春二月・三月 中書の重臣退任
- 中書令孫資、中書監劉放、司馬衛臻が相次いで引退し、侯として邸第に退いた。
夏四月・五月 三公人事と徐邈の辞退
- 司空高柔が司徒、光禄大夫徐邈が司空となった。
- しかし徐邈は、三公は道を論じ国を経る大官であり、適任者がいなければ空席であるべきで、老病の身が辱めてはならないとして固辞した。
- 五月、蜀漢の費禕が漢中へ駐屯した。蔣琬・費禕の時代には、本人が外にいても賞罰や刑政はまず彼らの裁断を仰いでから施行された。
- 費禕は性質が謙虚で、功名は蔣琬とほぼ並んだ。
秋九月 王凌の任官と蜀の涪陵平定
- 王凌が司空となった。
- 涪陵の夷が反乱すると、蜀漢の車騎将軍鄧芝が討って平定した。
曹爽の奢侈と桓範の警告
- 曹爽は奢侈の度を越し、衣食や服飾を天子並みにし、尚方の珍品を家に満たした。
- さらに先帝の才人を私に取り、地下室風の豪奢な部屋を作って、何晏らと酒宴にふけった。
- 弟の曹羲はしばしば涙を流して諫めたが、曹爽は聞かなかった。
- 曹爽兄弟がそろって出遊することが多かったため、司農桓範は、禁兵を掌握する者がそろって外出するのは危険で、もし城門を閉ざされたら誰が中へ入れてくれるのかと警告した。
- 曹爽は、そんなことをする者がいるはずがないと笑って取り合わなかった。
孫礼と司馬懿の会話
- 清河と平原の境界争いは八年たっても決着せず、冀州刺史孫礼は明帝が平原王を封じた時の地図を用いるよう求めた。
- 曹爽は清河側の訴えを信じて地図の使用を認めず、孫礼の上疏の言辞が強かったため怒り、怨望の罪で五年徒刑相当としたが、実際の服役はさせなかった。
- 後に孫礼が并州刺史として赴任前に司馬懿に会った際、司馬懿は官位への不満かと探った。
- 孫礼は、そうではなく、司馬懿が伊尹・呂尚のように魏室を支えると信じていたのに、今や国家が危ういのに黙しているのが悲しいのだと泣いて訴えた。
- 司馬懿は「忍ぶべからざることを忍べ」とだけ答えた。
冬 司馬懿の病装い
- 河南尹李勝は荊州刺史として出る前、司馬懿に別れを告げに行った。
- 司馬懿は重病であるかのように装い、衣も自分で整えられず、粥も口元からこぼし、声も弱く、死が近いように見せた。
- 李勝が荊州赴任だと言っても、司馬懿は并州と聞き違えるふりをし、言葉も混乱させた。
- 李勝は帰って曹爽に、司馬懿はもはや屍のようなもので心配無用だと報告し、後日も涙ながらに病状の重さを伝えた。
- こうして曹爽らは司馬懿への備えをますます怠った。
十二月 管輅の忠告
- 何晏は、術数に通じる管輅を招いて『易』を論じた。鄧颺も同席した。
- 何晏は自分が三公に至るか占わせ、また青蠅が鼻に群がる夢の意味を問うた。
- 管輅は、徳と謙恭によってこそ福を保てるのであり、今の何晏は位勢が重いのに徳が乏しく、威ばかりが先に立っていると戒めた。
- また、鼻は顔相で「天中」に当たり、高位を保つ象徴だが、そこに青蠅が集まるのは危うい兆しであるとして、分を減じ礼を守るなら三公に至り災いも避けられると忠告した。
- 鄧颺は古臭い常談だと嘲ったが、管輅は死者に物申すのに何を恐れるのかと言い切った。
呉の交州平定
- 呉では交趾・九真の夷賊が城邑を落として交州全体が騒乱した。
- 呉主は陸胤を交州刺史・安南校尉に任じた。
- 陸胤は恩信をもって諭し、五万余家を降伏させ、州境を再び安定させた。
司馬懿、曹爽誅滅を密議
- 司馬懿はひそかに子の中護軍司馬師、散騎常侍司馬昭らと曹爽誅殺を計画した。