資治通鑑晉紀二 世祖武皇帝 咸寧 三年 277年

皇子の立封と死

  • 春正月丙子朔、日食があった。
  • 皇子司馬裕を始平王に立てたが、庚寅にすぐ死去した。

樹機能討伐の戦果

  • 三月、平虜護軍文鴦が凉・秦・雍州諸軍を率いて樹機能を討ち破った。胡族二十万口が来降した。

呉将の降伏

  • 夏五月、呉将の邵顗・夏祥が兵七千余を率いて晋に降った。

中山王の処分と諸王分封強化

  • 秋七月、中山王司馬睦は逃亡者を招き寄せた罪で丹水県侯に落とされた。
  • このころ紫宮に彗星が現れた。
  • 衛将軍楊珧らは、古く諸侯を封建したのは王室の藩屏とするためであり、今の諸王公がみな京師にいるのは本来の趣旨に反すると進言した。また、異姓の将が辺境を守るなら、親王もそこに配して助けるべきだと説いた。
  • 武帝は諸王の封国を大小三等に分け、大国には三軍五千、次国には二軍三千、小国には一軍千百人を置かせると定めた。
  • さらに、都督職を持つ諸王は互いに近い封国へ移し、勢力配置を整えることにした。

諸王の転封

  • 八月癸亥、扶風王司馬亮を汝南王に移し、鎮南大将軍・都督豫州諸軍事として出鎮させた。
  • 琅邪王司馬倫を趙王とし、鄴城守事を督させた。
  • 勃海王司馬輔を太原王とし、并州諸軍事を監させた。
  • 東莞王司馬伷が徐州にいるので、これを琅邪王に移封した。
  • 汝陰王司馬駿は関中にいたため扶風王に移し、太原王司馬顒を河間王に、汝南王司馬柬を南陽王に移した。
  • 官職のない諸王もみな封国へ赴かせた。諸王公は京師を恋しがり、涙を流して去った。
  • また皇子の司馬瑋を始平王、司馬允を濮陽王、司馬該を新都王、司馬遐を清河王に封じた。

功臣の封爵と羊祜の辞退

  • 異姓の臣で大功ある者も郡公・郡侯に封じた。賈充は魯郡公、追封の王沈は博陵郡公、鉅平侯羊祜は南城郡侯に移封された。
  • しかし羊祜は固く辞退した。彼は官爵の拝受に際してつねに辞譲が多く、その誠意が周知されていたため、特例として辞退を許された。
  • 羊祜は文帝・武帝の二代に仕え、中枢で政策の損益を議したが、草案はすべて焼いて痕跡を残さず、人を推薦してもその恩を表に出さなかった。
  • また、公朝で官を拝し、私門で恩に謝すことは自分にはできないと語り、私恩政治を避けた。

水害

  • この年、兗・豫・徐・青・荊・益・梁の七州で大水があった。

呉の孫慎侵入と羊祜の対応

  • 冬十二月、呉の夏口督孫慎が江夏・汝南に侵入し、千余家を略奪して去った。
  • 朝廷は侍臣を遣わし、羊祜が追撃しなかった理由を問い、さらに荊州の治所移転も考えた。
  • 羊祜は、江夏は襄陽から八百里離れており、賊の侵入を知った頃にはすでに去って日もたっている、歩兵で追っても無駄に兵を疲れさせるだけだと答えた。
  • また、魏武帝以来、都督と州刺史の治所を近くして兵力を集中しやすくしてきたのであり、賊が出るたびに州を動かしては防御の拠点が定まらないと論じた。

陳騫致仕・張俶誅殺

  • この年、大司馬陳騫は揚州から入朝し、高平公として罷免・致仕した。
  • 呉では会稽の張俶が讒言を多く行って孫皓に寵愛され、司直中郎将にまで昇り侯に封じられた。
  • その父は山陰県の下級官吏で、子の不良を知り、もし司直に任じるなら自分も連座処分を受けたいと上表していた。
  • 張俶は糾弾専門の一団を置いて法の名で告発をあおり、獄はあふれたが、自身は大いに私利をむさぼり驕暴を極めた。
  • ついに罪が発覚し、父子とも車裂きにされた。

拓跋力微の死

  • 衛瓘は拓跋沙漠汗を帰国させた。
  • もともと沙漠汗が入質している間、力微可汗のそばにいた他の子たちが寵愛を受けていたため、帰国後、諸部大人が沙漠汗を讒訴して殺させた。
  • やがて力微が病重くなると、烏桓の首長庫賢が衛瓘の賄賂を受け、諸部を攪乱しようとした。庭で斧を研ぎ、可汗はお前たちが太子を讒殺したのを恨み、長子たちを皆殺しにするつもりだと言いふらした。
  • 諸部大人たちは恐れて散り散りに逃げ、力微は憂えて死んだ。百四歳であった。
  • 四男の悉禄が立ったが、国勢はここから衰えた。
  • 幽州・并州は東の務桓、西の力微に長く悩まされたが、衛瓘は密計で彼らを離間し、務桓は降り、力微は死んだため、朝廷はその功を嘉して衛瓘の弟を亭侯に封じた。