正月から六月の朝廷人事
- 春正月辛酉、密陵元侯鄭袤が死去した。史料には司空のまま死んだとする記述もあるが、実際にはその官を固辞して退第し、儀同三司を与えられていたとされる。
- 二月癸巳、楽陵武公石苞が死去した。
- 三月、皇子の司馬祗を東海王に立てた。
- 五月、何曾に司徒の職を領させた。
- 六月乙未、東海王司馬祗が死去した。
鄧艾の名誉回復を求める議論
- 四月、かつて謀反の名を着せられて殺された鄧艾について、議郎の段灼が上奏した。鄧艾はもともと忠義の心で蜀平定にあたり、劉禅降伏直後の不安定な情勢で、社稷安定のために独断専行したのであって、反逆の意思はなかったと弁護した。
- さらに段灼は、鍾会が鄧艾を恐れて疑いをでっち上げたこと、鄧艾が詔命を受けると抵抗せず身を縛して従ったこと、その後に部下たちが独断で檻車を破って救出したために事態が悪化したことを述べたうえで、せめて旧墓への帰葬、田宅の返還、子孫への封建、諡号の追贈を求めた。
- 武帝はその意見をもっともだと認めたが、全面的には実行できなかった。
- ただし、後に鄧艾の孫の鄧朗を郎中に任じた。
樊建の諫言
- 武帝は、旧蜀臣で給事中となっていた樊建に諸葛亮の蜀統治について尋ね、自分も諸葛亮のような人物に仕えられたいものだと語った。
- 樊建は、陛下は鄧艾の冤罪を知りながら正せないのだから、たとえ諸葛亮を得ても、用いられなかった馮唐の故事と同じではないかと返した。
- 武帝はこれを笑って受け流したが、内心では意識させられた。
呉の陸抗と韋昭
- 呉では陸抗が大司馬・荊州牧となった。
- 呉主孫皓は祥瑞を好み、韋昭に意見を求めたが、韋昭はそれらを図緯めいた書物にすぎないと退けた。
- 韋昭は左国史を兼ねていたが、孫皓が父の孫和に「紀」を立てようとすると、皇位に即いていない以上「伝」とすべきだと主張した。
- このため孫皓の怒りを買い、病を理由に侍中と史官の辞職を求めても許されなかった。
- 孫皓は群臣に酒を強要し、韋昭だけは茶で代えさせたが、のちにはなお酒を迫った。また酒席で群臣の私事を暴いて笑いものにするのを常としたため、韋昭は経義上の難問にだけ応じて、その風潮には加わらなかった。
- 孫皓はこれを不忠とみなし、前からの不満も重ねて獄に下した。韋昭は著作を献じて助命を願ったが、書物が古びていると咎められて、ついに誅殺された。家族は零陵へ流された。
後宮選抜の実施
- 秋七月丁酉朔、日食があった。
- 晋朝では、公卿以下の家の娘を選んで六宮に備える詔が出され、隠した者は不敬罪とされた。
- 選抜が終わるまで、天下の婚姻を一時禁止した。
- 楊皇后が人選を担い、見た目が整っていて体格のよい者を採る一方、あまりに美しい者は避けた。
- 武帝は卞氏の娘を気に入ったが、楊皇后は卞氏は三代にわたり后族であり、低い位に置くべきでないとして留保した。
- 武帝は怒って自ら選び、合格者には絳紗を腕に結んで印とした。公卿の娘は三夫人・九嬪に、二千石や将校の娘は良人以下に補した。
呉の諸王封建と苛虐
- 九月、呉主孫皓は自分の子弟十一人をまとめて王に封じ、それぞれに兵三千を与えて大赦した。
- この年、鄭冲は寿光公として致仕した。
- 呉では、孫皓の寵姫が市場で民の物を奪い、司市中郎将陳声が法で処断した。姫の訴えを受けた孫皓は、別件を口実に陳声を鋸で斬首し、その遺体を四望の下へ投げ捨てた。