資治通鑑晉紀二 世祖武皇帝 咸寧 五年 279年

樹機能再興と馬隆起用

  • 春正月、樹機能が凉州を攻め落とした。
  • 武帝は大いに悔い、朝廷で誰がこれを討てるかと嘆いた。
  • 司馬督馬隆が進み出て、勇士三千を募って自分に任せてくれれば西方の胡など平定できると述べた。
  • 公卿たちは、すでに兵は多く、さらに特別募集する必要はない、馬隆は下級武官にすぎず妄言だと反対したが、武帝は聞き入れなかった。
  • 乙丑、馬隆を討虜護軍・武威太守とした。
  • 馬隆は弓四鈞・弩九石を引ける者のみを選抜し、日中までに三千五百人を得ると、それで足りるとした。
  • また武庫に自ら赴いて武器を選ぼうとし、武庫令と争ったため、御史中丞が弾劾したが、馬隆は戦場で死ぬ身に朽ちた武器を与えるのかと訴え、武帝は望むままに取らせ、三年分の軍資も与えて派遣した。

劉淵をめぐる議論

  • 南匈奴では、呼厨泉の兄於扶羅の子である劉豹が左部帥となっており、その子劉淵は幼いころから才知にすぐれ、上党の崔游に学んで経史に通じた。
  • 彼は文武の兼備を志し、長じては猿臂の名射手となり、体貌も雄偉で、任子として洛陽にいた。王渾とその子王済は彼を高く評価してたびたび推挙し、武帝も召してその才を喜んだ。
  • 王済は、東南経略を任せれば呉など不足して平定できるとまで言った。
  • しかし孔恂と楊珧は、異族は心を同じくしないとして、劉淵には才があっても重任を与えるべきでないと主張した。
  • 凉州陥落ののち、武帝が李憙に将を問うと、李憙は匈奴五部の兵を動員し、劉淵に将軍号を与えて西へ向かわせれば、樹機能の首は日をおかず得られると勧めた。
  • 孔恂は、もし劉淵が本当に樹機能を討てば、凉州どころかさらに深い禍の種になると反対し、武帝もこれを採らなかった。
  • 東萊の王弥は家柄も学識もあり、勇略・騎射に秀でて「飛豹」と呼ばれたが、処士董養は、天下に事があれば君はもはや士大夫では済まないだろう、すなわち乱世の人になると見抜いた。
  • 劉淵は王弥と親しく、王氏・李氏に同郷人として推薦されることがかえって自分の害になると嘆いて涙した。
  • 斉王攸は武帝に、劉淵を除かなければ并州は長く安んじないだろうと進言したが、王渾は、晋は信義で異俗を懐柔すべき時に、形のない疑いで人質の子を殺すべきでないと反論した。武帝もこれに同意した。
  • ちょうど劉豹が死んだため、劉淵はその後を継いで左部帥となった。

質任の廃止

  • 夏四月、大赦を行い、部曲督以下の質任を廃した。

郭馬の乱

  • 呉の桂林太守修允が死去した。
  • その配下は各将督へ分配されるはずだったが、郭馬・何典・王族らは代々の旧軍であり、互いに離れるのを嫌った。ちょうど孫皓が広州の戸口を再点検していたため、人心が不安となり、郭馬らは衆を集めて広州督虞授を殺害した。
  • 郭馬は自ら都督交州・広州二州諸軍事を称し、何典に蒼梧を、王族に始興を攻めさせた。

呉の丞相任命と討伐軍

  • 秋八月、呉は軍師張悌を丞相、牛渚都督何植を司徒、執金吾滕修を司空としたが、滕修については任命を改めて広州牧とし、兵一万を率いて東道から郭馬討伐に向かわせた。
  • 郭馬は南海太守劉略を殺し、広州刺史徐旗を追放した。
  • 孫皓はさらに徐陵督陶濬に七千を率いさせ、西道から交州牧陶璜と協力して郭馬を討たせた。

呉の怪異と臣下監視

  • 呉では鬼目菜が工人黄耉の家に、買菜が工人呉平の家に生えた。東観で図書を調べると、前者は芝草、後者は平慮草に当たるとされ、孫皓は黄耉を侍芝郎、呉平を平慮郎とし、銀印青綬を与えた。
  • 孫皓は群臣との宴ごとに皆を泥酔させ、さらに黄門郎十人を「司過」として置き、宴のあとでそれぞれの失態を奏上させた。
  • にらみ方や言い間違いまで摘発させ、重ければ刑死、軽くても記録して罪状とした。中には顔の皮を剥ぎ、目をえぐられる者までいた。
  • そのため上下は離心し、誰も国のために力を尽くそうとしなくなった。

王濬・杜預の強い出兵論

  • 益州刺史王濬は上疏し、孫皓は荒淫で凶逆だから速やかに征伐すべきだと述べた。もし一朝にして孫皓が死に、賢主が立てば強敵になるという。
  • さらに、自分は船を作って七年になり、木船は日々朽ち、本人も七十歳で死は近い、時間・資材・人の三条件のうち一つでも狂えば計画は難しくなると訴えた。
  • 武帝はこれで伐呉を決意した。
  • ところが安東将軍王渾が、孫皓は北上を図っていると上表したため、朝廷ではあらためて来年出師の可否が議論となった。
  • 王濬の参軍何攀は洛陽に使していて、孫皓は決して本気で北上できない、かえってこの戒厳を利用して急襲すべきだと上疏した。
  • 杜預も表を上げ、閏月以来、呉は警戒を命じているだけで兵を実際には動かしていない、国都を空にして西上できるはずがない、今中止すれば孫皓は恐れて武昌へ遷都し、江南諸城を修復し、民を遠ざけて来年は手が出せなくなると説いた。
  • また、羊祜がひそかに帝と計を通じていたため朝臣に事前相談がなく、今になって反対が多いのだ、しかも彼らは功が自分に出ないのを嫌い、前言を曲げたくないだけだとまで言い切った。
  • 武帝が張華と囲碁をしている時にこの上表が届くと、張華は碁盤を押しやって、今こそ討てば苦労なく定まると断言した。
  • 武帝はついにこれを許し、張華を度支尚書として兵站と漕運を計算させた。
  • 賈充・荀勗・馮紞はなお激しく争ったが、武帝は大いに怒り、賈充は冠を脱いで謝罪した。
  • 僕射山濤は退いて人に、聖人でなければ外を安んずる時には必ず内憂がある、今呉をそのままにして外患を残すのは策ではない、と語った。

伐呉軍の編成

  • 冬十一月、ついに大規模な伐呉が発動された。
  • 鎮軍将軍・琅邪王司馬伷は涂中、安東将軍王渾は江西、建威将軍王戎は武昌、平南将軍胡奮は夏口、鎮南大将軍杜預は江陵、龍驤将軍王濬と巴東監軍唐彬は巴蜀から江を下ることになった。
  • 東西あわせて二十余万の兵が動員された。
  • 賈充を使持節・仮黄鉞・大都督とし、冠軍将軍楊済を副えた。
  • 賈充は伐呉不利をなお主張し、自分は老いて元帥に堪えないと辞退したが、武帝は、君が行かぬなら自分が出ると言い、賈充はやむなく受けた。
  • こうして賈充は中軍を率いて南下し、襄陽に駐屯して諸軍を節度した。

馬隆の西征成功

  • 馬隆は西へ進んで温水を渡り、樹機能らは数万で険阻に拠って防いだ。
  • 山道が狭いのを見た馬隆は、扁箱車の上に木屋を載せた防護車を作り、これを用いて転戦しながら千余里を進んだ。
  • 戦いで殺傷は甚大だったうえ、朝廷とは音信が絶えたので、多くの者はすでに敗没したと思った。
  • ところが後に馬隆の使者が夜に到着すると、武帝は手を打って喜び、翌朝、群臣に向かって「もし諸卿の言に従っていたら、凉州は失われたままだった」と言った。
  • 馬隆には節を仮し、宣威将軍を授けた。
  • 武威に到着すると、鮮卑の大人猝跋韓・且万能らが万余落を率いて降った。
  • 十二月、馬隆は樹機能と大戦してこれを斬り、ついに凉州を平定した。

行政整理をめぐる意見

  • 武帝は朝臣に政治の得失を問うた。
  • 司徒左長史傅咸は、公私の窮乏は官が多すぎることに由来すると述べた。都督・監軍はむやみに増え、州刺史も禹の九州に比して倍近く、戸口は漢の十分の一なのに郡県や軍府はむしろ増え、宿衛や五等諸侯にも多数の官属が置かれ、その俸給はみな百姓から出ていると批判した。
  • 当面の急務は、官を減らし、徭役を休め、上下とも農業に励むことだとした。
  • また州郡県の吏員を半減して農に向かわせる議もあった。
  • これに対し中書監荀勗は、吏を減らすより官を減らし、官を減らすより事を減らし、事を減らすより心を清くするのがよいと論じた。
  • 漢の蕭何・曹参の清静を引き、人主が浮説を抑え、文案を簡略にし、細かな苛責を省き、小さな過失を赦し、変法で利を得ようとする者だけを厳罰にすべきだとした。
  • さらに、九卿寺を尚書・蘭台に統合し、その一部機能を三公府へ移せば、官の整理になると論じた。
  • ただし、全国一律に吏数を半減するような大づかみな策では、郡国ごとの繁閑の違いを無視することになるので慎重であるべきだ、と結んだ。