春正月―二月 劉猛平定と太子納妃
- 監軍何楨は劉猛討伐でしばしば勝ち、密かに利をもって左部帥李恪を誘った。
- 李恪は劉猛を殺して降り、反乱は鎮まった。
- 二月辛卯、皇太子司馬衷は賈妃を納れた。賈氏は十五歳で太子より二歳年長であり、嫉妬深く権謀に長け、太子は寵愛しつつも恐れていた。
安平王司馬孚の死
- 壬辰、安平献王司馬孚が九十三歳で死去した。
- 司馬孚は慎み深く、宣帝が政権を握ると常に身を引き、廃立の場面にも深く関与しなかった。景帝・文帝もその尊属の立場ゆえ無理に巻き込めなかった。
- 武帝即位後はとくに恩礼が厚く、元会には輿に乗って上殿させ、武帝みずから阼階まで迎えて拝礼し、座に着いてからも杯を捧げて寿を祝うなど、家人に近い待遇を与えた。
- それでも司馬孚は栄寵を喜ばず、常に憂色を帯びていた。
- 臨終には「私は魏の貞士、河内の司馬孚であり、伊尹でも周公でも伯夷でも柳下恵でもないが、一生の行いは一貫した」として、時服と素棺で葬るよう遺言した。
- 武帝は東園温明・秘器を賜い、東漢の東平献王の故事に準じて厚く葬ろうとしたが、家人は遺命に従い、賜物を一切用いなかった。
皇甫陶と鄭徽
- 武帝が右将軍皇甫陶と論争した際、皇甫陶は面前で強く言い争った。
- 散騎常侍鄭徽は、これは不敬として皇甫陶を罪すべきだと上表した。
- 武帝は、忠直の言は聞けないことこそ問題であり、鄭徽は職掌を越えて妄りに奏したのだとして、逆に鄭徽を免官した。
夏 益州の乱
- 汶山の白馬胡が諸種を侵掠した。
- 益州刺史皇甫晏はこれを討とうとしたが、典学従事何旅らは、胡夷同士の争いは常のことで大患ではなく、盛夏に出軍すれば水潦と疫病の害があるから秋冬を待つべきだと諫めた。
- 胡人の康木子焼香もまた、出兵すれば敗れると語ったが、皇甫晏は士気を阻むとして斬った。
- 軍が観阪に至ると、牙門張弘らは汶山道の険しさと胡勢を恐れて夜間に反乱を起こし、皇甫晏を殺した。
- 兵曹従事楊倉は兵をまとめて力戦し、戦死した。
- 張弘らは逆に「皇甫晏が反乱を企てたので誅した」と偽り、その首を京師へ送った。
- 皇甫晏の主簿何攀は母の喪中であったが洛陽へ赴き、皇甫晏に反意がなかったことを証言した。
王濬の登場
- 張弘らは兵を放って抄掠したため、広漢主簿李毅は太守王濬に、皇甫晏は儒生出身で謀反する理由はなく、しかも広漢は成都に近く梁州の制御拠点なのだから、いまこそ速やかに賊を討つべきで、朝廷にいちいち請う必要はないと説いた。
- 王濬は兵を発して張弘を討ち、これを斬って三族を誅した。武帝は王濬を益州刺史とし、関内侯に封じた。
- 王濬はもと羊祜の参軍で、羊祜はその大才を高く評価していた。甥の羊暨が「志大にして奢、専任すべきでない」と言っても、羊祜は「大事を成す器だ」と擁護した。
- のち車騎従事中郎を経て大司農となっていたが、武帝と羊祜が呉伐ちを密議すると、羊祜は上流の勢いを借りるべきだとして、王濬を再び益州刺史に戻し、水軍を整えさせるよう密表した。
- まもなく龍驤将軍・監益梁諸軍事を加えた。
王濬の造船事業
- 武帝は王濬に、屯田軍を廃して大規模な舟艦建造を命じた。
- 別駕何攀は、屯田兵五、六百では船はすぐには作れず、後から作る船ができる前に、先に作った船が朽ちてしまうと論じ、諸郡兵一万人余を動員して年内完成を目指すべきだと進言した。
- 王濬が先に朝廷へ伺いを立てようとすると、何攀は、急に一万人徴発と聞けば朝廷は必ず許さないから、まず専断で始めてしまうべきだ、もし後に却下されても工事はかなり進んでいて止められない、と説いた。
- 王濬はこれに従い、何攀に建艦と兵器製造を総括させた。
- こうして長さ百二十歩、二千人余を載せ、木柵と楼櫓を備え、四方に門があり、上では馬まで走らせられる巨大戦船が作られた。
- 造船用木材が江をおおって流れ下ると、呉の建平太守吾彦はこれを見て、晋が必ず呉攻略を企てている、建平の兵を増して要衝を塞ぐべきだと上申したが、呉主は従わなかった。
- 吾彦は独自に鉄鎖を作って江路を断つ備えをした。
張斆と武帝
- 王濬は中制により募兵を許されていたが虎符を持っていなかったため、広漢太守張斆は王濬の従事を捕らえ、そのことを上奏した。
- 武帝は張斆を召し返して、なぜ密かに奏聞せず先に従事を捕えたのかと責めた。
- 張斆は、蜀漢は遠隔の地であり、劉備もかつて同様のことをしている、従事を逮捕したくらいではまだ軽いくらいだと答え、武帝はその胆力を賞した。
秋七月 朝廷の党争
- 壬辰、大赦があった。
- 七月、賈充を司空とし、侍中・尚書令・領兵は従前どおりとした。
- 賈充と任愷はともに武帝の寵任を受けていたが、賈充は名勢を独占したく、任愷を妬んだので、朝士もそれぞれに附き、朋党が乱れた。
- 武帝はこれを知り、式乾殿で二人を宴に招き、朝廷は一つでなければならず、大臣は和すべきだと諭した。
- だが両者は、武帝が知っていても罰しないと見て、かえって恐れを失い、表面では互いに敬いながら内心では怨みを深めた。
- 賈充は任愷を吏部尚書に転じさせ、侍中としての出入りを減らし、そのうえ荀勗・馮紞とともにすきを見て讒言したため、任愷はついに失脚して家に退いた。
秋八月―冬十二月 歩闡の降伏と西陵の戦い
- 八月、呉の昭武将軍・西陵督歩闡が召還命令を受けた。歩氏は代々西陵にあり、突如の徴召に職を失う不安と讒言への恐れを抱いた。
- 九月、歩闡は西陵城をもって晋に降り、兄の子歩璣・歩璿を洛陽へ人質として送った。
- 晋は歩闡を都督西陵諸軍事・衛将軍・開府儀同三司・侍中・領交州牧とし、宜都公に封じた。
- 十月朔、日食があった。
- 敦煌太守尹璩が死ぬと、涼州刺史楊欣は敦煌令梁澄を代理太守にしようとしたが、功曹宋質はこれを退けて令狐豊を立てた。
- 楊欣が兵を送ると、宋質に敗れた。
西陵攻防の経過
- 呉の陸抗は歩闡の反乱を聞くと、ただちに左奕・吾彦らを派遣した。
- 晋も荆州刺史楊肇に西陵で歩闡を迎えさせ、車騎将軍羊祜は歩兵を率いて江陵を出、巴東監軍徐胤は水軍で建平を攻め、歩闡救援に向かった。
- 陸抗は西陵の軍民に命じ、赤谿から故市まで厳重な長囲を築き、内では歩闡を囲い、外では晋軍を防ぐ二重構えを取った。昼夜を分かたぬ工事に将兵は苦しんだ。
- 諸将は、晋の援軍到着前に急攻すべきだと諫めたが、陸抗は、この城は地勢も堅く糧も豊富で、しかも防備の多くはかつて自分が計画したものだから、短期奪取は難しい、外敵が来てから無備では内外から挟撃されると主張した。
- なお諸将の意を抑えるため試みに一度攻めさせたが、やはり利はなく、囲備の構築がようやく整った。
- そのころ羊祜の軍五万が江陵へ至った。諸将は陸抗自ら西へ向かうべきでないとしたが、陸抗は、江陵は城も堅く兵も足りる、仮に失っても小害だが、西陵を晋に取られれば江南山中の諸夷が動揺し、その禍は測れないと言って、自ら兵を率いて西陵へ赴いた。
陸抗の備えと晋軍退却
- もとより陸抗は、江陵北方の道が平坦で侵攻されやすいと見て、張咸に大堰を築かせ、水をせき止めて低地をぬかるませ、敵路を断たせていた。
- 羊祜は、そのたまった水を利用して船で兵糧を運び、さらに堰を破って歩軍を通すと見せかけた。陸抗はこれを聞くと、張咸に急いで堰を壊させた。
- 諸将はその判断を怪しんだが、当陽まで来た羊祜は堰がなくなったため車運に切り替えざるを得ず、大いに苦労した。
- 十一月、楊肇が西陵に着くと、陸抗は公安督孫遵に南岸から羊祜を牽制させ、水軍督留慮に徐胤を防がせ、自身は長囲をたのみに楊肇と対陣した。
- 俞賛という呉将が楊肇側へ逃れると、陸抗は、彼は軍中事情をよく知るので、敵は鍛錬不足の夷兵配置点を必ず突くと読んだ。そこで夜のうちにそこを精兵へ入れ替えた。
- 翌日、案の定、楊肇はそこを攻めたが、矢石が雨のように降り、死者が相次いだ。
- 十二月、楊肇は計尽きて夜逃げし、陸抗は歩闡がまだ城中にいて兵を温存している可能性を考え、大追撃はせず、ただ追撃する構えを示して晋軍を驚かせた。晋兵は恐れて皆よろいを脱ぎ捨てて走り、軽兵に追われて大敗した。
- 羊祜らはみな撤退し、陸抗はついに西陵を抜き、歩闡とその同謀の将吏数十人を誅して三族を滅ぼした。
- その一方で、脅されて従っただけの者数万口については赦すよう請い、許された。
- 陸抗は楽郷へ戻っても勝利を誇る様子を見せず、平常どおり謙虚であった。
- 呉主は陸抗に都護の号を加えた。
- 晋では羊祜を平南将軍へ降格し、楊肇は庶人とした。
呉主の増長と朝廷の論争
- 呉主は西陵勝利を天助と考え、ますます気勢を張り、術士尚広に天下取りを占わせた。尚広は「吉、庚子の年に青蓋が洛陽に入る」と答えた。実際には、後年、孫皓自身が虜となって洛陽入りする年を指すことになる。
- 冬、賈充が朝士と宴飲した際、河南尹庾純が酔って賈充に、「父老を顧みず供養しないのは天地に背く」と言われると、「では高貴郷公はどこにいるのか」と言い返し、賈充の弑逆関与を突いた。
- 賈充は恥じ怒って解職を求め、庾純も自らを弾劾した。
- 武帝は庾純を免官しつつ、五府に可否を議させたところ、石苞は厳罰を主張し、斉王司馬攸らは礼律違反には当たらないと論じた。
- 武帝は司馬攸の議を採り、庾純を国子祭酒に任じた。
呉の内部粛清と賀邵の上疏
- 以前、華里行幸の際、右丞相万彧・右大司馬丁奉・左将軍留平は、もし呉主が華里まで行って帰らぬなら、社稷のためやむなく自ら戻すべきだとひそかに相談していた。呉主もおおよそ察知していたが、旧臣であるためしばらく忍んでいた。
- この年、宴会の折に毒酒を万彧へ与えた。給仕がひそかに量を減らしたため万彧はすぐには死ななかったが、自殺に追い込まれた。留平にも毒酒を与えたが、こちらは察して薬で解毒し、一命をとりとめたものの、まもなく憂悶して死んだ。
- 万彧の一族は廬陵へ移された。
- もと万彧の推薦で宮中実務を担っていた楼玄は、身を正して法を守り、受け答えも率直だったため、呉主に次第に嫌われた。
- 中書令で太子太傅を領した賀邵は上疏して、朝廷では真偽が逆転し、忠良は排斥され、正士は角を削って丸くなり、庸臣は君意を先取りして媚びていると批判した。
- また何定はもと奴僕にすぎず、行能もないのに威福を与えられ、辺戍兵を駆って麋鹿狩りに使うなど、民を草芥のように扱っていると論じた。
- さらに、国には一年の蓄えもなく、民家にも一月の蓄えがないのに、後宮には一万人以上が坐食しており、北の敵も国の盛衰をうかがっている、長江の天険も永遠ではないとして、徳に立ち返るよう諫めた。
- 呉主はこれを深く恨んだ。
- 左右の者たちは、楼玄と賀邵が出会って耳語し笑っていたのは政事を誹謗したからだと讒言した。二人は詰問され、楼玄はまず広州へ、さらに交趾へ流され、ついには殺された。賀邵はいったん復職したが、後に何定の姦悪が発覚すると、何定自身も誅された。
羊祜と陸抗の相互信義
- 羊祜は江陵から戻ると、いよいよ徳と信を修めて呉人を懐柔した。
- 交戦時には日取りを定めて正面から戦い、不意打ちを嫌った。もし配下の将帥が奇策を述べようとすると、濃い酒を飲ませて口をふさがせた。
- 呉境で穀物を刈り取った場合も、量を計って絹を送って償った。
- 狩猟でも晋地にとどまり、もし晋兵が得た獣が、先に呉人の矢で傷ついていたものなら返還した。
- こうして呉辺境の人々は羊祜に服した。
- 羊祜と陸抗は対境しながら使者を通じあい、陸抗が贈った酒を羊祜は疑わず飲み、陸抗が病むと羊祜は薬を送り、陸抗もためらわず服した。
- 周囲が危険を心配しても、陸抗は「羊叔子が人を毒するはずがあるか」と言った。
- 陸抗は自軍の辺戍に対し、「相手は徳で来るのに、こちらが暴で応じれば戦わずして屈する。境界を守るだけでよく、小利を求めるな」と命じた。
- 呉主が両境の和を責めても、陸抗は、大国のあいだでこそ信義は必要であり、こうすることは相手の徳をいたずらに高めるものではないと答えた。
- しかし呉主は諸将の進言を用いてしばしば晋境へ侵略を繰り返した。陸抗は、いま必要なのは農業振興・国富増大・官人登用・賞罰の明確化であり、名目だけの軍功欲しさに戦を重ねても兵卒が疲弊するだけだとして、再び上疏したが、呉主は従わなかった。
羊祜への中朝の悪評
- 羊祜は中朝の権貴と結ばなかったため、荀勗・馮紞らは彼を憎んだ。
- 甥の王衍が意見を述べたとき、言辞は清新だったが、羊祜は是認せず、王衍が去った後、彼は盛名をもって高位に至るだろうが、風俗と教化を害するのは必ずこの人物だと評した。
- また江陵攻めの際、羊祜は軍法で王戎を斬ろうとしたことがあり、王戎は王衍の従弟であったため、二人とも羊祜を恨み、中傷を重ねた。
- 当時の人々は「二王が朝にあれば、羊公には徳がないとされる」と言い合った。