資治通鑑魏紀三 烈祖明皇帝上之下 太和二年 228年
春正月 司馬懿の新城攻略
- 司馬懿は新城を攻め、十六日で陥落させて孟達を斬った。
- 申儀は長く魏興にあって、朝廷の正式な許可を経ずに命令を出し、印章を用いて多くの官職を勝手に授けていたため、司馬懿に召し出されて捕らえられ、洛陽へ送られた。
諸葛亮の北伐開始と魏延の奇策
- 諸葛亮が魏へ侵攻しようとしたとき、魏延は「自分に精兵五千と兵糧運搬五千を与えれば、褒中から秦嶺沿いに東進し、子午道を北上して十日ほどで長安に到達できる。夏侯楙は臆病で無策だから、急襲すれば長安を捨てて逃げるだろう」と進言した。長安の守りは薄く、兵糧も確保できるので、咸陽以西を一挙に平定できるという構想であった。
- しかし諸葛亮は、これは危険の大きい賭けだとして退け、正攻法で隴右を平定する方が確実だと判断した。
祁山出兵と関中の動揺
- 諸葛亮は表向きには斜谷道から郿を攻めるように見せ、趙雲・鄧芝に疑兵を率いさせて箕谷に進ませた。自身は主力を率いて祁山を攻めた。
- 魏は当初、劉備の死後しばらく蜀に大きな動きがなかったため備えが薄く、諸葛亮の出兵を聞いて朝廷も民間も動揺した。
- 天水・南安・安定の三郡は蜀に呼応して魏に背いた。
- 明帝は「諸葛亮は山を頼みとしているが、今回はみずから出てきた。これはかえって迎え撃つ好機だ」として、張郃に五万を授けて西方へ向かわせ、自身も長安へ行幸した。
馬謖の街亭敗戦
- 馬謖は才気にすぐれ、軍略を好んで論じたため、諸葛亮に高く評価されていた。劉備は臨終に際し「言葉が実際以上で、大任には向かない」と戒めていたが、諸葛亮はなお重用した。
- 祁山出兵では、魏延や呉懿ら古参を差し置き、馬謖を先鋒として街亭で張郃と戦わせた。
- ところが馬謖は諸葛亮の指示に背き、布陣を乱し、水場を捨てて山上に拠った。張郃は水路を断って攻め、大勝した。蜀軍は散乱し、諸葛亮は進軍の足場を失って西県の住民千余家を移して漢中へ退いた。
- 馬謖は捕らえられて処刑され、諸葛亮は自ら祭って涙を流し、その遺児も手厚く保護した。
- 蔣琬は、天下が未定の時に智謀の士を殺すのは惜しいと述べたが、諸葛亮は「兵法に勝つには法の厳正が不可欠だ」として、軍法維持のためには処刑もやむを得ないと答えた。
王平の奮戦と諸葛亮の自責
- 馬謖に従っていた王平は、以前から諫めていたが容れられなかった。敗走の際には自部隊千人ほどをまとめ、太鼓を鳴らして整然と守り、張郃に伏兵を疑わせて逼迫を防いだ。その後、諸営の散兵を収容して帰還した。
- 諸葛亮は馬謖と将軍李盛を処分し、黄襲らの兵を王平に与え、参軍に抜擢して五部を統轄させ、討寇将軍・亭侯に進めた。
- 自身も上表して三等の降格を願い、蜀の後主は彼を右将軍としつつ、引き続き丞相の職務を行わせた。
箕谷の敗退と趙雲の評価
- 箕谷でも趙雲・鄧芝の部隊は敗れたが、趙雲が兵をまとめて堅く退いたため、大損害にはならなかった。そのため趙雲も処分されて鎮軍将軍となった。
- 諸葛亮が鄧芝に「街亭では兵が散ったのに、箕谷ではなぜ乱れなかったのか」と問うと、鄧芝は「趙雲が自ら殿を務め、軍需物資もほとんど捨てなかったからだ」と答えた。
- 趙雲には余った絹があったが、恩賞として分けようとする諸葛亮に対し、「戦が不首尾だったのに褒美は不要です。冬の支給に備えて倉に納めてください」と辞退した。諸葛亮はこれを大いに称賛した。
諸葛亮、敗因を省みる
- 再び大軍を起こすよう勧める者もいたが、諸葛亮は「祁山でも箕谷でも兵数は敵より多かった。それでも敗れたのは兵の少なさではなく、将の問題だ」と述べた。
- そこで兵を減らし、将を整理し、賞罰を明らかにし、自らの失敗を国内に公表して軍備を立て直した。兵士は再び鍛えられ、民もこの敗戦を忘れるほどであった。
姜維の帰順と魏の備え
- 天水の参軍姜維は諸葛亮のもとへ降り、胆力と知略を評価されて倉曹掾となり、軍事を扱わせた。
- 曹真は安定など三郡の反乱を鎮めると、諸葛亮は今後陳倉方面から来るだろうと見て、郝昭らに陳倉を守らせ、城を修築した。
夏四月 徐邈の涼州統治
- 明帝は徐邈を涼州刺史に任じた。徐邈は農業を奨励し、穀物を蓄え、学校を立て、善を進め悪を退けた。羌・胡に対しては小過を問わず、大罪の場合だけ部族長に告知した上で処刑したため、威信が行き渡り、州内は安定した。
五月 周魴の偽降と魏の三方面進軍
- 呉王孫権は、鄱陽太守周魴に命じて、山越の有力者の名を利用しつつ曹休を欺かせた。周魴は「自分は譴責を受けて処刑されそうなので、郡を挙げて魏に降りたい」と密書を送り、さらに髪を切って謝罪したふりまでして、偽りを本物らしく見せた。
- 曹休はこれを信じ、歩騎十万を率いて皖へ向かった。明帝はさらに司馬懿を江陵へ、賈逵を東関へ向かわせ、三方面から呉を攻めさせた。
石亭の戦いと曹休の大敗
- 孫権は自ら皖に赴き、陸遜を大都督として黄鉞を与え、朱桓・全琮とともに曹休を撃たせた。
- 朱桓は、曹休は皇族の縁で重用されるだけで名将ではないから、敗走路となる夾石・挂車の険路をあらかじめ塞げば生け捕りにでき、そこから寿春を奪って魏都への足がかりにもなると進言したが、陸遜が慎重論をとったため採用されなかった。
- 魏では蔣済や満寵が、曹休の深入りと地形の不利を憂えていたが、間に合わなかった。
- 石亭で陸遜は中軍、朱桓・全琮は左右翼となって三道から進み、伏兵も用いて曹休を大破した。魏軍は夾石まで追撃され、兵士・牛馬・車両・軍資の損失は甚大であった。
賈逵の救援
- 曹休が深入りしたとき、明帝は賈逵にも合流を命じていた。賈逵は、呉軍は東関ではなく皖へ兵力を集中しているはずだと見て、水陸両面から急行した。
- 途中で曹休敗報を聞き、呉軍が夾石を遮断したと知ると、諸将の慎重論を退けてただちに前進し、多くの旗や鼓で大軍に見せかけた。呉軍はこれに驚いて退き、曹休は辛うじて帰還できた。賈逵は夾石を押さえ、兵糧を補給して曹休軍を立て直した。
- 賈逵と曹休は以前から不仲だったが、このときは賈逵の救援で曹休は命を長らえた。
秋九月以後 曹休の死と北辺
- 皇子曹穆が繁陽王に封じられた。
- 曹休は敗軍の罪を謝したが、明帝は宗室であることを理由に処罰しなかった。曹休は羞恥と憤懣のあまり背中の腫れ物が悪化して死に、満寵が揚州方面の都督として後任となった。
- 護烏桓校尉田豫は鮮卑の鬱築鞬を討ったが、その妻の父である軻比能が三万騎で馬城に包囲した。上谷太守閻志が鮮卑に信頼されていたため、説得して包囲を解かせた。
冬十一月 王朗の死
諸葛亮の後主への上奏
- 諸葛亮は、曹休の敗北で魏が東に兵力を割き、関中が手薄になったと見て、再度の出兵を主張した。群臣にはなお疑う声が多かった。
- そこで後主に対し、先帝劉備の遺志は漢賊両立せずという一点にあり、座して滅亡を待つよりは討伐に出るべきだと述べた。自分は南中平定ののち北伐に当たったが、議者の慎重論には賛同できないとした。
- さらに、劉繇・王朗のように議論ばかりして好機を失うこと、曹操ほどの人物ですら数々の危地や失敗があったこと、自軍も一年足らずで多くの将兵を失っていることを挙げ、「一州の力で持久するだけではいずれ立ちゆかない」と論じた。
- 最後に、先帝も大敗から立ち直って巴蜀を取り、夏侯淵を討って漢の事業を興したではないかと説き、自分は死ぬまで力を尽くすが、成敗利鈍はあらかじめ決められないと結んだ。
十二月 陳倉攻囲
- 諸葛亮は散関から出て陳倉を囲んだ。しかし郝昭がすでに備えを整えていたため、すぐには落とせなかった。
- 諸葛亮は郝昭の同郷人である靳詳を城外から説得に向かわせたが、郝昭は魏の法と自分の受けた恩義を挙げ、「もはや必死あるのみ」と拒絶した。諸葛亮が再度説得させても、郝昭は「私はお前を知っているが、矢は人を選ばない」と答えた。
- 諸葛亮は数万の兵、郝昭は千余であり、援軍もまだ来ないと見て攻勢を強めたが、雲梯・衝車・井闌・土塁・地道などの攻城手段はいずれも郝昭に防がれた。
- 二十日余り攻防が続くうち、曹真は費耀らを派遣して救援し、明帝は張郃を方城から召し戻した。送別の席で明帝が「将軍が着くまでに陳倉は落ちていないか」と問うと、張郃は指を折って日数を数え、「私が着く前に諸葛亮の方が退いているでしょう」と答えた。
- 実際、張郃到着前に蜀軍は糧尽きて撤退した。追撃した王双は諸葛亮に討たれ、郝昭には関内侯の爵が与えられた。
遼東情勢と公孫淵
- 公孫康の死後、子の公孫晃・公孫淵が幼かったため、官属たちは弟の公孫恭を立てていた。しかし淵は成長すると恭を脅して位を奪った。
- 侍中劉曄は、公孫氏は海と山に守られ外夷とも連絡しうる遠方勢力で、世襲支配が長く続けば必ず禍になるから、新旧交代で内紛のある今こそ先手を打って討つべきだと進言した。
- だが明帝はこれを容れず、公孫淵を揚烈将軍・遼東太守に任じた。
呂範の死
- 呉では呂範を大司馬にしようとしたが、印綬が届く前に死去した。
- 呂範は孫策時代から財政を担当し、孫権が若いころ私的な願いをしても必ず主君に報告して許しを得るなど、忠実で慎重だった。一方で周谷は帳簿操作で孫権を助けたため当時は喜ばれたが、政務を執るようになってからの孫権は、忠誠ゆえに呂範を信任し、周谷のような者は用いなかった。