資治通鑑魏紀十 元皇帝下 景元五年 264年
年初 平蜀の論功
- 乙卯、鄧艾を太尉にし食邑を二万戸増し、鍾会を司徒にし一万戸増した。いずれも蜀平定の功に対する恩賞である。
- 皇太后郭氏が崩じた。
鄧艾の驕りと対呉策
- 成都にいた鄧艾は、自らの功を誇って蜀の士大夫に、あなたがたが今日あるのは自分に遭ったからであり、もし呉漢のような者に当たっていれば皆殺しだったろうと言ってはばからなかった。
- さらに司馬昭へ書を送り、蜀を平定した勢いで呉を討てば、今こそ呉を席巻できると主張した。
- ただし大軍遠征の後で兵は疲れているので、すぐには動かず、隴右兵二万と蜀兵二万を残して塩業・冶鉄を興し、軍農の資用を整え、船を造って順流東下の準備をすべきだとも提案した。
- また劉禅を厚遇して扶風王に封じ、董卓の旧塢を宮室にあて、その子を公侯とし、広陵・城陽にも呉王を迎えるための備えを置けば、孫休も畏れて帰順するだろうと述べた。
- 司馬昭は衛瓘を通じて、国の処置を待たず軽々しく専断してはならないと諭したが、鄧艾はなお、戦地では国家安危のため臨機に専決すべきで、自分は私心からではなく国益のためにしているのだと重ねて弁明した。
鍾会と姜維の密謀
- 鍾会は内心に異志を抱いており、姜維はこれを見抜いた。
- 姜維は鍾会に、淮南以来の功はすべてあなたの知略によるもので、今また蜀を平定して威名が世を震わせれば、主君はその功を重く見ながらも、その謀略を恐れるはずだ、范蠡のように身を退いて全功を保つべきではないかと誘った。
- 鍾会は、そこまで遠い道は取れないが、今後の道はそれだけではないと言い、姜維も、それ以上はあなたの知力でできることだとして深く踏み込まなかった。
- 以後二人は非常に親しくなり、外出も同車、着座も同席するほどであった。
- 鍾会は、鄧艾が承制して専断していることを口実に、衛瓘と密かに鄧艾に反状ありと司馬昭へ訴えた。鍾会は人の筆跡や文体をまねるのに長けており、剣閣から届く鄧艾の章表や報告の文言を改めて、傲慢不遜で自賛の強い調子に見せかけ、さらに司馬昭からの返書まで改ざんして、両者の疑心を煽った。
春正月 鄧艾逮捕
- 春正月壬辰、詔が出て鄧艾を檻車で召し返すこととなった。
- 司馬昭は鄧艾が命に従わないことを恐れ、鍾会には成都へ進ませ、賈充には斜谷へ兵を入れさせ、自身も帝を奉じて長安へ向かった。諸王公が鄴にいたため、山濤を行軍司馬として鄴を鎮守させた。
- 司馬昭の妻王氏や西曹属邵悌は、以前から鍾会の人柄を危うんでいた。王氏は、鍾会は利を見れば義を忘れ、事端を好むので大任に堪えないと述べ、邵悌も、家族を人質に取られていない単身の鍾会に大軍を委ねるのは危険だと諫めた。
- しかし司馬昭は、蜀攻略には鍾会だけが人心の怯えを破って同調したこと、蜀滅亡後に反しても蜀の遺民も魏軍も鍾会には従うまいこと、自分が長安へ行けば十分に処理できることを理由に退けた。賈充にも同様に答えていた。
- 鍾会は衛瓘を先に成都へ送り、鄧艾を捕らえさせた。衛瓘の兵は少なく、鍾会はひそかに鄧艾が衛瓘を殺せばそれを罪にできると考えていたが、衛瓘は夜のうちに諸将へ檄を飛ばし、鄧艾のみを収めて他は不問にする、応じれば恩賞は先のままだと告げた。
- 夜明けまでに諸将はみな衛瓘へ合流し、鄧艾父子だけが本営に残った。朝、衛瓘は使者の車に乗って直ちに鄧艾のもとへ入り、まだ起きていなかった鄧艾父子を捕縛して檻車に載せた。
- 諸将は鄧艾を奪還しようとしたが、衛瓘は軽く出て迎え、鄧艾の無実を上表する草案を書くふりをして安心させ、事態を収めた。
- 丙子、鍾会は成都に入り、鄧艾を洛陽へ護送させた。
鍾会の反乱計画
- 鍾会が最も恐れていた鄧艾が捕らえられると、西方の大軍はすべて鍾会の手に入り、ついに反乱を決意した。
- 姜維に五万を率いさせて斜谷へ出し、自分はその後続として長安へ至り、騎兵は陸路、歩兵は渭水から河へ下して孟津で合流し、一挙に洛陽を奪う計画を立てた。
- ところが司馬昭から、賈充を斜谷へ一万で入れ、自身も十万を率いて長安に進んでいるという書が届くと、鍾会は驚いて、鄧艾の処理だけなら司馬昭は自分に任せたはずなのに、今回はあまりに重い出兵であり、すでに自分の異心を察したのだと悟った。
- 鍾会は、こうなれば急いで挙兵し、成功すれば天下を取る、失敗しても蜀漢・漢中に拠って劉備のように立てこもれると言った。
丁丑 成都での偽詔と幽閉
- 丁丑、鍾会は護軍・郡守・牙門騎督以上、さらに蜀の旧官たちを成都の朝堂へ集め、太后の発喪を口実に会合させた。
- そこで郭太后の遺詔を偽作し、司馬昭を廃して兵を起こすべきだと読み上げ、列席者に議論ののち署名させた。あわせて諸軍の指揮権を親信へ移そうとした。
- 集められた者たちは皆、益州の諸曹の屋舎に閉じ込められ、城門・宮門は厳重に閉ざされた。
- 衛瓘は病を装って外廨へ移り、鍾会を油断させた。
- 姜維は、まず北来の諸将を皆殺しにし、その後で鍾会をも殺し、魏兵を坑に埋めて劉禅を再び立てようと考え、密書を送って数日の辱めに耐えるよう劉禅へ伝えた。
- 鍾会も諸将誅殺を実行したかったが、なお決断しきれなかった。
己卯 鍾会・姜維の最期
- 鍾会の帳下督丘建は、もと胡烈の部下で、鍾会に信任されていた。丘建は胡烈を哀れみ、親兵一人だけを中へ入れて食事を取らせる許可を得た。諸牙門もこれにならって一人ずつ部下を入れた。
- 胡烈はその親兵に、鍾会は大きな坑を掘り、白棓を数千用意し、外兵を呼び入れて白い冠を与えた後に次々打ち殺し、坑に埋めるつもりだという話を伝えた。これが一夜のうちに全軍へ広まり、みな疑心暗鬼となった。
- 己卯の日中、胡淵が父の兵を率いて鼓を打って門を出ると、諸軍は示し合わせたわけでもないのに一斉に喚声を上げて飛び出し、競って城へ向かった。
- 鍾会はちょうど姜維に鎧や武器を与えていたところで、外の騒ぎを火事かと思ったが、兵が城へ押し寄せていると知って驚き、姜維に問うた。姜維はただ撃つしかないと答えた。
- 鍾会は閉じ込めていた諸将たちを皆殺しにしようとしたが、屋内の者たちは机を立てて扉を支え、突入を防いだ。
- ほどなく城外の兵は梯子で登り、あるいは城門付近を焼き、群蟻のように殺到した。矢は雨のように降り、閉じ込められていた牙門・郡守たちも屋根伝いに脱出して、自軍と合流した。
- 姜維は鍾会の左右を率いて白兵戦をし、数人を手ずから斬ったが、ついに衆兵に殺された。鍾会もその場で討たれた。
- 鍾会軍の死者は数百に及び、蜀の太子劉璿も殺され、姜維の妻子も死んだ。軍中は掠奪で乱れ、死屍が狼藉した。
- 衛瓘が諸将を部署し、数日かけてようやく事態を鎮めた。
鄧艾父子の死
- 鄧艾の旧営の将士たちは、護送中の檻車から鄧艾を奪い返して迎え戻した。
- 衛瓘は、かつて鍾会とともに鄧艾を陥れた身であり、鄧艾が変を起こすことを恐れ、護軍田続らに命じてこれを襲わせた。
- 綿竹の西で鄧艾父子は斬られた。田続はかつて江油で進まなかったため鄧艾に斬られかけ、命を助けられていたが、衛瓘は「江油の辱めに報いよ」とけしかけたという。
- 鎮西長史杜預は、衛瓘は免れまいと語った。名士としての声望と高位はあるが、徳のある言葉もなく、正道で部下を御せず、私憾で田続を動かしたからには責任に堪えられないというのである。
- 衛瓘はこれを聞いて急ぎ杜預に詫びた。杜預は杜恕の子である。
- 洛陽にいた鄧艾の遺児も皆誅され、妻と孫は西城へ流された。
鍾会一族への処置と向雄
- 鍾会の兄鍾毓は、生前ひそかに司馬昭へ、鍾会は術数を抱えていて保ち難く、専任させるべきでないと語っていたが、すでに亡くなっていた。
- 司馬昭は鍾繇の功と鍾毓の賢を思い、その子鍾峻らについては官爵を旧のまま許した。
- 鍾会の功曹向雄は鍾会の遺体を収葬したため、司馬昭に責められた。向雄は、昔の王者は功罪を前もって問わずに朽骨を葬った、いま法による誅はすでに尽くされており、自分が義に感じて葬ることは教化にも背かない、枯骨をなお仇として野に捨てるのは仁者の度量ではないと答えた。
- 司馬昭はこれを喜び、酒食をともにして帰した。
二月 帰洛
- 二月丙辰、車駕は洛陽へ還った。
- 庚申、明元皇后を葬った。
羅憲の永安固守
- 先に劉禅は、巴東太守羅憲に二千を与えて永安を守らせていた。
- 成都陥落の報が届くと、吏民は動揺したが、羅憲は「成都が乱れた」と言いふらす者を斬って民心を鎮めた。
- やがて劉禅の正式な降命が届くと、羅憲はその軍を率いて都亭で三日間喪に服した。
- 呉は蜀敗亡を聞くと、西上して表向きは救援を掲げながら、内心では羅憲の地を奪おうとした。羅憲は、蜀が倒れたのに呉は同盟としての患難を救わず、背盟して利を求めるのは不義だと言い、蜀は滅んでも自分は呉の降虜にはならないと誓って、守城と兵備を固め、将士を節義で励ました。
- 鍾会・鄧艾の乱で蜀の諸城が無主になると、呉は蜀併呑の望みをさらに強めたが、巴東の堅守のため兵を通せなかった。
- 呉は歩協に軍を率いさせて西進させた。羅憲は兵が少なく防ぎきれなかったため、参軍楊宗に命じて包囲を突破させ、安東将軍陳騫へ救援を求めるとともに、文武の印綬と人質を司馬昭へ送った。
- 歩協が永安を攻めると、羅憲はこれを大破した。呉主は怒り、さらに陸抗ら三万を送って包囲を強めた。
三月 司馬氏の加封と礼論
- 三月丁丑、司空王祥を太尉、征北将軍何曾を司徒、左僕射荀顗を司空とした。
- 己卯、晋公の爵を進めて王とし、さらに十郡を加封した。これで封国は二十郡に及んだ。
- 王祥・何曾・荀顗は晋王のもとへ赴いたが、荀顗は王祥に、晋王の尊さは比類なく、何曾も朝臣たちもすでに礼を尽くしているから、今日はそろって拝礼すべきだと言った。
- 王祥は、晋王はなお魏の宰相であり、自分たちは魏の三公なのだから、天子の三公が人に拝するのは魏朝の威を損ない、晋王の徳をも傷つけるとして拒んだ。
- 実際に会見すると、荀顗は拝したが、王祥だけは長揖にとどめた。晋王は、今日になって初めてあなたが自分を深く思ってくれていると分かったと語った。
劉禅東遷と郤正
- 劉禅は家族を伴って洛陽へ移された。戦乱の混乱のため、大臣の多くは随行できず、秘書令郤正と殿中督張通だけが妻子を捨てて単身で従った。
- 劉禅は郤正の導きに頼り、進退応答に失礼がなかったため、もっと早くこの人物を知っていればよかったと嘆いた。
霍弋の去就
- 蜀では建寧太守霍弋が南中を都督していた。魏軍来襲を聞いて成都へ赴こうとしたが、劉禅は南方守備を理由に止めた。
- 成都陥落後、霍弋は素服で三日間大いに哭した。
- 諸将が速やかに降るよう勧めたが、霍弋は、まだ主君の安危が詳らかでないのに軽々しく去就は決められない、もし魏が礼をもって主上を遇するなら保境して降るのも遅くないが、もし危辱が加われば死をもって拒むと言った。
- やがて劉禅東遷の報を得ると、六郡の将守を率いて上表し、自分は国敗れて主が附した以上、もはや死に場所もないゆえ、二心を抱かないと誓った。
- 晋王はこれを嘉して南中都督に任じ、旧任のまま委ねた。
丁亥 劉禅封公
- 丁亥、劉禅を安楽公に封じた。子孫と旧臣で侯に封じられた者も五十余人に及んだ。
- 晋王が劉禅を宴に招き、蜀の楽舞を奏させると、周囲の者は皆悲しんだが、劉禅だけは平然と笑っていた。晋王は賈充に、人がここまで情を欠くとは、仮に諸葛亮が生きていても長く補佐しきれなかったろう、まして姜維はなおさらだと言った。
- さらに晋王が「蜀を思うか」と問うと、劉禅は「こちらは楽しいので蜀は思いません」と答えたという話もある。
- 郤正は後で、もしまた問われたら先祖の墳墓が岷蜀にあって日々思わぬ日はないと涙ながらに答えるべきだと教えた。後日、劉禅がその通りに答えると、晋王はすぐに郤正の言葉だと見抜き、劉禅もその通りだと白状したため、左右はみな笑った。
夏四月 句章侵入
- 夏四月、新附督王稚が海路で呉の句章に入り、その長吏と男女二百余人を掠め取って帰った。
五月 晋の制度整備
- 五月庚申、晋王は五等爵制を復し、騎督以上六百余人を封じた。平蜀の論功である。
- 甲戌、年号を咸熙と改めた。
- 癸未、舞陽文宣侯司馬懿を追尊して晋宣王、忠武侯司馬師を景王とした。
永安救援
- 羅憲は攻囲を受けること六か月、救援はなお届かず、城中では病人が半ばに達した。ある者は城を捨てて逃げよと勧めたが、羅憲は、城主として百姓の仰ぐところなのに危急にあってこれを棄てるのは君子のすることではない、ここで死ぬまでだと言った。
- 陳騫は晋王に救援を求め、荊州刺史胡烈に歩騎二万を率いさせて西陵を攻めさせた。秋七月、呉軍は包囲を解いた。
- 晋王は羅憲に旧任をそのまま与え、陵江将軍を加え、万年亭侯に封じた。
晋王府の制度構築
- 晋王は司空荀顗に礼儀を、中護軍賈充に法律を、尚書僕射裴秀に官制を議させ、太保鄭冲に総裁させた。
呉の広州分置と孫休の死
- 呉は交州を分けて広州を置いた。広州は番禺、交州は龍編を治所とした。
- 呉主孫休は病が重く、言葉を発せなくなったため、手ずから書いて丞相濮陽興を呼び入れ、太子孫𩅦に拝礼させ、自らその腕を取って太子を指し、後事を託した。
- 癸未、孫休は崩じ、景帝と諡された。年三十であった。
- 群臣は朱皇后を皇太后とした。
呉主孫皓の即位
- 蜀が滅び、交趾も離反したことで、呉では国内が不安に包まれ、年長で強い君主を求める声が高まった。
- 左典軍万彧は、かつて烏程令として烏程侯孫皓と親しく、その才識明断は孫策にも比肩し、学問を好み法度を守ると濮陽興・張布にたびたび称賛していた。
- 濮陽興と張布は朱太后を説き、孫皓を後嗣にしようとした。朱太后は、自分は寡婦で国家大事は知らないが、呉国が傾かず宗廟が頼れるならよいと答え、これを認めた。
- こうして孫皓が迎え立てられ、元興と改元、大赦が行われた。孫皓は孫和の子である。
八月 司馬炎の台頭
- 八月庚寅、中撫軍司馬炎に相国の事を副えて助けさせた。
- 以前、鍾会の蜀伐ちに際し、辛憲英は羊祜に対し、鍾会は驕恣で久しく人の下にいる器ではなく、異志を抱くのではないかと憂えていた。
- 鍾会はその子羊琇を参軍に求めたが、辛憲英は、かつて国家のために恐れた禍が今日はわが家に及ぶと嘆いた。晋王はその任命を許さなかった。
- 辛憲英は羊琇に、軍旅の間で人を救うものは仁恕だと戒めた。羊琇はついに無事帰還し、鍾会の謀反を諫めた功で関内侯に封じられた。
九月 司馬炎を撫軍大将軍に
- 九月戊午、司馬炎を撫軍大将軍とした。
- 辛未、呂興を安南将軍・都督交州諸軍事とし、南中監軍霍弋に遥かに交州刺史を兼ねさせ、現地で長吏を便宜任用する権限を与えた。
- 霍弋は建寧の爨谷を交趾太守とし、董元・毛炅・孟幹・孟通・爨能・李松・王素らに兵を率いさせ、呂興を助けに向かわせた。
- しかしその到着前に、呂興は功曹王統に殺された。
呉の宮廷変動
- 呉主孫皓は朱太后を景皇后へ降格し、父孫和を文皇帝と追諡し、母何氏を太后とした。
- 冬十月丁亥、寿春で捕えた呉の徐紹を散騎常侍に、孫彧を給事黄門侍郎に任じた。彼らを呉への使者として用いるためであり、その家族が魏にいる場合も必ずしも人質として留めず、本人に同行させて広く信義を示そうとした。晋王はこの機に呉主へ書を送り、利害得失を説いた。
世子決定
- 司馬昭は王粛の娘を娶って司馬炎と司馬攸をもうけ、司馬攸は景王司馬師の後継とされていた。
- 司馬攸は孝友で才能も多く、名声は司馬炎をしのぐほどで、司馬昭はしばしば「天下は本来景王の天下であり、自分は相位を預かるのみ、百年後の大業は攸に帰すべきだ」と語っていた。
- 一方、司馬炎は長い髪が地に垂れ、手が膝を過ぎるという異相を持ち、裴秀に人相の有無を問うてその容貌を示した。裴秀はこれによって司馬炎に心を寄せた。
- 羊琇もまた司馬炎と親しく、時政の得失や将来の方策を前もって記させ、司馬昭に問われたときに即応できるよう助けた。
- 司馬昭が司馬攸を世子にしようとすると、山濤は長幼を乱すのは礼に背き不祥だと諫めた。賈充・何曾・裴秀も、中撫軍には君人の徳・聡明神武の才・人臣にあらざる天表があるとして、司馬炎を推した。
- 司馬昭はついに意を定め、丙午、司馬炎を世子に立てた。
孫皓政権の始まり
- 呉主孫皓は太子孫𩅦とその三弟を王に封じ、妃の滕氏を皇后に立てた。諸子の特殊な名の読みについて胡注は字音を示している。
- 即位当初の孫皓は、士民をいたわる優詔を出し、倉を開いて貧民を救い、宮女を放って妻なき者に配し、苑中の禽獣も放つなどしたため、当時は明主と称えられた。
- だが、ひとたび位を固めると、たちまち粗暴で驕慢となり、猜疑心が強く、酒色を好むようになり、人々は大いに失望した。
- 濮陽興と張布はひそかにこれを悔いたが、ある者が二人を孫皓に讒した。
- 十一月朔、両名が朝見すると、孫皓はこれを捕らえて広州へ流し、途中で殺したうえ三族を誅した。
- その後、皇后の父滕牧を衛将軍・録尚書事とした。滕牧はかつて孫綝に殺された滕胤の同族である。
その年の施策
- この年、屯田官が廃止された。