資治通鑑晉紀四 孝惠皇帝上之上 元康 六年 296年
大赦と人事
- 春正月、天下に大赦があった。
- 下邳献王晃が死去した。
- 中書監の張華を司空とし、太尉隴西王泰は尚書令を行い、高密王に改封された。
郝度元・氐羌の反乱
- 夏、郝散の弟の郝度元が、馮翊・北地の馬蘭羌、盧水胡らとともに反乱し、北地太守張損を殺し、馮翊太守欧陽建を破った。
- 征西大将軍の趙王倫は、寵臣の琅邪孫秀を重用しており、雍州刺史の解系と軍事指揮をめぐって争い、互いに弾劾しあった。欧陽建もまた倫の罪悪を奏上した。
- 朝廷は、趙王倫が関中を乱しているとして、洛陽へ召して車騎将軍とし、梁王彤を征西大将軍・都督雍涼二州諸軍事として後任に据えた。
- 解系と弟の解結は、氐羌に謝罪するためにも孫秀を誅すべきだと上表した。張華はこれを梁王彤に告げ、彤も同意したが、孫秀の友人辛冉が、氐羌反乱は孫秀の責任ではないと弁じたため、秀は助かった。
- 趙王倫は洛陽に着くと孫秀の策に従って賈后・郭彰と深く結びつき、賈后もまた彼を寵信した。やがて倫は録尚書事、さらに尚書令まで求めたが、張華と裴頠が固く拒んだため、倫と秀はこの二人を深く恨むようになった。
齊万年の擁立
- 秋八月、解系は郝度元に敗れた。
- 秦州・雍州の氐羌はことごとく反し、氐帥の斉万年を帝として立て、涇陽を囲んだ。
周処の起用
- 御史中丞の周処は権勢や外戚を恐れず弾劾した。梁王彤も法に背いたことがあり、周処はこれをも糾弾した。
- 冬十月、詔により周処を建威将軍、盧播を振威将軍とし、ともに安西将軍夏侯駿の配下に入れて斉万年討伐に向かわせた。
- 中書令陳準は朝廷で、夏侯駿も梁王彤も貴戚であって将帥の器ではない、周処こそ忠直勇果で援護の乏しい人物だから、孟観に精兵一万を与えて前鋒とすべきだ、でなければ梁王が周処を先鋒にして救わず陥れるだろうと警告した。しかし朝廷は従わなかった。
- 斉万年は周処の来援を聞き、周府君はかつて新平太守として文武の才があり、もし専断して来るなら当たり難いが、他人の制約を受けているなら捕えるのは容易だと評した。
仇池の楊茂搜
- 関中では飢饉と疫病が起こっていた。
- 略陽清水の氐である楊氏は、もとは仇池に拠っていた一族で、先祖の楊千万は魏に附して百頃王に封じられた。のち勢力を伸ばして略陽へ移ったが、楊飛龍の甥で養子となった楊茂搜は、斉万年の乱を避け、十二月に部落四千家を率いて仇池へ戻り、自ら輔国将軍・右賢王を称した。
- 関中の士民で乱を避ける者は多く楊茂搜のもとに依った。茂搜は迎えて撫育し、去りたい者には護衛をつけ資粮を与えて送り出した。
- 同年、巴西の趙廞を揚烈将軍・益州刺史に任じ、梁州・益州の兵糧を発して雍州の氐羌討伐を援助させた。