資治通鑑魏紀九 高貴鄉公 甘露 元年 256年

春正月 蜀漢の姜維が大将軍となる

  • 蜀漢では姜維が大将軍に進められた。

二月 帝が群臣・儒者と議論する

  • 丙辰、皇帝は太極東堂で群臣を宴し、夏の少康と漢の高祖の優劣を論じ、少康の方が勝るとした。
  • その趣旨は、少康は滅亡後の困難な立場から徳と計略で旧業を回復したのに対し、漢高祖は乱世の勢いと権変による成功が多く、父・子・君としての行状にも欠点があった、というものであった。

夏四月 司馬昭への待遇加増と帝の学問

  • 大将軍司馬昭に、袞冕の服と赤舄が下賜された。これは九錫へ進む前触れとみなされた。
  • 丙辰、皇帝は太学に赴き、『書』『易』および礼について諸儒と議論し、誰も太刀打ちできなかった。
  • ただし胡三省は、当時の議論は経義の細部や王粛・鄭玄の説の異同を論じるにとどまり、君主が学ぶべき実質的な帝王学とは言い難いとまとめている。

東堂の講論と側近たち

  • 皇帝は中護軍司馬望、侍中王沈、散騎常侍裴秀、黄門侍郎鍾会らと東堂で講論し、文章を作ることも多かった。
  • とくに裴秀を「儒林丈人」、王沈を「文籍先生」と呼んで特別待遇した。
  • 皇帝は気がせいて召し出しを急ぐ性格で、職務上は宮外にいる司馬望には、急行用の追鋒車と虎賁五人を与え、集まりのたびに急行させた。
  • 裴秀は裴潜の子である。

六月 改元

  • 丙午、甘露元年に改元した。これは甘露の降下にちなんだ改元とされた。

秋七月 姜維の再出兵と段谷の敗北

  • 姜維は鍾提にあって再出兵を議したが、多くはその兵力が尽きたとみた。
  • これに対し安西将軍鄧艾は、前年の洮西の敗北で魏軍も損耗しているが、蜀には勝勢があり、地の利・兵の熟練・水陸の便などからみて、次の侵攻は必ずあると予測した。
  • その後、姜維は祁山に出たが、鄧艾が備えていると聞いて董亭から南安へ向かった。
  • 鄧艾は武城山に拠ってこれを拒み、姜維は夜に渭水を渡って上邽へ転進したが、段谷で鄧艾に大敗した。
  • 鄧艾はこの功により鎮西将軍・都督隴右諸軍事となった。
  • 蜀側では、姜維が上邽で胡済と合流する約束だったが、胡済が期限に遅れたため敗北し、兵は四散して戦死者も多かった。
  • 蜀国内では姜維への怨みが高まり、姜維は謝罪して自ら降格を求め、衛将軍として大将軍の職務を代行する形に改められた。

八月〜九月 魏の人事

  • 庚午、司馬昭に大都督の号が加えられ、奏事の際に名を避けず、黄鉞を仮授される特権も与えられた。
  • 癸酉、太尉司馬孚が太傅となった。
  • 九月、司徒高柔が太尉に進んだ。

呉の北伐計画と孫峻の死

  • 文欽は呉に対し、魏討伐の利益を説いた。
  • 孫峻は文欽・呂拠・劉纂・朱異・唐咨らを江都から淮・泗方面へ進ませ、青州・徐州を狙わせた。
  • しかし孫峻は石頭で送別中に急病となり、後事を従弟の偏将軍孫綝に託した。
  • 丁亥、孫峻が死去すると、呉は孫綝を侍中・武衛将軍・都督中外諸軍事とし、呂拠らを呼び戻した。

呂岱の死と徐原のこと

  • 己丑、呉の大司馬呂岱が九十六歳で死去した。
  • 呂岱はかつて徐原を見出し、衣服を与えて議論の相手とし、のちに侍御史にまで取り立てた。
  • 徐原は忠実で率直、呂岱の過失があれば公然と諫めたが、呂岱はそれを自分にとっての益友ゆえだと賞賛した。
  • 徐原の死に際して呂岱は深く嘆き、自分が過ちを聞ける友を失ったと語った。

冬十月 呂拠・滕胤と孫綝の対立

  • 呂拠は孫綝が孫峻の後を継いだことに激怒し、諸将と連名で滕胤を丞相に推した。
  • 孫綝は逆に滕胤を大司馬として武昌に駐屯させ、呂拠の代わりに呂岱の職を継がせた。
  • 呂拠は兵を率いて帰還し、滕胤に孫綝廃立を共に図ろうと伝えた。
  • 孫綝は従兄の孫憲を江都へ派遣して呂拠を迎え撃ち、文欽・劉纂・唐咨らにも攻撃を命じた。
  • また侍中華融と中書丞丁晏を滕胤のもとに送って、速やかに武昌へ赴くよう促した。
  • 滕胤は危機を悟って華融・丁晏を留め、兵を集めて自衛し、典軍楊崇・将軍孫咨に孫綝討伐を告げた。
  • 孫綝を非難する書を作らせたが、孫綝は聞き入れず、逆に滕胤反逆を奏上し、劉丞らに命じて滕胤を攻囲させた。
  • 滕胤は華融らに詔書の偽作を迫ったが拒まれ、彼らを殺した。
  • 宮城東門の蒼龍門へ向かえば兵が孫綝を見捨てて自分に付くと勧める者もあったが、滕胤は夜半であり呂拠の到着を待って決起を躊躇した。
  • 部下には「呂侯の兵は近い」と言い聞かせ、将士は皆よく戦った。
  • しかし夜明けまでに呂拠は着かず、孫綝軍が大挙して至って滕胤と将士数十人を殺し、一族三族を滅ぼした。

呉の改元と呂拠の死

  • 己酉、呉は大赦して太平と改元した。
  • 呂拠に魏へ逃れるよう勧める者もあったが、呂拠は孫策以来の呉に仕えてきた家柄として叛臣となるのを恥じ、自害した。

魏の人事と王祥

  • 鄭冲が司徒、盧毓が司空となった。盧毓は王昶・王観・王祥への譲位を願ったが許されなかった。
  • 王祥は非常に孝行で、継母朱氏に虐げられてもますます恭順であった。
  • 異母弟の王覧は幼時から王祥をかばい、長じては自分の妻まで王祥の妻とともに苦役を分かち、母の虐待をやわらげた。
  • 母が王祥に毒を盛ろうとした際には王覧がそれを察知して防ぎ、以後、母の与える食物を自分が先に試したので、母も害意をやめた。
  • 王祥は漢末の乱に三十余年隠棲し、母の死には衰え果てるほど喪に服した。
  • のち徐州刺史呂虔に別駕として起用され州政を任されると、治績は大いに上がり、民はその功を歌にした。

十一月 孫綝の専横と孫憲の死

  • 十一月、孫綝は大将軍に昇った。
  • 孫綝は位をかさに着て傲慢で、無礼が多かった。
  • 従弟の孫憲はかつて諸葛恪誅殺に功があり、孫峻の時代には厚遇され、右将軍・無難督・平九官事にまで進んでいた。
  • だが孫綝はこれを冷遇したため、孫憲は将軍王惇とともに孫綝暗殺を図った。
  • 計画が漏れ、孫綝は王惇を殺し、孫憲も毒を飲んで死んだ。