春三月 呉との使節往来と徐紹の処刑
- 呉主孫休は、光禄大夫の紀陟・五官中郎将の洪璆らを晋王のもとへ返礼の使者として送った。
- ただし徐紹は帰路の濡須で「中原の制度や風俗をほめた」と告げ口され、呉主の怒りを買って呼び戻され、殺された。
夏四月―五月 呉の改元と魏での司馬昭優遇
- 呉は甘露が降ったことにちなみ、年号を甘露と改めた。
- 魏では文王司馬昭に、旗・車馬・楽舞・冕服など帝に準じる特別待遇が加えられ、王妃は「后」、世子は「太子」と称されることになった。
- そののち大赦が行われた。
秋七月―八月 呉の内廷粛清と司馬昭の死
- 呉主は景皇后を追い詰めて自害させ、景帝の四子を呉へ移したうえ、まもなく年長の二人を殺した。
- 八月、文王司馬昭が死去し、太子司馬炎が相国・晋王を継承した。
- ついで魏では大赦があり、何曾を晋の丞相、司馬望を司徒とした。
- 司馬昭は崇陽陵に葬られた。
冬 呉の遷都計画
- 呉の西陵督歩闡は、都を武昌へ移すよう上表し、呉主はこれに従った。
- 建業の守備には御史大夫丁固と右将軍諸葛靚が残された。
- 歩闡は歩騭の子である。
十二月 魏の禅譲と晋の建国
- 魏帝曹奐は晋王司馬炎に帝位を譲った。魏は文帝曹丕以来五代・四十六年で滅んだ。
- 曹奐は金墉城へ移された。太傅司馬孚は別れに際して手を取って涙し、自分は死ぬまで魏の純臣であると言ってむせび泣いた。
- 司馬炎は即位して大赦を行い、ここで正式に泰始と改元した。
- 魏帝は陳留王に封じられ、鄴の宮に移された。待遇は魏が漢献帝を遇した先例にならった。
- 魏の諸王は侯に降格され、司馬氏の先人である宣王・景王・文王はそれぞれ皇帝に追尊された。
- 皇太后が尊称を受け、司馬孚・司馬幹・司馬亮・司馬伷・司馬駿・司馬肜・司馬倫・司馬攸・司馬鑑・司馬機、さらに一族十七人が王に封じられた。諸王の封国規模や兵数にも等差が設けられたが、原則として国へ赴任させず、京師にとどめた。
- 石苞を大司馬、鄭冲を太傅、王祥を太保、何曾を太尉、賈充を車騎将軍、王沈を驃騎将軍とし、文武百官にも進位進爵が行われた。
- さらに司馬孚を太宰・都督中外諸軍事とした。晋初の三公・上公・武官公の制度もこの時期に整えられた。
- 間もなく陳騫を大将軍とし、司馬望・荀顗らと合わせて「八公」が並び立つ体制となった。
- 武帝は魏の宗室が孤立させられた弊害を戒め、宗室を広く封建し職任を与えた。また諸王には自国内の長吏を自選させたが、斉王司馬攸だけは遠慮して、すべて朝廷の裁可を求めた。
制度改革と仁倹への姿勢
- 武帝は魏代の宗室に対する禁錮を解き、部曲将や地方長官が京師へ人質を出す制度も廃止した。
- 魏末の刻薄さと奢侈を改めようとして、仁慈と倹約を旨とした。
- 太常丞許奇について、父の許允が誅殺されたため宮中近くで奉仕させるべきでないとの意見が出たが、武帝は許允の名望と許奇の才を評価し、祠部郎へ抜擢した。
- 祭祀の牛の鼻綱が切れた際、青糸のかわりに青麻を使うよう命じた。
- また諫官を置き、散騎常侍傅玄と皇甫陶に諫争の役割を担わせた。
傅玄の上疏
- 傅玄は、魏武帝以来の法術尊重、魏文帝以来の放達好みの風潮によって、天下の清議が失われ、士風が頽廃したと論じた。
- そして新王朝のもとでは、礼を守る清遠な人物を登用し、虚飾的で卑俗な人物を退けて風俗を正すべきだと上奏した。
- 武帝はその意見を評価し、傅玄に詔文案を作らせたが、実際には大きな改革には至らなかった。
司馬氏の系譜
- 漢の征西将軍司馬鈞から、豫章太守司馬量、潁川太守司馬雋、京兆尹司馬防を経て、宣帝司馬懿に至る司馬氏の系譜が示された。