資治通鑑魏紀二 烈祖明皇帝上之上 太和元年 元年 227年
春 呉の彭綺平定、魏の内政批判
- 春、呉の解煩督胡綜のもとで、番陽太守周魴が彭綺を撃ち、生け捕りにした。彭綺はもとは魏のために呉を討つ義兵だと称していたが、太原の孫資は以前から、その程度では孫権の腹心を病ませるほどの打撃にはなりえないと見ており、結局その通りになった。
- 二月、魏では文昭皇后の寝園を鄴に立てた。
- 王朗が園陵を見に行くと百姓の貧困が目立つ一方、皇帝は宮室修営に力を入れていたため、大禹・句践・文帝・景帝・霍去病らの先例を引き、まず宗廟・城池を整え、豊年を待ってから他の造営に及ぶべきで、当面は農耕と軍備に務めるべきだと諫めた。
諸葛亮の北伐準備と出師の上表
- 三月、蜀の丞相諸葛亮は諸軍を率いて北へ進み、漢中に駐屯した。長史張裔と参軍蔣琬に留府のことを統べさせた。
- 出発にあたり、諸葛亮は後主に上疏し、先帝が事業半ばで世を去り、今は天下三分・益州疲弊の危急存亡の秋であるが、内外の忠臣は先帝の殊遇に報いようとしているのだから、陛下は聖聴を開き、忠諫の道を塞いではならないと述べた。
- 宮中も府中も一体として賞罰を一にし、偏私して内外で法を異にしてはならないと戒めた。
- 郭攸之・費禕・董允らは忠純の臣であり、宮中の事は大小となく彼らに諮るべきで、向寵は軍事に通じるので営中のことは彼に諮れば和睦と適材適所が保たれると推挙した。
- また、賢臣を親しみ小人を遠ざけることこそ前漢興隆のゆえであり、その逆が後漢傾頽の原因だとし、先帝とともに桓・霊の政治を嘆いたことを回想した。
- 自らについては、もとは南陽の布衣にすぎず、乱世に性命を保つことだけを願っていたが、先帝が三顧してくれたために奔走を誓い、敗軍の際・危難の間に任を受けて以来二十一年、慎み深い自分に大事を託した先帝の明に背かぬよう、南方平定後はいまや甲兵も足りるから北定中原・姦凶掃討・漢室中興をめざすのだと述べた。
- そして、もし討賊復興の任を果たせなければ自分を罪し、また郭攸之・費禕・董允らの怠慢も明らかにせよ、自らも善道を問い正言を納れよと勧めたうえで、遠征に当たり感激して言葉も尽くせないと結んだ。
- 諸葛亮はその後、沔北の陽平石馬に屯した。
- 広漢太守姚伷を掾に辟召し、彼が文武双方の士をあわせて進めることを、剛柔を兼ねて人材の用を広げるものだと称賛した。
魏での対蜀戦略論
- 皇帝は、諸葛亮が漢中にいると聞き、大発兵して攻めようと考え、散騎常侍孫資に問うた。
- 孫資は、曹操でさえ陽平攻略は危うくして後に済い、南鄭は天獄のようだとし、また夏侯淵救出の経験からも南鄭や斜谷道の深険を繰り返し語っていた、聖なる用兵とは勝てると見て戦い、難しければ退くものだと説いた。
- もし今、南鄭へ大軍を進めれば、精兵・転運・鎮守・対呉防衛まで含め十五、六万を要し、さらに徴発が広がって天下を騒がせる、今は大将を要地に配して威で震懾し、数年のうちに中国を充実させれば呉蜀は自ら疲弊する、と主張した。皇帝はこれを採用して遠征をやめた。
貨幣再導入と都の整備
- 文帝が五銖銭を廃して穀帛流通にした結果、濡れた穀で利をむさぼり、薄い絹で市をなすなど偽巧が増え、厳刑でも禁じられなくなっていた。
- 司馬芝らが朝廷で大いに議し、貨幣は国用を豊かにするだけでなく刑罰も減らせるとして、再び五銖銭を鋳るよう求めた。
- 夏四月乙亥、五銖銭を復行した。
- 甲申、洛陽で宗廟の造営を始めた。
- 六月、司馬懿を都督荊・豫州諸軍事として所領を率い、宛に鎮させた。
冬 皇后冊立、肉刑復活論、孟達の叛意
- 冬十二月、貴嬪の河内毛氏を皇后に立てた。毛氏は毛嘉の娘である。
- もともと明帝が平原王だった時には河内の虞氏を妃としていたが、即位後も皇后には立てられなかった。卞太皇太后が慰めると、虞氏は、曹氏は低い出自の者を立てたがり、義によって挙げることがない、内治と外政は相まって成るもので、始めを善くできないなら国祚を失うのもこの道だろうと嘆き、鄴宮へ退けられた。
- かつて曹操・曹丕はいずれも肉刑復活を議しつつ軍事で果たせず、今また太傅鍾繇が、死罪の一部に右趾切断を許し、黥・劓・左趾・宮刑なども古制に近づければ、毎年三千人を生かせると上言した。
- 司徒王朗は、肉刑が廃されて久しく、いま復活させれば恩徳よりも残酷さだけが目立ち、遠人にも悪印象を与える、死刑を減じて髠刑の年数を増す方が、生を与える恩もあり耳目を驚かす刑も避けられると反対した。百余人の議者の多くも同調し、皇帝は呉蜀未平を理由にひとまず中止した。
- この年、呉の昭武将軍韓当が死んだ。その子韓綜は淫乱・不軌を恐れて閏月に家属や部曲を率いて魏へ奔った。
- 以前から文帝に寵遇され、桓階・夏侯尚とも親しかった孟達は、文帝の死と桓階・夏侯尚の死によって不安を深めていた。諸葛亮はこれを知って誘いをかけ、孟達もひそかに蜀への帰順を許した。
- 孟達は魏興太守申儀と不和で、申儀がひそかにこれを上表したため、孟達は発覚を恐れて叛兵を考えた。司馬懿は書を送って慰撫しつつも、諸将が呉漢との連携を警戒して様子見を主張する中、孟達は信義のない人物であり、今こそ互いに疑う時だとして、決断を急ぐべきだと判断した。
- 司馬懿はひそかに進軍し、倍道兼行して八日で孟達の城下へ達した。呉と蜀はそれぞれ西城・安橋・木蘭塞方面へ救援将を出したが、司馬懿は諸将を分けてこれを防いだ。
- かつて孟達は諸葛亮に、宛から洛陽までは八百里、自分の地からは千二百里もあり、事が起これば洛陽への上表と往復だけで一か月を要する、その間に城は固まるし、司馬懿自身は来ず諸将が来ても心配ないと言っていた。
- しかし実際には、挙兵して八日で司馬懿が城下に現れたため、孟達は諸葛亮に、なぜこれほど神速なのかと驚きを伝えたところで、この巻は終わる。