正月 魏の司空と呉の二宮対立
- 春正月、票騎将軍の趙儼を司空とした。
- 呉では太子孫和と魯王孫霸が同じ宮に住み、礼秩も等しい状態であったため、群臣の多くがこれを問題視した。
- 孫権はようやく宮と属僚を分けたが、これによって兄弟の間に隙が生じた。
陸遜の諫言と全琮一門
- 衛将軍全琮は子の全寄を魯王に属させ、そのことを書いて丞相陸遜に知らせた。
- 陸遜は、子弟に才があれば私門から名利を求めなくても用いられるし、二宮が対立する兆しのある時にどちらかへ私に近づけるのは古来最も忌むところだと返書した。
- しかし全寄は実際に魯王へ阿附して策謀に加わったため、陸遜は、金日磾が一族を厳しく戒めた故事を見習わず全寄を放任すれば、いずれ家門に禍を招くと再び戒めた。
- 全琮はこの諫めに応えず、むしろ陸遜との間に不和を深めた。
魯王派の伸長と宮廷の分裂
- 魯王は意識して当時の名士たちと交わり、偏将軍朱績のもとにも自ら赴いて取り入れようとしたが、朱績は立ったまま辞退して応じなかった。
- こうして侍御や賓客のあいだに派閥が二分され、敵対と疑心が広がり、国中が割れる様相を呈した。
- 孫権は、二宮が学問に励むことを名目に賓客往来を禁じて事態を抑えようとした。
- しかし羊衜は、これでは四方の人々が太子・魯王に過失があると疑い、西北の蜀や魏にまで悪評が及ぶおそれがあると上疏した。
全公主の讒言と太子失寵
- 孫権の長女の全公主は全琮に嫁し、末娘の朱公主(小虎)は朱据に嫁いでいた。
- 全公主は太子生母の王夫人と不和で、孫権が王夫人を皇后に立てようとするとこれを妨げた。太子が即位して怨まれることを恐れ、たびたび太子を中傷した。
- 孫権が病となり、太子に長沙桓王廟への祈祷を命じた際、太子妃の叔父張休が廟の近くにいたため、太子はその家に立ち寄った。
- 全公主は人をやって様子を窺わせ、太子は廟におらず妃の実家で相談していたと讒言した。さらに王夫人が病床の孫権を見て喜色を見せたとも告げた。
- 孫権はこれに怒り、王夫人は憂いのうちに死去し、太子の寵愛はさらに衰えた。
- 魯王派の楊竺・全寄・呉安・孫奇らは、いっそう太子を誹謗し、孫権はこれに惑わされた。
陸遜・顧譚らの諫争と弾圧
- 陸遜は上疏して、太子は国家の正統であり盤石の地位を与えるべきで、魯王は藩臣として尊重しつつも秩序に差を設けるべきだと、三度四度にわたって切実に諫めた。
- さらに自ら都へ赴いて嫡庶の義を陳じようとしたが、孫権は不快に思った。
- 太常顧譚も、尊卑の序を明らかにしなければ骨肉の恩も保てないとして上疏し、太子を安んじることがかえって魯王のためでもあると説いた。
- そのため魯王派は顧譚を憎んだ。かつて芍陂の戦いで功のあった顧承・張休は、全琮の子らと功績争いを起こしており、これが口実にされた。
- 孫権は顧譚・顧承・張休を交州へ流し、張休には追って死を賜った。
- 太子太傅の吾粲は、魯王を夏口に出鎮させ、楊竺らを京師から遠ざけるべきだと請い、またしばしば陸遜へ情勢を伝えたため、魯王派に讒言されて獄に下され処刑された。
- 孫権は中使を何度も送って陸遜を責め立て、陸遜は憤恚のうちに死去した。
- 陸抗が建武校尉としてその兵を継ぎ、葬儀ののち東へ帰った。孫権は楊竺の告発した陸遜の二十事について陸抗に問いただしたが、陸抗が一つ一つ筋道立てて答えたため、孫権の疑いはやや解けた。
魏蜀呉の年内の動き
- 夏六月、趙儼が死去した。
- 秋七月、呉の将軍馬茂が孫権と大臣らを殺して魏に内応しようとしたが、事が漏れて党与ともども誅された。
- 八月、魏では太常の高柔を司空とした。
- 蜀では甘太后が崩じた。これは先主の皇后で後主の母、もとは呉氏の一族である。
- 呉主は校尉陳勲に屯田兵と作事兵三万人を与え、句容から雲陽西城へ至る新たな通路を掘り、市場や倉庫を設けさせた。
- 冬十一月、蜀の大司馬蔣琬が死去した。
- 十二月、費禕が漢中に赴いて諸囲の守備を巡察した。
- 蜀の尚書令董允が死去し、呂乂が後任となった。
- 董允は剛正で、君主には遠慮なく正論を述べ、宦官黄皓にはたびたび責任を問うたため、黄皓はその在世中は黄門丞以上に出世できなかった。
- 費禕は選曹郎の陳祇を侍中に抜擢したが、陳祇は知略と技巧で黄皓と結び、黄皓はここから政務に参与するようになった。
- 黄皓は累進して中常侍に至り、威権を弄してついには蜀漢滅亡の一因となった。後主が董允を軽んじるようになったのも、陳祇が迎合し、黄皓が讒言を重ねたためであった。