資治通鑑魏紀九 高貴鄉公 甘露 二年 257年

春三月〜夏四月 盧毓の死と呉主孫亮の親政

  • 三月、大梁成侯盧毓が死去した。
  • 四月、呉主は正殿に臨んで大赦し、みずから政務を親裁し始めた。
  • 孫綝の上奏にはしばしば難詰を加えた。
  • また十五歳以上十八歳以下の将兵子弟三千余人を選抜し、勇力ある者に率いさせて苑中で訓練した。
  • 呉主はこの新軍を自分とともに成長させたいと語った。
  • しばしば中書省へ出向いて孫権時代の旧事を調べ、先帝の特命処理を例に、大将軍の奏事にただ「可」と記すだけでよいのかと左右に問うた。
  • さらに黄門が中蔵から蜜を取り出す際に鼠の糞を混入した事件を見抜き、糞の外だけが湿り中が乾いていることから、後入れであると断定して黄門を白状させた。機敏な判断に左右は驚いた。

諸葛誕の不安と淮南の反乱準備

  • 征東大将軍諸葛誕は、夏侯玄・鄧颺らと親しかったうえ、王凌・毌丘倹が相次いで誅滅されたため、自分の将来にも不安を抱いた。
  • そこで私財を傾けて施しを行い、罪人を私に赦し、揚州の侠客数千人を養って死士とした。
  • 呉が徐堨へ向かう動きを利用し、寿春防衛のため十万の兵と、臨淮築城の許可を求めた。
  • 司馬昭が政権を握ると、長史賈充は四征将軍の意向を探るため使者を出すよう進言した。
  • 賈充が淮南に赴き、洛陽の賢者は皆禅譲を望んでいるがどう思うかと諸葛誕に探りを入れると、誕は激怒し、魏の社稷を人に渡すなど許されぬ、洛中に変があれば命をかけると答えた。
  • 賈充は帰って、諸葛誕は再び揚州を治めて士衆の心を得ており、召せば必ず叛くと報告した。
  • 召さなければ反乱は遅いが大きくなり、召せば早く起きて却って禍は小さいとして、司馬昭は召命を決めた。
  • 甲子、諸葛誕を司空に任じ、京師へ召還する詔が出た。
  • 諸葛誕は揚州刺史楽綝が自分を監視していると疑ってこれを殺し、淮南・淮北の郡県の屯田兵十余万と、新附の揚州兵四、五万を集め、穀物を蓄えて籠城を決めた。
  • さらに長史呉綱に少子の靚を伴わせて呉へ送り、臣従して救援を請い、牙門の子弟を人質に差し出すとも申し出た。

六月 孫壱の来奔と魏の出征

  • 呉では、滕胤・呂拠の妻がいずれも夏口督孫壱の妹であった。
  • 孫綝は鎮南将軍朱異を虎林から武昌へ進めて孫壱を襲わせたが、孫壱は部曲を率いて魏へ逃れた。
  • 乙巳、魏は孫壱を車騎将軍・交州牧・呉侯に封じ、開府・袞冕・赤舄など厚遇を与えた。これは離反者を厚く遇して招撫を示すためであった。
  • 司馬昭は皇帝と太后を奉じて諸葛誕討伐に向かった。後方で両宮を利用した変事が起こるのを恐れたためである。
  • 呉綱が呉に到着すると、呉は大いに喜び、全懌・全端・唐咨・王祚ら三万と文欽を救援に向かわせ、諸葛誕には左都護・仮節・大司徒・驃騎将軍・青州牧・寿春侯の位を与えた。
  • 甲子、車駕は項に到着し、司馬昭は二十六万を率いて丘頭に屯した。
  • 鎮南将軍王基が鎮東将軍の職を行い、陳騫らとともに寿春を包囲した。
  • 包囲がまだ完成しないうちに、文欽・全懌らは城東北の山地を利用して部隊を城中に突入させた。寿春城北の八公山を指す。

王基の持久策

  • 司馬昭は王基に対し、軍をまとめて堅壁とし、さらに北山へ移って守るよう命じた。
  • しかし王基は、今は囲いを固めて備えを整えるべきであり、ここで移動すれば人心が動揺すると判断し、命令に従わず現地を守った。
  • 上疏して、動かぬ山のように構えるのが用兵の要であり、深い塹壕と高い塁で諸軍の心は定まっていると説いた。
  • その意見は採用され、王基らは四方を囲み、内外二重の包囲陣を築いた。
  • 文欽らはたびたび出撃したが、そのたびに撃退された。
  • 司馬昭はまた石苞・州泰・胡質らに精鋭を与えて遊軍とし、外部救援に備えさせた。
  • 州泰は陽淵で朱異を破り、二千人を斬傷した。

秋七月〜九月 呉軍の敗退と朱異の誅殺

  • 孫綝は大軍を発して鑊里に屯し、さらに朱異・丁奉・黎斐らに寿春包囲の解除を命じた。
  • 朱異は輜重を都陸に置き、黎漿へ進んだ。
  • しかし石苞・州泰に破られ、さらに胡烈が奇兵五千で都陸を襲って兵糧を焼き払った。
  • 朱異は兵に葛の葉を食べさせながら撤退した。
  • 孫綝はさらに決死戦を命じたが、朱異は兵が飢えていて戦えないとして従わなかった。
  • 九月己巳、孫綝は怒って鑊里で朱異を斬り、辛未には軍を建業へ引き揚げた。
  • 胡三省は、寿春を救えないのは朱異個人の罪ではなく、本気で救うなら荊・揚の大軍で襄陽方面を突くべきで、孫綝の戦略こそ誤っていたと論じる。
  • 呉人は救援失敗のうえ名将を殺した孫綝を深く怨んだ。

司馬昭の反間

  • 司馬昭は、朱異は寿春へ達する前に呉に殺されたのであり、これは寿春方への責任転嫁で、諸葛誕らにまだ救いがあると思わせるためだと見抜いた。
  • そこで包囲を固めて脱出に備えつつ、さまざまな偽情報を流した。
  • 「呉の救援はまもなく着く」「大軍は食糧不足で淮北へ穀を求めに兵を分けたから長くは持たない」と宣伝し、城中を油断させた。
  • やがて城中は食糧難になり、外援も来なかった。

十一月〜十二月 蒋班・焦彞の降伏と全氏の離反

  • 諸葛誕の腹心である蒋班・焦彞は、今こそ全軍で一面に突破すべきであり、座して死を待つべきではないと進言した。
  • 文欽も、中国は年々疲弊しており、ここを一年守れば内変が起こる可能性があるとして籠城継続を支持したが、蒋班・焦彞は強く決戦を主張した。
  • 文欽はこれに怒り、諸葛誕も二人を殺そうとしたため、十一月、蒋班・焦彞は城を越えて魏に降った。
  • 一方、全懌の兄の子である全輝・全儀は建業で家族と争い、母や部曲数十家を連れて魏に亡命していた。
  • この時、全懌・全靖・全翩・全緝が寿春城中にいたため、司馬昭は鍾会の策を用い、全輝・全儀の手紙を偽作させて城内へ届けさせた。
  • その内容は、呉では寿春救出に失敗した諸将の家族を皆殺しにする怒りが起こっているので、逃げて魏に帰順すべきだというものであった。
  • 十二月、全懌らは数千人を率いて城門を開いて魏に降り、城内は大いに動揺した。
  • 全懌は平東将軍・臨湘侯に封じられ、全端らもそれぞれ官爵を受けた。

蜀漢 姜維の関中進出

  • 姜維は、魏が関中兵を淮南へ振り向けたのを見て、その隙に秦川へ進もうとした。
  • 数万を率いて駱谷から沈嶺に至った。
  • 長城には大量の兵糧があったが守備兵は少なかったため、司馬望と鄧艾が進んでこれを守った。
  • 姜維は芒水に陣し、しばしば挑戦したが、司馬望と鄧艾は応じなかった。
  • 蜀では姜維のたび重なる出兵に民が苦しみ、譙周は『仇国論』を作ってこれを諷諫した。
  • その要旨は、弱国が強国に勝つには善政と忍耐が必要で、秦末のような天下瓦解の時代ではない以上、漢高祖のような一挙の成功を望むべきではなく、疲弊した民をさらに戦争で苦しめれば、かえって国が崩れるというものであった。