資治通鑑晉紀四 孝惠皇帝上之上 元康 八年 298年
大赦と水害
- 春三月壬戌、天下を赦した。
- 秋九月、荊・豫・徐・揚・冀の五州で大水が起こった。
流民の蜀入りと李特兄弟
- 初め、張魯が漢中にいたころ、巴西宕渠の賨人李氏はそこへ移り住んでいた。魏武帝が漢中を平定した後、李氏は五百余家を率いて帰順し、将軍に任ぜられて略陽へ移された。北土では彼らを巴氐と呼んだ。
- その孫の李特・李庠・李流は、いずれも武勇と騎射に優れ、任侠を好んで州里に多くの支持を得ていた。
- 斉万年の乱と関中の重なる飢饉のため、略陽・天水など六郡の民で食を求め漢川へ流れる者は数万家に及んだ。道中で病や困窮に苦しむ者に対し、李特兄弟は保護・救済を行ったので、大いに人心を得た。
- 流民たちは漢中から巴蜀に入って寄食したいと上書したが、朝議は当初これを許さず、侍御史李苾を派遣して慰労と監察にあたらせ、剣閣を越えさせぬ方針を取った。
- ところが李苾は流民から賂を受け、漢中一郡では十余万口を養えず、蜀は倉庫に余裕があり人も豊かだとして、就食を許すよう上表した。朝廷はこれに従い、流民は梁州・益州へ分散して入り込み、もはや止められなくなった。
- 李特が剣閣に至ったとき、劉禅はこれほどの形勝の地を持ちながら敵に面縛したのだから、実に庸才だと嘆じた。聞く者はその見識に驚いた。のちの蜀乱の伏線となる出来事である。
関中討伐の転換
- 張華と陳準は、趙王倫・梁王彤が相次いで関中方面の主将となっても、どちらも雍容として驕貴で、軍を疲弊させるばかりで戦果がないと見ていた。
- そこで、沈着で剛毅、文武の才を備える孟観を推薦し、斉万年討伐に当たらせた。
- 孟観は自ら矢石の間に身を投じ、十数度の大会戦ですべて勝利を収めた。