正月 呉の丞相任命
- 春正月、呉主は上大将軍陸遜を丞相とした。州牧・都護・武昌統治の任は従来どおり兼ねさせた。
春から初夏 曹爽の蜀伐
- 征西将軍・都督雍涼諸軍事の夏侯玄は曹爽の姑の子であり、その長史の李勝や尚書鄧颺は、曹爽に天下へ威名を立てさせるため蜀を討つよう勧めた。
- 司馬懿はこれを止めたが、曹爽は聞かなかった。
- 三月、曹爽は長安に至り、十余万の兵を発して夏侯玄とともに駱谷口から漢中へ入った。
- 漢中の蜀兵は三万に満たず、多くの将は城を守って涪からの援軍を待とうとしたが、王平は、漢中から涪までは遠く、敵に関城を取られれば大禍になるとして、まず劉敏を興勢に据え、自ら後備となる策を主張した。
- 諸将は疑ったが、護軍の劉敏だけは賛同し、兵を率いて興勢に拠った。旗幟を百余里にわたって張りめぐらせ、守備が厚いように見せた。
閏月から五月 費禕の救援と魏軍撤退
- 閏月、蜀主は大将軍費禕に諸軍を督させて漢中救援に向かわせた。
- 費禕が出発する際、光禄大夫来敏が別れの囲碁を求めた。軍書が飛び交い兵馬はすでに甲冑を着けて出発準備を整えていたが、費禕は顔色も変えず碁を打ち続けた。来敏はこれを見て、彼なら賊を処理できると確信した。
- 夏四月丙辰朔、日食があった。
- 曹爽軍は興勢の前で進めず、関中や氐羌からの輸送も続かず、牛馬や騾驢が多く死に、民や夷人が道で泣き叫ぶ有様となった。
- 参軍楊偉は曹爽に、すぐ撤退しなければ敗北すると進言したが、鄧颺と李勝はこれに反対した。楊偉は彼らは国家を敗る者として斬るべきだと言ったが、曹爽は不快に思った。
- 司馬懿も夏侯玄に書を送り、興勢は険阻で蜀に先取されており、進んでも戦えず退けば遮断されて全軍壊滅しかねないと警告した。夏侯玄は恐れ、曹爽に撤退を説いた。
- 五月、曹爽はついに軍を引いた。費禕は三嶺に進出して帰路を遮ろうとし、魏軍は険路の争奪戦の末、辛うじて通過したが、損失は甚大で、関中はこのため疲弊した。
年末 魏蜀の重臣交代
- 秋八月、秦王曹詢が死去した。
- 冬十二月、崔林が死去した。
- この年、蜀の蔣琬は病を理由に州職を費禕へ譲ることを強く願い、後主は費禕を益州刺史とし、侍中董允を尚書令代行として補佐にあてた。
- 費禕は文書処理が非常に速く、半日ほど政務を取り、その合間に客と交遊し飲食や博戯を楽しんでも職務を滞らせなかった。
- のちに董允がこれを真似しようとしたが、十日もしないうちに事務が滞り、自分には及ばぬと悟って終日執務するようになった。