資治通鑑魏紀八 邵陵厲公下 嘉平五年 253年

春正月:費禕の暗殺と魏の戦後処理

  • 春正月朔、蜀の大将軍費禕は漢寿で諸将を集めて大宴会を開いたが、その席にいた郭循に刺殺された。費禕は人を広く愛して疑うことが少なく、新たに帰服した者にも過度に信を置いたため、以前から張嶷に注意を受けていたが聞き入れず、ついに禍を招いた。
  • 蜀では郭循に長楽郷侯を追封し、その子に爵位を継がせた。
  • 魏では、東関での敗報を受けた王昶・毋丘儉がそれぞれ屯営を焼いて退却した。朝廷では諸将の降格処分が論じられたが、大将軍司馬師は「諸葛誕の進言を用いなかった自分の責任だ」として諸将を赦し、監軍であった弟の司馬昭だけを減封した。あわせて諸葛誕を鎮南将軍・都督豫州、毋丘儉を鎮東将軍・都督揚州とした。
  • この年、雍州刺史陳泰が并州と協力して胡族を討つよう願い出て、司馬師はこれを許した。しかし軍の編成が整わぬうちに、新興・鴈門の胡族が遠征を恐れて反乱した。司馬師はこれも自らの過失として陳泰を責めず、群臣の心をつなぎとめた。

戦敗を自責する統治姿勢

  • 習鑿歯は、司馬師が二つの失敗を自分の責任としたことで過失は薄れ、かえって事業が盛んになったと評した。失敗を隠し、功績だけを誇るようでは上下の心が離れるのであり、君主や執政は自らの過ちを認める理を国政に用いるべきだと論じている。
  • 光禄大夫張緝は司馬師に、呉の諸葛恪は勝利してもいずれ誅されるだろうと述べた。理由は、その威勢が主君を圧し、功績が国中を覆うほど大きいためだというものであった。

二月以後:諸葛恪の北伐強行

  • 二月、呉軍が東興から帰ると、諸葛恪は太傅としての封爵・職権をさらに加えられ、内外諸軍を総督した。これにより彼は敵を軽視する心を強め、再び出兵を望んだ。
  • 大臣たちは、たび重なる出兵で民力が疲弊しているとしてそろって諫めた。中散大夫蔣延は強く反対したが、諸葛恪はこれを退け、自ら論を著して北伐の必要を説いた。そこでは、魏は今こそ衰えの時であり、守勢に安住するのは後患を残すと主張した。
  • しかし聶友は、大行皇帝の代に東関で大勝したのは敵が遠来して自滅した幸運にも助けられたものであり、今は兵を休めて隙を待つべきだと諫めた。諸葛恪は返書でその意見を退けた。
  • 滕𦙍もまた、内政を安定させたうえで外敵を挫いた今こそ、民を休めるべきであり、遠征すればかえって失敗の責任を招くと諫めたが、諸葛恪は聞き入れなかった。

三月・夏:呉と蜀の同時進攻

  • 三月、諸葛恪は州郡から二十万の兵を発して再び魏へ侵攻し、滕𦙍を都下督として留守を統括させた。
  • 夏四月、魏は大赦を行った。
  • 蜀では姜維が西方の風俗に通じ、自らの武略を頼んで羌・胡を味方に引き入れ、隴西以西を切り取って保有できると考えていた。費禕の生前は大軍動員を抑えられ、兵数も一万を超えなかったが、費禕の死後、ついにその志を実行し、数万人を率いて石営から出て狄道を包囲した。

呉の新城包囲と魏の対応

  • 淮南へ入った諸葛恪は住民を駆り立てて連行したが、諸将の進言を受け、深入りして住民を追うよりも合肥新城を囲んで魏の救援軍を誘い、これを撃つ策に改めた。五月、軍を返して新城を包囲した。
  • 魏では太尉司馬孚に二十万の軍を督させて救援に向かわせた。大将軍司馬師が虞松に東西両面作戦への対処を問うと、虞松は、諸葛恪は新城の前に釘付けとなれば兵糧と暑さに苦しみ自滅し、姜維もまた長期戦のできる根拠地のない遠征軍にすぎないと説いた。
  • 司馬師はその意見を採用し、郭淮・陳泰に関中の兵を率いて狄道の囲みを解かせ、毋丘儉には防御に専念させ、新城は呉に委ねて持久戦に持ち込んだ。陳泰が洛門まで進むと、姜維は兵糧が尽きて撤退した。

新城防衛戦

  • 揚州牙門将の張特は新城を守り、兵は合わせて三千ほど、病死・戦死は半数を超えていた。諸葛恪は土山を築いて猛攻したため、城はまさに陥落寸前となった。
  • 張特は呉軍に対し、魏の法では百日以上救援なく降伏した者は家族に罪が及ばないとして、明日までに降伏者名簿を出すと偽って時間を稼いだ。その夜のうちに家屋の資材や柵を集めて欠損を修復し、二重防御を作った。翌朝、死戦あるのみと告げたため、呉軍は怒って攻めたが落とせなかった。
  • ちょうど酷暑となり、呉軍では下痢や浮腫の病が広がり、多数の死傷者が出た。将校たちが病人の多さを報告しても、諸葛恪は虚偽だとして斬ろうとしたため、誰も実情を告げなくなった。彼は内心では失策を悟りながら、城を落とせぬ恥から怒りをあらわにした。朱異は軍事上で意見が食い違っただけで兵権を奪われて建業へ追い返され、蔡林も策を容れられず魏へ奔った。

秋七月:諸葛恪の退却と失望

  • 秋七月、呉軍はついに新城を解いて退いた。将兵は傷病のため道中に倒れ、死体が溝や谷に横たわるほどで、悲嘆の声があふれた。それでも諸葛恪は平然として江辺に一か月とどまり、潯陽で屯田を起こす計画まで立てた。召還命令が相次いでようやく軍を返したため、民衆の失望と怨嗟はいっそう強まった。
  • 汝南太守鄧艾は司馬師に、孫権没後の呉では大臣もまだ一体化しておらず、諸葛恪は内政の基盤を固めずに外征へ走って国力をすり減らした以上、破滅は近いと進言した。

秋八月から冬十月:諸葛恪誅殺

  • 八月、諸葛恪が建業へ帰ると、威圧的な政治をさらに強め、任官や宿衛も側近中心に改め、また青州・徐州方面への出兵準備まで命じた。これが人々の疑念と不満を深めた。
  • 孫峻は民怨に乗じて諸葛恪が変事を企てていると呉主孫亮に訴えた。
  • 冬十月、孫峻は酒宴を設けて諸葛恪を招いた。前夜、諸葛恪は心神が乱れ、一晩中眠れず、家でも妖異が続いていたため不吉を感じた。入宮をためらう諸葛恪に、張約・朱恩らは異変の気配を密書で知らせ、滕𦙍も引き返すよう勧めたが、諸葛恪は意に介さず入殿した。
  • 殿上で孫峻は薬酒を勧めて油断させ、やがて「詔により諸葛恪を捕える」と宣して斬りかかった。諸葛恪は剣を抜く暇もなく殺され、張約も応戦したが傷つけられた。殿上の武衛兵は孫峻に制され、その場はただちに平静を装って酒宴が続けられた。
  • 諸葛恪の子竦・建も母を連れて逃げようとしたが追って殺され、諸葛融、その子ら、外甥張震、常侍朱恩らも三族皆殺しとなった。諸葛恪の遺体は粗末に処理されて石子岡に捨てられた。
  • その後、臨淮の臧均が上表し、すでに大刑は十分に国人を震え上がらせたのだから、死者にさらに怒りを尽くすべきではないとして、諸葛恪の遺骸の収葬を願い出た。呉主と孫峻はこれを許し、旧吏に葬らせた。
  • もともと諸葛恪は若くして盛名があったが、父の諸葛瑾や張承、陸遜らはその性格を危ぶみ、家を保てぬ人物だと見ていた。蜀の張嶷も諸葛瞻に書を送り、幼主を離れて強情に専権するのは危険だと警告しており、結果はその通りになった。
  • 呉では群臣が孫峻を太尉、滕𦙍を司徒に推したが、孫峻に媚びる者が司徒では軽いと唱え、孫峻は丞相・大将軍・督中外諸軍事となった。しかも御史大夫を置かなかったので、政権の専断が明白となり士人は失望した。滕𦙍は親戚関係から辞位を願ったが許されず、表面上は従前どおりの協調が保たれた。
  • 斉王孫奮は諸葛恪誅殺を聞いて蕪湖にとどまり建業の変化をうかがったが、諫めた者を殺したため庶人に落とされ章安へ移された。
  • 南陽王孫和の妃張氏は諸葛恪の甥であった。以前、諸葛恪が遷都を考えて武昌宮を修造させたこともあり、人々は孫和を迎えて立てるのではないかと噂した。恪の誅殺後、孫峻はこれを口実に孫和の璽綬を奪って新都へ移し、さらに使者を送って自害させた。張妃も夫に従って死んだが、何氏だけは子の孫皓とその弟たちを育てるため生き残り、後に彼らの命を保った。

魏の改元前夜:高貴郷公紀の始まり

  • この年の末、高貴郷公曹髦の紀年が始まる。正式な改元は冬十月で、以後は正元元年となる。

高貴郷公即位前の政争

  • 春二月、中書令李豊が殺された。李豊は若いころから清名があり、その父李恢は名声が早く立ちすぎるのを憂えていた。曹爽政権期には司馬懿と曹爽の間で巧みに身を置いたため巻き添えを免れ、司馬師執政後は中書令に抜擢された。
  • しかし李豊は私心では夏侯玄と親しく、皇帝もたびたび李豊を召して語っていた。司馬師はこれを怪しみ問い詰めたが、李豊が実情を語らなかったため、刀の柄頭で打ち殺した。死体は廷尉へ送られ、子の李韜、夏侯玄、張緝らも逮捕された。
  • 鍾毓の取り調べでは、李豊らは皇帝が貴人冊立の儀で臨軒する日に宮門の兵を利用して司馬師を誅し、夏侯玄を大将軍、張緝を車騎将軍とする計画だったとされた。庚戌、李韜・夏侯玄・張緝・蘇鑠・楽敦・劉賢らは三族誅滅となった。
  • 夏侯玄は以前から司馬氏との共存は難しいと見ており、入蜀した夏侯霸にも従わなかったが、司馬懿没後に安全だと見る許允へ、なお司馬師・司馬昭兄弟は自分を容れないだろうと語っていた。獄中でも罪状書の作成を拒み、名士としての節を保ったまま東市で処刑された。
  • 李豊の弟の李翼は兗州刺史で、逮捕使者が来ると妻の荀氏に呉へ逃れるよう勧められたが、幼い子らを思って踏みとどまり、自身のみが連座して死ぬ道を選んだ。
  • 李恢の旧友杜畿は、李豊ではなく郭沖こそ家を保つと見抜いていたと伝えられる。傅嘏もまた、夏侯玄・何晏・鄧颺はいずれも実が伴わず、家を滅ぼすと見て遠ざけており、李豊についても虚飾と小智が多く機密政務を担えば必ず死ぬと評していた。
  • 辛亥、大赦が行われた。

皇后交代と姜維の侵攻

  • 三月、皇后張氏が廃され、夏四月には奉車都尉王夔之の娘が皇后に立てられた。
  • 狄道の長李簡はひそかに蜀へ降伏を願い出た。六月、姜維は隴西へ侵攻した。
  • 中領軍許允は李豊・夏侯玄と親しかったが、秋に鎮北将軍・都督河北諸軍事として出されることになった。皇帝は別れに際して特に近くへ呼び寄せたが、まもなく旧罪を奏上され、廷尉に送られて楽浪へ流される途中で死んだ。

呉の不安定化

  • 呉では孫峻が驕慢・淫暴を極め、国人は顔色をうかがった。司馬桓は孫峻を殺して孫登の子である呉侯孫英を立てようとしたが失敗し、一党は皆殺しとなった。

九月:魏帝廃立

  • 魏の皇帝は李豊の死に強い不満を抱き、安東将軍司馬昭を許昌から召して姜維討伐を命じた。九月、司馬昭が軍を率いて入朝した際、皇帝は平楽観に出て閲兵した。側近たちは、この辞見の場で司馬昭を殺して兵を率いて退くよう勧め、司馬師もあらかじめ詔書を書いていたが、皇帝は恐れて実行できなかった。
  • そこで司馬師は皇帝廃立を決意した。甲戌、皇太后の令として群臣を集め、皇帝が放縦で芸人を近づけるなど天命を承けるにふさわしくないとし、群臣も逆らえず、璽綬を収めて斉王として藩に帰すことを奏上した。
  • 郭芝がこれを太后に伝えると、太后は不快感を示したが、司馬師の兵が外にあると脅され、やむなく侍御に璽綬を脇へ置かせた。司馬師は大いに喜び、廃帝は王車に乗せられて西宮へ移された。司馬孚は悲しみに耐えず、群臣の多くも涙を流した。
  • さらに太后は、彭城王ではなく高貴郷公曹髦を立てるべきだと主張した。彼は文帝の長孫であり、小宗が大宗を継ぐ礼にもかなうというのである。丁丑、司馬師は群臣を再召集してこの令を示し、元城にいた高貴郷公を迎えることに決まった。
  • 冬十月癸丑、高貴郷公は玄武館に至った。先帝ゆかりの場所を避けて西廂にとどまり、法駕での迎えも断った。庚寅、洛陽に入ると西掖門南で群臣の拝礼に答拝し、止車門でも乗輿を用いず、自分はまだ皇太后に召された一臣にすぎないとして徒歩で太極東堂へ進んだ。その日のうちに太極前殿で即位し、百官はみな喜んだ。大赦を行い、改元して正元元年とし、廃された斉王のため河内に宮殿を築いた。

年末の軍事と呉の太廟創建

  • 蜀の姜維は狄道から進んで河関・臨洮を奪ったが、将軍徐質との戦いで蜀の盪寇将軍張嶷が戦死し、蜀軍は退いた。
  • このころ、揚州刺史文欽は武勇に優れ、かつて曹爽に愛されたが、司馬師に抑えられて怨みを抱いていた。鎮東将軍毋丘儉も夏侯玄・李豊と親しく、彼らの死後に不安を募らせ、文欽と結んだ。子の毋丘甸は、父が重任の地位にありながら国家の傾覆を黙視していると責め、毋丘儉はこれに同意した。
  • 冬十月、呉ではそれまで長沙臨湘の武烈皇帝廟だけで祭っていたが、初めて建業に太廟を作り、大帝孫権を太祖として祀った。