- 日が暮れるころ、賈后は自ら上表して太子を庶人に落とすよう求め、詔が下った。
- 和郁らが東宮へ行って詔を伝え、太子は服を改めて承華門から歩いて出た。東武公澹が兵を率いて護送し、太子と妃王氏、三子の虨・臧・尚を金墉城に幽閉した。
- 王衍は自ら上表して娘である王妃との離縁を願い、許された。太子の母謝淑媛と、虨の母である保林蔣俊も殺された。